【書籍】富山の薬売りに宿る「300年続く成功」の哲学と現代組織への応用を考える
『1日1話、読めば心が熱くなる365人の人間学の教科書』(致知出版社、2025年)のp183「5月30日:「富山の薬売り」の秘伝(田中真澄 社会教育家)」を取り上げたいと思います。
日本において、300年という長きにわたり、休むことなく利益を上げ続けてきた稀有なビジネスモデルとして「越中富山の薬売り」が挙げられます。
富山県が現在、高い世帯所得や若者の還流率、さらには教育水準の高さにおいて全国屈指の数字を誇っている背景には、この薬売りの精神が地域全体に深く浸透しているからに他なりません。彼らは単に商品を売るだけでなく、独自の商法を通じて稼ぐ力を養い、定年後も現役として活動し続けるための知恵を自ら学び取っています。
この「富山流」の成功法則は、口伝によって守られてきた非常に堅固なものであり、外部の人間が容易に触れられるものではありませんでした。しかし、その核心にあるのは、人生の後半戦をいかに豊かに過ごすかという、極めて現代的な問いに対する明確な答えです。
富山の薬売りの成功を支える精神的な支柱として紹介されているのが、「七楽(しちらく)の教え」です。これは「楽すれば楽が邪魔して楽ならず、楽せぬ楽がはるか楽々」という言葉に集約されています。日々の生活の中で、ただ目先の安楽を追い求め、余暇を遊び呆けて過ごすような「楽」を選択し続ける人は、人生の後半において惨めな結果を招き、本当の意味での楽を得ることはできません。
一方で、若いうちから、あるいは現役時代から安易な道を選ばず、自らの成長や将来の目標に向けて自己研鑽に励む「楽せぬ」時間を積み重ねることで、結果として将来にわたって長く続く、真の楽々とした人生を手にすることができるという教えです。これは、私たちが持っている仕事や人生に対する価値観を、根本から問い直すものといえるでしょう。
「楽すれば楽が邪魔して楽ならず 楽せぬ楽がはるか楽々」
これを富山では「七なな楽らく」の教えと申します。楽ばーっかりして、毎日毎日楽して、土曜日曜遊び呆ほうけている人は定年後に楽にならん、惨めな人生が待っている。しかしいま、土曜日曜もあまり楽をせず、自分の人生を楽しむように楽しむように過ごしていると、後半に素晴らしい楽々人生が待っている。さあ、どちらの人生がよろしゅうございますか。
さらに、時代の変遷に伴うビジネスモデルの転換についても重要な示唆がなされています。日本は3000年もの間、慢性的な「物不足」の時代を過ごしてきましたが、昭和五十年代以降のわずか三十年あまりで、急激な「物余り」の社会へと変貌を遂げました。この歴史的な転換は、商売のあり方を「売り手中心」から「買い手中心、お客様中心」へと劇的に変化させました。かつては商品さえあれば顧客が自然と集まりましたが、現代においては、いかにして良質な顧客との関係性を維持し、信頼の基盤を築くかが事業の成否を分ける決定的な要因となっています。
富山の薬売りが数千人規模の顧客リストを大切に守り、それを基盤に安定した収益を上げ続けている事実は、現代のあらゆる事業においても共通する本質的な戦略であるといえるでしょう。
顧客リストという「関係性の資産」がもたらす安定性
欧米の格言に「We live on the list.(我々はリストの上で生きている)」という言葉がある通り、二十一世紀における事業の継続性は、どれだけ質の高い顧客リストを保持しているかにかかっています。富山の薬売りは、一人ひとりが平均して二千人から四千人もの顧客リストを持っており、そのリストに基づいた丁寧な巡回と信頼構築を繰り返すことで、年間数千万円という高額な収入を安定的に得ています。彼らにとってのリストは、単なる名前の羅列ではなく、三百年間にわたって培われてきた「信頼の証」そのものです。この資産があるからこそ、彼らは時代が変わっても揺らぐことなく、自らの商売を次世代へと繋いでいくことができるのです。
私たちが生きる「物余り」の時代において、顧客は単なる消費の対象ではなく、共に価値を創造し、支え合うパートナーへとその立ち位置を変えています。富山の薬売りが実践してきたのは、顧客の懐に入り込み、必要な時に必要な分だけを提供する「先用後利(せんようこうり)」の精神ですが、これは現代のサブスクリプションモデルやカスタマーサクセスの先駆けともいえる手法です。良いリストを構築し、それを磨き続けること。
そして、そのリストに記された人々との関係性を深める努力を怠らないこと。これこそが、激動の時代を生き抜くための、最も確実で強力な「秘伝」であるといえるでしょう。私たちはこの教えを単なる知識としてではなく、日々の行動指針として、繰り返し自らに問い直していく必要があるといえるでしょう。

キャリア形成における「七楽の教え」の再定義
企業内における人材育成や組織開発を考える際、この「七楽の教え」をキャリア形成の文脈で捉え直すことは、非常に有効な一手になると考えられます。人生百世紀時代といわれる現代において、定年後の長い期間をいかに健やかに、かつ社会との接点を持ちながら過ごすかは、多くの働く人々にとって切実な課題です。
人として成長し続けるためには、目先の業務を効率的にこなすだけの「楽」に甘んじるのではなく、時には自らに適度な負荷をかけ、新しいスキルの習得や未知の領域への挑戦という「楽せぬ」選択を積み重ねていきたいところです。こうした自己研鑽のプロセスそのものを楽しむ姿勢こそが、将来的に「はるか楽々」なキャリアを構築するための土壌になるといえるでしょう。
