「思ったほど続かない」その感情の正体とは? 人事が知っておきたい「インパクト・バイアス」ー川上真史氏から考える
川上真史ビジネス・ブレークスルー大学教授の「企業と心理学 トピックス #70 インパクト・バイアス」というテーマを取り上げます。
感情の「強さ」と「長さ」を過大に見積もってしまう心の癖
私たちは日々、将来の出来事について予測を立てながら生きています。「この会社に入れば一生幸せになれるはずだ」「もし失敗したら、もう立ち直れない」といった具合です。しかし、心理学の知見によれば、こうした予測の多くは、実は正確ではありません。これが今回のテーマである「インパクト・バイアス」です。
インパクト・バイアスとは、将来経験する出来事に対して、そこで感じるであろう感情の強さや、その感情が続く期間を、実際よりも過大に予測してしまう心理的傾向のことを指します。これは「楽しみ」や「喜び」といったポジティブな感情だけでなく、「不安」や「恐怖」といったネガティブな感情の両方において発生します。
例えば、子供の頃の遠足です。「明日は最高に楽しい一日になる!」と期待に胸を膨らませていたものの、実際に行ってみると「まあ、こんなものか」と感じたり、その高揚感が思ったよりも長く続かなかったりした経験です。
あるいは、ずっと欲しかったネックレスやバッグを買った瞬間は最高に嬉しくても、しばらくするとクローゼットに眠ったまま、ということも珍しくありません。私たちは、特定の出来事から得られる感情的インパクトを、実際以上にドラマチックに、そして永続的なものとして見積もってしまう傾向があるのです。
キャリア選択における「リアリティ・ショック」と意思決定の歪み
このバイアスがビジネスやキャリアの場面で顔を出すと、少々厄介な問題を引き起こすことがあります。
その代表例が、就職や転職における「過度の期待」です。「この憧れの企業に入社できれば、毎日が充実して、素晴らしい上司と同僚に恵まれ、一生楽しく働ける」といったイメージを抱いてしまうことがありますが、これは典型的なインパクト・バイアスと言えます。過剰に期待値を上げてしまった結果、いざ入社して現実の業務や人間関係に直面したとき、「思っていたのと違う」という大きなギャップに苦しむことになります。これが「リアリティ・ショック」と呼ばれる現象です。
調査によると、入社直後はエンゲージメント(組織への愛着心)が高いものの、半年ほど経過すると最低レベルまで落ち込むケースが見られるといいます。これは、企業というものを「完璧な場所」として過大に美化して予測してしまった反動であり、結果として早期離職やバーンアウト(燃え尽き症候群)につながるリスクを孕んでいます。
一方で、ネガティブな予測におけるバイアスも、私たちの行動を阻害します。「管理職昇進試験を受けてもし落ちたら、もう会社にいられないほど惨めな思いをするだろう」「新しいプロジェクトで失敗したら、会社が傾いてしまうかもしれない」といった具合に、失敗した際の感情的ダメージや影響を過大に見積もってしまうのです。その結果、必要以上の不安に駆られて一歩が踏み出せなくなったり、パニックに陥って冷静な対処ができなくなったりするという弊害が生じます。
私たちが忘れている二つの機能:「心理的免疫」と「順化」
なぜ、私たちはこれほどまでに感情予測を誤ってしまうのでしょうか。川上教授は、私たちが自分自身に備わっている二つの重要な機能を計算に入れていないからだと指摘します。
一つ目は「免疫的ネグレクト(Immune Neglect)」です。私たちの心には、体と同じように、ダメージを受けても自動的に回復しようとする「心理的免疫システム」が備わっています。失恋や失敗で深く落ち込んだとしても、時間が経てば自然と回復し、立ち直っていく力を持っています。
しかし、将来を予測する際、私たちはこの「回復機能」を過小評価したり、無視したりしてしまいがちです。その結果、「この失敗をしたら一生立ち直れない」という極端なネガティブ予測に囚われてしまうのです。
二つ目は「順化(Habituation)」への理解不足です。順化とは、ある刺激が継続すると、徐々にその反応が弱くなり、最終的には慣れてしまう現象を指します。
例えば、嘘発見器(ポリグラフ)の実験でも、大きな音が定期的に鳴り続けると、最初は驚いていた身体反応が次第になくなっていくことが確認されています。ポジティブな出来事も同様で、どんなに憧れていた環境や欲しいものであっても、時間が経てば「慣れ」が生じます。しかし、インパクト・バイアスがかかっている状態では、この「慣れていくプロセス」が欠落しており、「今の感動が永遠に続く」と誤認してしまうのです。
バイアスを修正し、適切な意思決定を行うために
では、このインパクト・バイアスを修正し、より現実的な予測に基づく意思決定を行うにはどうすればよいのでしょうか。いくつかの具体的なアプローチが挙げられています。
まず有効なのは「実体験情報の取得」です。インターネット上の情報は偏っている可能性があるため、実際にその経験をした人(例えば、その会社で働いている先輩社員など)から直接、一次情報としての体験談を聞くことが重要です。
次に「焦点化バイアスの修正」です。特定の魅力的な仕事内容や、あるいは特定の不安要素だけに焦点を当てるのではなく、通勤時間、勤務条件、人間関係など、その他の要素もリストアップし、全体像を見るようにします。視野を広げることで、一点突破の過剰な感情予測を和らげることができます。
