人的資本経営は「投資」である―エンゲージメント向上と俗説打破で実現する、企業のサステナブルな未来ー川上真史氏からの学び・考察
川上真史ビジネス・ブレークスルー大学教授の「企業と心理学 トピックス #55 人的資本経営と心理学」というテーマを取り上げます。
現代の企業経営が直面する大きなテーマとして、「DX(デジタル・トランスフォーメーション)経営」と並び、「人的資本経営」の重要性が叫ばれて久しいです。本資料は、この人的資本経営を成功に導く鍵が心理学にあると説き、多くの企業が陥りがちな罠や、未来を見据えて本当に価値のある人材投資のあり方を明らかにしています。
人的資本経営の本質と企業のサステナビリティ
川上氏がまず取り上げているのが、人的資本経営の基本的な考え方です。それは、「人」をコストではなく、企業の持続的な成長と新たな価値創造を生み出すための「資本」として捉えるという視点です。人に投資し、その投資以上のリターン(価値)を創出してもらう。この好循環を経営の仕組みとして構築することこそが、人的資本経営の核心であると述べられています。
この考え方は、特に企業のサステナビリティ(持続可能性)と密接に結びついています。投資家が企業を評価する際、単年度の業績だけでなく、将来にわたって成長し続けられるかという点を重視するのは当然のことです。企業のサステナビリティを測る上で、本資料は三つの重要な視点を提示しています。一つ目は「事業が拡大し続けること」、二つ目は顧客や社会といった「ステークホルダーからの認知度が向上し続けること」、そして三つ目が「社員のエンゲージメント度が高まり続けること」です。
特に三つ目の「社員エンゲージメント」は、人的資本経営の成果を測る上で極めて重要な指標となります。社員が仕事に情熱を注ぎ、自発的に貢献しようとする意欲(エンゲージメント)が低い組織が、持続的に成長していくことはあり得ません。逆に、エンゲージメントが高い企業は、低い企業に比べて収益性が20%以上向上し、離職率は50%以上も低下するという具体的なデータも示されており、エンゲージメントへの投資が、いかに企業の成長に直結するかが強調されています。
人的資本経営を阻む「俗説」という名の罠
しかし、多くの企業で人的資本経営が掛け声倒れに終わってしまうのはなぜでしょうか。本資料は、その大きな原因の一つとして、人材論にまつわる科学的根拠のない「俗説」が蔓延していることを挙げています。経営者や管理職が、これらの俗説に基づいて人材育成や組織運営を行ってしまうことで、投資が無駄になるばかりか、かえって人材を疲弊させてしまう危険性があると警鐘を鳴らしています。
例えば、以下のような俗説が挙げられています。
「厳しさがないと人は育たない」という俗説
多くの管理職が信じがちなこの言葉ですが、心理学的には明確な誤りであると断じられています。上司からの過度なプレッシャーや厳しい態度は、部下に不要な不安を与え、新たな挑戦への意欲を削いでしまいます。本当に向き合うべきは、顧客や市場、競合から来るプレッシャーであり、マネジメントの役割は、部下がその本質的なプレッシャーに立ち向かえるよう支援することにあります。上司が厳しく接することは、むしろ部下の成長を阻害し、「潰してしまう」ことにつながりかねないのです。
「楽しく仕事をすることが成果につながる」という俗説
「厳しさ」の対極として語られがちな「楽しさ」もまた、危険性をはらんでいると指摘されます。「楽しい」という感情は長続きせず、人はすぐにその状況に慣れてしまいます。すると、かつての楽しさが失われたと感じ、かえってモチベーションの低下や燃え尽き(バーンアウト)を招きやすくなります。成果を持続的にもたらすために重要なのは、一過性の「楽しさ」ではなく、物事の本質を探求しようとする知的な「興味・関心」をいかに引き出すかであると述べられています。
「人は一定の年齢になると成長できなくなる」という俗説
これもまた、広く信じられている俗説です。しかし、研究によれば、人は何歳になっても成長することが可能です。問題は、その成長のさせ方にあります。大人には大人に適した教育方法があり、子供と同じようなやり方では効果が上がらないのは当然です。年齢に応じて学習方法を最適化することで、誰もが成長し続けることができるのです。
「地頭の良い人が成果を出す」という俗説
「地頭」という言葉ほど、曖昧で便利な言葉はありません。しかし、その定義は極めて曖昧で、何を指しているのか、どうすれば高められるのかが不明確なまま使われています。このような定義なき俗語に基づいて採用や育成の判断を行うことは、効果的な人材投資には繋がりません。
これらの俗説に惑わされず、心理学をはじめとする科学的な知見に基づいたアプローチを取ることこそが、人的資本経営を成功させるための第一歩であると、川上氏は強く訴えています。

シンギュラリティ時代に真に価値を持つ人的資本
さらに、AIの知性が全人類の知性を超える「シンギュラリティ」が、早ければ2029年にも到来するという予測に触れ、このような時代にこそ、人的資本の重要性が増すと論じています。かつて産業革命で機械が人間の筋力を超えたように、これからはAIが人間の知的作業の多くを代替していきます。
このような時代変化の中で、企業が投資し、価値を最大化すべき人的資本とは何でしょうか。以下の三つを挙げています。
ラーニング・アジリティ(学習機敏性)
未知の経験や環境変化に直面した際に、素早く学び、適応していく力。クリエイティビティ(創造性)
AIには生み出せない、新しいアイデアや価値を創造する力。シナジー創出力
多様な人々と協働し、一人では成し得ない大きな成果(1+1を2以上にする力)を生み出す力。
