見出し画像

「良かれと思って」が部下を潰す:「マルトリートメント」を知り、育てる上司・育つ組織へー川上真史氏より

 川上真史ビジネス・ブレークスルー大学教授の「企業と心理学 トピックス #59 マルトリートメント」というテーマを取り上げます。

 今回は、組織における人材育成やコミュニケーションの質を根底から見直す上で、非常に重要な概念である「マルトリートメント」について解説しています。これは、特に教育や親子関係の文脈で使われることが多い言葉ですが、企業組織における上司と部下の関係にも深く関わる問題です。ここでは、その内容から、企業活動における示唆を考察します。

マルトリートメントとは何か?

 マルトリートメント(maltreatment)とは、直訳すれば「不適切な対応」を意味します。接頭語の「マル(mal-)」が「不適切な」「悪い」といった意味を持ち、「トリートメント(treatment)」が「取り扱い」「対応」を指します。

 講義では、これを「他者に対する不適切な対応」と定義し、特に「一般的に上位とされる人の下位の人に対する不適切な対応」として説明しています。企業で言えば上司から部下へ、学校で言えば教師から生徒へ、家庭で言えば親から子へ、といった関係性の中で生じやすい問題です。

 重要なのは、マルトリートメントが対象とする範囲の広さです。その定義には、「相手の成長、心身の健康、安定した業務遂行などを妨げるような意識的、無意識的な対応」が含まれます。暴力や暴言といった、誰の目にも明らかな「害悪」だけを指すのではありません。
 むしろ、指導する側が「良かれと思って」「教育の一環として」行っている行為が、結果的に相手の成長を妨げ、心身に悪影響を及ぼしているケースこそが、この概念の核心にあります。

 さらに、「直接的に法には触れないような不適切な対応も含まれる」という点も極めて重要です。パワーハラスメントとして法的に断罪されるレベルには至らない、いわゆる「グレーゾーン」の言動が、実はマルトリートメントに該当し、従業員のモチベーションや組織の生産性を静かに蝕んでいる可能性があるのです。

職場に潜む「心理的マルトリートメント」の具体例

 講義では、身体的なものよりも、職場で無意識のうちに行われがちな「心理的マルトリートメント」に焦点を当て、7つの具体的な類型を挙げています。これらは、多くの管理職が「指導」の名のもとで行ってしまいがちな行為であり、自省のきっかけとなるでしょう。

  1. 相手を貶める
     侮辱、悪口、陰口、人格否定はもちろんのこと、特に注意が必要なのが「いじり」です。上司が部下との距離を縮めようと、あるいは場の雰囲気を和ませようとして安易に部下を「いじる」行為は、多くの場合、部下の尊厳を傷つけ、成長や動機づけには決してつながりません。

  2. 孤立化させる
     特定の部下を無視したり、意図的に情報を与えなかったり、仕事から外したりする行為です。指導者側は「本人が自ら気づくべきだ」という意図を持っているのかもしれませんが、これは相手を組織から疎外し、心理的安全性を著しく損なう典型的なマルトリートメントです。

  3. 必要以上の叱責
     感情に任せた大声での叱責や、他の従業員が見ている前での叱責は、相手に羞恥心と恐怖心を与えるだけで、行動改善にはつながりません。「怒られて成長する」というのは幻想であり、むしろ上司への不信感を募らせる逆効果な行為です。

  4. 承認剥奪
     部下が成果を上げたにもかかわらず、「これくらいで褒めるとつけあがる」といった考えから、意図的に称賛や感謝、正当な評価を与えない行為です。本来得られるはずの承認を奪われることは、従業員のモチベーションを著しく低下させます。

  5. 不当な懲罰
     「次失敗したら、このプロジェクトから外すからな」というように、ミスに対して不釣り合いな、あるいは論理的関連性のない罰を与えたり、それをほのめかしたりする行為です。これは恐怖による支配であり、健全な挑戦や学びの機会を奪います。

  6. 詰問
     「なぜいつも同じミスをするんだ」「何度言えばわかるんだ」といった、相手が答えようのない問い詰めです。これは指導ではなく、上司自身の苛立ちをぶつけているに過ぎません。このような詰問は、部下を萎縮させ、思考停止に陥らせるだけです。