また、ネガティブな予測に対しては「コーピングの計画」が有効です。ただ不安がるのではなく、「もし最悪の事態が起きたらどう対処するか」という具体的な行動計画を事前に立てておくことで、漠然とした恐怖を軽減できます。さらに、感情予測に「幅」を持たせることも大切です。「最高ならここまで楽しめるが、最低でもこれくらいだろう」と、予測にレンジ(幅)を設けることで、冷静さを取り戻せます。
重要なのは、感情の「内容(嬉しい、悲しい)」自体は間違っていないということです。修正すべきは、その「強さ」と「継続期間」の見積もりです。自分自身の回復力や順化の機能を信じ、過剰なドラマを描きすぎないことが、賢明なキャリア選択や意思決定への鍵となるとのことでした。

【人事視点】組織内の「期待」と「不安」のマネジメントとして
採用・オンボーディングにおける「期待値コントロール」の一手
私たち人事の仕事において、この「インパクト・バイアス」の概念は、特に採用から定着(オンボーディング)のフェーズで非常に示唆に富むものです。
候補者、特に新卒や未経験の若手層は、どうしても企業に対して理想化されたイメージを持ちがちです。入社が決まった瞬間をピークに、「この会社に入れば全てが上手くいく」というポジティブなインパクト・バイアスが働いている可能性があります。しかし、川上教授が指摘するように、入社後の「リアリティ・ショック」は早期離職の大きな要因となり得ます。
ここで意識したいのは、選考段階から意図的に「順化」や「現実」を含めた情報提供を行うことではないでしょうか。自社の魅力だけでなく、泥臭い業務の現実や、大変な局面についても、現場社員の「一次情報」として率直に語ってもらう機会(座談会やOB/OG訪問など)を設けることは有効な施策と考えられます。これは単にネガティブな情報を開示するということではなく、候補者の過度な期待(強さと長さの過大予測)を適正化し、入社後の「こんなはずじゃなかった」を防ぐための予防線となります。入社後の感情の「幅」を事前に予測してもらう手助けをすることは、長く活躍してもらうための親切なガイドといえるかもしれません。
昇進・キャリアチェンジへの「不安」を解きほぐすアプローチ
一方で、社内での昇進打診や新しい役割へのアサインにおいて、尻込みしてしまう社員への関わり方にもヒントがあります。
優秀な社員であっても、管理職への昇進を打診された際に、「責任が重すぎて耐えられない」「失敗したら終わりだ」といったネガティブなインパクト・バイアスに陥り、固辞するケースがあります。このような場合、本人は失敗した時の感情的ダメージを過大に、かつ永続的に続くものとして見積もっています。
こうした不安に対して「やってみれば大丈夫」と精神論で励ますだけでなく、論理的にバイアスを解くサポートができるかもしれません。例えば、「コーピングの計画」を一緒に考えることです。「もし失敗したとしても、具体的にどのようなサポート体制があるか」「最悪のケースでも、どのようなリカバリー策があるか」を具体的に提示することで、漠然とした恐怖の「量」を減らすことができます。
また、「心理的免疫システム」の存在を伝えることも、背中を押す一つの材料になりそうです。過去に困難を乗り越えた経験を本人に振り返ってもらい、「あなたには回復する力がある」と認識してもらうことで、過度な防衛反応を和らげ、一歩を踏み出す勇気につなげられるのではないでしょうか。
組織変革における「熱狂」の後のケア
組織全体としてもインパクト・バイアスが発生するという点も、見逃せないポイントです。
新しい人事制度の導入や、新規プロジェクトの立ち上げ時、あるいは全社的なキックオフイベントなどで、組織全体が高揚感に包まれることがあります。「この制度が変われば、会社は劇的に良くなる!」という集団的な期待の高まりです。しかし、どんなに素晴らしい施策であっても、必ず「順化」が訪れます。時間が経てば新鮮味は薄れ、日常の一部となります。
人事として懸念されるのは、この「祭りの後」のモチベーション低下です。スタート時点の盛り上がり(インパクト)だけに焦点を当てるのではなく、バイアスが剥がれ落ち、日常に戻った後の「定着・継続のプロセス」こそを綿密に設計しておきたいところです。具体的には、制度導入後の地道な運用フォローや、小さな成功体験の定期的な共有など、派手さはなくとも継続的な刺激を提供し続ける仕組みづくりが求められます。
「最初はすごく良く見えても、人間は慣れる生き物である」という前提に立ち、過度な期待に依存しない、持続可能な組織運営を目指す視座を持つことが、私たち人事には必要とされているのかもしれません。
従業員のメンタルヘルス・リテラシーとしての活用
最後に、この「インパクト・バイアス」という知識自体を、従業員のセルフケアのツールとして提供することも考えられます。
仕事上のミスやトラブルに直面した際、パニックに陥ってしまう社員は少なくありません。そのような時に、「今、自分はインパクト・バイアスにかかっていないか?」「将来の絶望を過大に見積もっていないか?」と自問自答できる知識があれば、不必要なメンタル不調を防ぐことができるかもしれません。
研修や社内報などを通じて、「私たちの心には回復機能(免疫)がある」、「感情の予測にはズレが生じるのが普通である」といった心理学の知見を共有することは、従業員一人ひとりがしなやかに働くための「心の防具」を配るようなものです。過剰なポジティブシンキングを強要するのではなく、人間の認知の癖を理解し、冷静に自分自身を客観視できる組織風土を作っていくことも、人事が果たせる大切な役割の一つではないでしょうか。