そして最も重要なことは、これら三つの力は、社員が「いやいや」働いている状態では決して発揮されないということです。仕事に対する自発的な貢献意欲、すなわち「エンゲージメント」が高い状態にあってこそ、人は学び、創造し、他者と共創しようとします。結局のところ、人的資本経営の根幹をなすのは、いかにして社員のエンゲージメントを高め、維持し続けるかという一点に集約されるのです。
【企業人事の視点】明日から実践する、科学に基づく人事戦略
川上氏の講義内容は、私たち企業人事にとって、日々の業務を見つめ直し、より戦略的な役割を果たしていくための多くの示唆を与えてくれます。単なる理想論ではなく、心理学的な根拠に基づいた具体的な提言は、人事施策の企画・実行において強力な羅針盤となるはずです。
人事部門の役割変革:「コストセンター」から「戦略的価値創造拠点」へ
まず、私たち人事は、自らの役割認識を根本から変革する必要があります。人的資本経営の考え方に立てば、人事部門はもはや給与計算や労務管理といったオペレーションを担うだけのコストセンターではありません。人を「資本」と捉え、その価値をいかに最大化するかを設計・実行する「戦略的価値創造拠点」へと進化しなければなりません。
これは、人事関連のKPIを見直すことから始められます。例えば、研修の実施回数や参加率といった「行動指標」だけでなく、研修後の行動変容や業績への貢献度、エンゲージメントスコアの向上といった「成果指標」を重視する必要があります。採用コストや人件費を単なる「費用」として管理するのではなく、それらがどれだけの「リターン(企業価値向上)」を生み出したかという「投資対効果(ROI)」の視点で評価し、経営層に説明していく責務があります。エンゲージメントサーベイの結果と、部署ごとの生産性や離職率、顧客満足度などを掛け合わせて分析し、エンゲージメント向上が事業に与える正のインパクトを可視化することも、人事の新たな役割です。
「俗説」を排した新時代のマネジメント研修と組織開発
本資料で指摘されている「俗説」は、多くの職場で今なお根強く信じられています。これらの俗説を一つひとつ丁寧に解きほぐし、科学的根拠に基づいたマネジメントスタイルを組織に浸透させていくことは、人事部門の重要なミッションです。
特に、「厳しさ」に関する誤解を解くことは急務です。これからの管理職研修では、「厳しく叱咤激励するリーダー」ではなく、「部下が本来向き合うべき課題への挑戦を支援し、心理的安全性を確保するサーバントリーダー」を育成することに主眼を置くべきです。1on1ミーティングの質を高めるためのコーチング研修や、部下の内発的動機付けを促すためのフィードバック研修などを体系的に導入することが求められます。
また、「楽しさ」ではなく「興味・関心」を引き出すという視点は、キャリア開発施策を考える上で非常に有効です。社員一人ひとりが自らのキャリアに関心を持ち、主体的に成長していけるよう、キャリア自律を支援する仕組みを強化すべきです。例えば、定期的なキャリア面談の実施、挑戦的な目標設定を支援する制度(ストレッチアサイン)、社内公募制度や部門横断プロジェクトの活性化などを通じて、社員が仕事の中に「意味」や「意義」を見出し、知的好奇心を持って取り組める機会を意図的に創出していくことが重要になります。
AI時代を勝ち抜くための採用・育成戦略の見直し
シンギュラリティの到来を見据え、採用と育成のあり方も大きく見直さなければなりません。
採用においては、「地頭」といった曖昧な基準での判断から脱却し、将来の活躍を予測するコンピテンシー、特に「ラーニング・アジリティ」を客観的に評価する仕組みが必要です。過去の経験から何を学んだかを深く掘り下げる構造化面接(行動特性面接)の導入や、新しい情報やスキルを学ぶ能力を測るアセスメントツールの活用が考えられます。変化の激しい時代においては、現時点での知識やスキル以上に、「学び続ける力」こそが最も重要な採用要件となるでしょう。
育成においては、「年齢に関わらず人は成長する」という信念のもと、全世代の社員に対するリスキリング・アップスキリングの機会を提供することが不可欠です。特に、経験豊富なミドル・シニア層に対しては、一方的な知識注入型の研修ではなく、彼らの経験知を尊重し、それを新たな知識と結びつけて実践に繋げる「経験学習」のサイクルを回せるようなプログラム設計が求められます。AIを使いこなすデジタルリテラシー研修はもちろんのこと、本資料が指摘する「クリエイティビティ」や「シナジー創出力」を高めるためのワークショップや、越境学習の機会を提供することも有効でしょう。

エンゲージメントを核としたデータ駆動型人事の推進
最終的に、これらすべての施策の土台となるのが「社員エンゲージメント」です。人事は、エンゲージメントを組織の健康状態を示す最重要指標(バイタルサイン)と位置づけ、その向上に全力を注ぐべきです。
そのためには、年に一度の大規模なサーベイだけでなく、より短い間隔で社員のコンディションを把握する「パルスサーベイ」などを活用し、リアルタイムで組織の課題を可視化することが有効です。そして、重要なのはその先です。サーベイで得られたデータを分析し、「どの部署で」「どのような要因が」エンゲージメントを阻害しているのかを特定し、現場の管理職と一体となって具体的な改善アクションプランを策定・実行する。この「計測→分析→実行→再計測」というサイクルを粘り強く回し続けることこそ、データに基づいた科学的な人事(データ駆動型人事)の実践に他なりません。
今回示された通り、心理学の知見は、こうした人事施策の一つひとつに科学的な根拠と説得力を与えてくれます。私たち人事は、感覚や経験則だけに頼るのではなく、こうした科学的アプローチを積極的に学び、取り入れることで、企業の持続的成長を根幹から支える真の戦略的パートナーとなることができるものと思います。