  7. 不合理なルール
     「始業時刻は9時だが、8時半には全員着席していること。ただし仕事はしてはならない」といった、合理的な根拠のないルールを強制する行為です。このようなルールへの服従を強いることは、それ自体が目的化し、従業員の自律性や主体性を奪い、組織への忠誠心を歪んだ形で試すことにつながります。

マルトリートメントが生まれる背景と、それを乗り越えるために

 では、なぜこうしたマルトリートメントが職場で後を絶たないのでしょうか。講義では、その背景にある「思い込み」や「組織文化」を指摘しています。

 最大の要因は、「指導・教育とは昔からこういうものだ」「自分もそのように指導・教育されて育った」という過去の成功体験や慣習への固執です。かつて自分が受けた厳しい指導を乗り越えてきたという自負が、同じ方法論を部下に適用することが正しいという誤った信念を生んでしまうのです。

 また、「上下関係の重視」や「根性論の重視」といった、旧来の日本的組織文化もマルトリートメントの温床となります。上位者の言うことには絶対服従すべきであり、理不尽な要求にも根性で耐えることが美徳である、という価値観が根強く残っている組織では、不適切な指導が正当化されやすくなります。

 このような状況を打破し、マルトリートメントを防止するためには、根本的な発想の転換が必要です。講義では、そのための指針として以下の3点を挙げています。

 第一に、判断基準の転換です。「昔からこうだった」という慣習ではなく、「その対応が相手の成長、安定にとって有害なのか、有益なのか」という一点を、あらゆる指導の判断基準に据えることが求められます。

 第二に、組織文化の変革です。「上下関係・根性論」を重視する文化から、「成果・成長・改善」を重視する文化へとシフトすることが不可欠です。目的は、不合理なルールに従わせることではなく、組織全体のパフォーマンスを最大化することであるべきです。

 第三に、仕組みによる担保です。ハラスメント研修などを一度きりのイベントで終わらせるのではなく、マルトリートメントに該当する具体的な行為を事例として明示し、社内規定に落とし込むことが重要です。そして、それが確実に適用・運用されるよう、継続的にモニタリングし、問題が発見されれば迅速にフィードバックする体制を構築する必要があります。

 マルトリートメントという概念を組織全体で共有し、これらの対策を講じることは、単なるリスク管理にとどまりません。それは、従業員一人ひとりのモチベーションとエンゲージメントを高め、組織の効率性と成果を向上させるための、極めて重要な経営課題であるといえるでしょう。

【人事視点】マルトリートメント対策を組織開発の中核に据えることを考えてみる

 人事の立場から川上氏の講義を拝聴し、「マルトリートメント」という概念が、現代の企業が抱える多くの人事課題を解き明かし、解決へと導くための強力なレンズとなり得ると確信しました。離職率の高さ、メンタルヘルス不調者の増加、エンゲージメントの低迷といった問題の根源には、法的なハラスメントには至らないまでも、従業員の心を静かに蝕む「不適切な関わり」が存在しているケースが少なくありません。

 ここでは、人事部門がマルトリートメント対策をどのように組織に実装し、企業の持続的成長につなげていくべきか、具体的な視点と施策を述べたいと思います。

「コンプライアンス遵守」から「生産性向上」へのパラダイムシフト

 これまで、多くの企業におけるハラスメント対策は、パワーハラスメント防止法などの法令遵守、すなわち「やってはいけないこと」を定義し、違反者を罰するというコンプライアンスの文脈で語られてきました。これはもちろん重要ですが、守りの姿勢に終始しがちです。

 マルトリートメントという概念を導入する最大の意義は、この問題を「コンプライアンス課題」から「組織開発・生産性向上の課題」へとパラダイムシフトさせる点にあります。法に触れないグレーゾーンの不適切な関わりが、いかに従業員の心理的安全性を脅かし、自由な発想や挑戦する意欲を削ぎ、結果として組織全体のパフォーマンスを低下させているか。この「見えにくいコスト」を可視化し、経営課題として認識させることが、人事部門の最初の重要な役割となります。