個人の成長を支援する環境づくりにおいては、強制的、義務的な教育訓練ではなく、本人が自発的に「未来の楽」のために今を投資できるようなマインドセットの醸成に注力したいものです。富山の薬売りが代々受け継いできたような、自立したプロフェッショナルとしての自覚を促す仕組みは、組織の活性化にも直結すると考えられます。
社員一人ひとりが、会社という枠組みに依存するだけでなく、自らの「市場価値」や「人的ネットワーク」という名のリストを育てる意識を持つことは、結果として組織全体のレジリエンス(適応力)を高めることに繋がるのではないでしょうか。
また、シニア層の活躍という観点からも、この教えは大きな意味を持ちます。定年を一つの終着点と捉えるのではなく、その先にある豊かな「楽々人生」への通過点として位置づけることで、生涯現役でい続けるためのモチベーションを維持しやすくなると考えられます。富山の方々が定年後も意欲的に働き、地域社会に貢献している姿は、これからの日本における理想的な高齢者像の一つといえるでしょう。
個人の幸福と組織の持続可能性を両立させるために、この「七楽」の考え方を日々のコミュニケーションの中にさりげなく取り入れていくことが、温かみのある組織文化を醸成する一助になると考えられます。
物余り時代の「内部顧客」に対する向き合い方
「売り手中心から買い手中心へ」というパラダイムシフトを、組織内部の人間関係に当てはめて考えることも興味深い視点です。組織内における私たちの仕事も、ある種の商品やサービスを提供していると考えれば、周囲の同僚や上司、部下といった関係者はすべて「顧客(内部顧客)」であるといえるでしょう。
かつての物不足時代のように、権限やポジションだけで人を動かそうとする「売り手中心」のマネジメントは、もはや通用しにくい時代になっています。これからは、周囲からどれだけ信頼され、選ばれる存在になれるかという「買い手中心」の視点に立った行動が、スムーズな業務遂行の鍵を握ると考えられます。
自身の「信頼リスト」を社内外にどれだけ持っているかという問いは、個人のパフォーマンスを左右する重要な指標になります。困った時に手を差し伸べてくれる人、新しいアイデアを共有し合える人、そして自分の専門性を認めて頼ってくれる人の数が、そのままその人の「仕事のしやすさ」に直結します。富山の薬売りが顧客リストを三百年かけて守り抜いたように、私たちも日々の実直な仕事を通じて、社内の関係性という目に見えない資産を丁寧に積み上げていきたいところです。
こうした「関係性の質」を高める努力は、短期的には手間がかかる「楽せぬ」行為かもしれませんが、長期的には組織内での立ち位置を盤石にし、心理的安全性の高い働き方を実現する近道になるといえるでしょう。
組織全体としても、社員間の相互承認や感謝の流通を促進することで、この「内部顧客リスト」の価値を高める支援が考えられます。お互いを尊重し、個々の存在を認め合う文化が根付いている組織では、情報の流動性が高まり、イノベーションも生まれやすくなります。上から目線で正解を押し付けるのではなく、現場の一人ひとりが「誰かの役に立っている」という実感を持てるような仕掛けを、対話を通じて共に作り上げていく姿勢を大切にしたいものです。相手のニーズを先読みし、誠実に応えていく「薬売り」のような謙虚なサービス精神を組織の根底に流すことで、より強固な一体感が生まれるのではないでしょうか。
持続可能な組織を支える「三百年続く信頼」の設計
富山の薬売りが体現しているのは、単なる営業手法ではなく、時代を超えて生き残るための「哲学」です。組織運営の舵取りを担う立場から見れば、いかにしてこの「永続性」を現代の企業システムに組み込んでいくかが重要なテーマとなります。彼らが大切にしているのは、目先の売上目標の達成よりも、顧客との生涯にわたるお付き合いです。これを組織に置き換えれば、短期的な業績評価のみに偏るのではなく、中長期的な視点で人材を育み、信頼関係を醸成する評価軸や制度の設計を検討する余地があると考えられます。
「We live on the list.」という言葉を胸に、自社が社会に対してどのようなリスト(貢献の歴史)を刻んできたのかを振り返ることは、組織のアイデンティティを再確認する作業にもなります。会社が社員に対して提供できる価値、そして社員が顧客に対して提供する価値。それらが連鎖し、循環していく中で、関わるすべての人が「楽々」とした状態になれることが理想です。そのためには、日常の何気ない挨拶や、誠実な情報共有といった、基本的な行動の積み重ねを疎かにしないことが肝要です。特別な秘策を求めるのではなく、当たり前のことを当たり前に、かつ継続的に行うこと。その難しさと尊さを、富山の薬売りの歴史は教えてくれています。
最後に、私たちが目指すべきは、単に効率の良い組織ではなく、そこで働く人々が誇りを持ち、自らの人生を謳歌できる「場所」としての組織ではないでしょうか。
「七楽の教え」を、単なる個人の処世術に留めず、組織全体の共通言語として育んでいくことで、変化の激しい時代においても揺るがない、強くてしなやかな集団へと進化していけるのではないかと考えられます。毎日の「朝昼晩」の念仏代わりに、こうした本質的な問いを自分自身に投げかけながら、一歩ずつ歩みを進めていきたいものです。
致知出版社が 50年近く探究してきた「人間学(=人間性を高める学び)」をテーマに、365人のプロフェッショナルの強烈な体験談から、 時代、業種、年齢、立場を越えて通底する「仕事と人生の法則」、「幸福に生きるためのヒント」を結晶化させた、全世代に贈る教科書です。
(=致知出版社の紹介から引用)
Amazonレビュー:https://amzn.to/3Ox8ReA