 「マルトリートメントの防止は、単なるリスクヘッジではない。従業員のエンゲージメントと創造性を解放し、イノベーションを生み出すための『攻めの投資』である」というメッセージを、経営層と共有することが全ての出発点となります。

管理職研修のアップデート:「無意識の加害性」に気づかせる

 多くの管理職は、悪意なく、むしろ「部下のため」を思ってマルトリートメントを行っています。したがって、単に「~してはいけない」という禁止事項を並べるだけの研修では、彼らの行動変容を促すことは困難です。求められるのは、自らの指導スタイルを内省し、「無意識の加害性」に気づくためのプログラムです。

 従来の管理職研修を以下のようにアップデートすることが考えられるでしょう。

  1. アンコンシャスバイアス研修との接続
     「自分もこうやって育てられたから、これが正しい指導法だ」「最近の若者は打たれ弱い」といった思い込み(バイアス)が、いかにマルトリートメントにつながりやすいかを理論的に解説します。

  2. ケーススタディの充実
     講義で挙げられた7つの類型(相手を貶める、承認剥奪、詰問など)に基づいた具体的な職場シーンをケーススタディとして用意します。参加者に「この対応の何が問題か」「相手の成長にとって有益か、有害か」「有益な関わり方をするならどうするか」を徹底的に議論させ、自分自身の行動と照らし合わせる機会を創出します。

  3. 360度評価や部下サーベイとの連動
     研修での学びを一方通行で終わらせず、360度評価やパルスサーベイなどで得られた部下からのリアルなフィードバックと突き合わせることで、自己認識のズレを客観的に把握させます。これにより、行動変容への動機づけが格段に高まります。

「文化」と「制度」の両輪でマルトリートメントを根絶する

 個々の管理職の意識改革と並行して、マルトリートメントを許容しない組織文化の醸成と、それを支える人事制度の構築が不可欠です。

<文化醸成の観点>

  • トップメッセージの継続的発信: 経営トップが自らの言葉で、心理的安全性の重要性とマルトリートメント根絶への強いコミットメントを、全社集会や社内報などあらゆる機会を通じて発信し続けることが極めて重要です。

  • 称賛文化の醸成: 「承認剥奪」とは真逆の、ポジティブな行動や成果を積極的に認め、称賛し合う文化を意図的に作ります。サンクスカードの導入や、ピアボーナス制度、社内表彰制度の活性化などが有効な施策となります。

  • 失敗を許容し、学びを促進する文化: 「不当な懲罰」が行われる背景には、失敗に対する不寛容さがあります。失敗から学び、次に活かすプロセスを評価する文化を醸成することで、心理的安全性を高め、挑戦を促します。

<人事制度の観点>

  • 評価制度の見直し: 管理職の評価項目に「部下育成」や「チームの心理的安全性向上」といった項目を明確に位置づけ、そのウェイトを高めます。部下のエンゲージメントサーベイの結果を評価の一部に組み込むことも有効です。これにより、「成果さえ出せば、部下にどう接しても良い」という考え方を是正します。

  • 1on1ミーティングの質の担保: 形式的な1on1が「詰問」の場にならないよう、傾聴やフィードバックのスキルに関するトレーニングを管理職に提供します。また、部下が安心して本音を話せる場とするためのガイドラインを策定・周知徹底します。

  • 相談窓口の機能強化: 従来のハラスメント相談窓口に加え、「人間関係や上司との関わり方に関するコンサルティング窓口」といった、より心理的ハードルの低い相談窓口を設置します。相談者のプライバシー保護と不利益な取り扱いをしないことを徹底し、誰もが安心して利用できる信頼性を確保することが重要です。

 マルトリートメント対策は、一過性のキャンペーンであってはなりません。それは、組織のOSを「支配と管理」から「支援と協働」へとアップデートしていく、息の長い組織開発そのものです。人事部門がその中核を担い、経営と現場を巻き込みながら粘り強く推進していくことで、従業員一人ひとりが尊重され、持てる能力を最大限に発揮できる、真に強くしなやかな組織を築き上げることができるのではないでしょうか。


いいなと思ったら応援しよう!