なぜ、あの社員は自ら学ばないのか?答えは「ペダゴジー」と「アンドラゴジー」にあったー川上真史氏
川上真史ビジネス・ブレークスルー大学教授の「企業と心理学 トピックス #53 成人学習理論」というテーマを取り上げます。
今回は、教育学における2つの主要な考え方、「ペダゴジー」と「アンドラゴジー」を軸に、特に企業における人材育成のあり方を問い直す内容となっています。これらは単なる教育手法の違いではなく、学習者をどのような存在として捉えるかという根本的な思想の違いに基づいています。
「ペダゴジー」と「アンドラゴジー」
一般的に「教育学」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは「ペダゴジー」です。これはギリシャ語で「子どもを導く」という意味を持ち、主に未成年の子どもを対象とした教育の考え方です。 一方で、本書の中心テーマである「アンドラゴジー」は、「成人を導く」という意味を持ち、自律した大人を対象とする教育の考え方を指します。
現代の企業研修や人材育成の現場では、対象者が立派な「大人」であるにもかかわらず、無意識のうちに子どもを教育するかのような「ペダゴジー」的なアプローチが取られてしまうことが少なくありません。本書は、そのミスマッチが学習効果を妨げる一因であると指摘し、大人の学習者が持つ特性を最大限に活かす「アンドラゴジー」への転換の重要性を説いています。
ペダゴジーとアンドラゴジーの決定的違い
ペダゴジーとアンドラゴジーは、学習者の「成熟度」を基準に、そのアプローチが大きく異なります。両者の違いを理解することは、効果的な教育を設計する上での第一歩となります。本書では、以下の7つの観点から両者を対比させています。
対象と前提
ペダゴジー: 対象は「子供」。学習者は未熟で、教育者に依存的な存在であると前提づけられます。
アンドラゴジー: 対象は「大人」。学習者はすでに自律しており、自己管理が可能であるという前提に立ちます。
動機
ペダゴジー: 学習の動機は、先生や親に褒められたい、良い成績を取りたいといった「外的」な要因に依存します。
アンドラゴジー: 学習の動機は、自己を成長させたい、課題を解決したいといった純粋な「内的」な欲求に基づきます。
学習スタイル
ペダゴジー: 教師が主導権を握り、「これを覚えなさい」と指示を与えるスタイルが中心です。学習者は受動的な受け手となります。
アンドラゴジー: 学習者自身が中心となり、主体的に議論や実践に参加する「参加型」のスタイルが取られます。
教育者の役割
ペダゴジー: 教育者は、知識や「正解」を伝達する「ティーチャー(教師)」としての役割を担います。
アンドラゴジー: 教育者は、学習者自らが答えを見つける手助けをする「ファシリテーター(促進者)」としての役割が求められます。
目的
ペダゴジー: 目的は、定められた知識やスキルを漏れなく「習得」させることに置かれます。
アンドラゴジー: 目的は、学んだことを実生活や仕事の現場で「活用」し、成果に繋げることに置かれます。
内容の決定権
ペダゴジー: 学習内容は、教育カリキュラムに基づき、教師側が一方的に決定します。
アンドラゴジー: 学習内容は、学習者自身の「ニーズ」や課題意識に基づいて決定されます。
評価
ペダゴジー: 評価は、知識の定着度を測るための「試験」によって行われます。
アンドラゴジー: 評価は、学んだことを「活用して得られた成果」によって測られます。レポートや実践報告などが主な評価方法となります。
近年では、子どもであっても早い段階から主体性を育むために、ペダゴジーにアンドラゴジーの要素を組み込んだハイブリッド型の教育が重視される傾向にあると指摘しています。


アンドラゴジーを実践するための5つの原則
アンドラゴジーに基づく教育を成功させるためには、大人の学習者が持つ以下の5つの特性(原則)を理解し、尊重することが不可欠です。
自己概念: 大人は「自らものごとを決定したい」という欲求を持つ自律的な存在です。そのため、一方的に教え込まれるような受け身の学習を好みません。
経験の活用: 大人は、子どもとは比較にならないほど豊かな経験を持っています。この過去の経験を学習内容と結びつけることで、理解を深め、学習効果を飛躍的に高めることができます。
学習への準備性: 大人は、仕事や生活の中で直面する課題を解決する必要性を感じた時に、最も学習意欲が高まります。この「学びたい」というタイミングを捉えることが重要です。
学習の方向性: 大人は、抽象的な理論の習得そのものよりも、それをどう使って目の前の課題や問題を解決できるかという、実践的な方向性を重視します。
内発的動機: 大人の学習を突き動かす根源的な力は、昇進や報酬といった外的な要因以上に、「もっと成長したい」「自己実現を果たしたい」といった内面から湧き上がる動機です。

企業におけるアンドラゴジーの具体的な教育手法
これらの原則に基づいた具体的な教育手法として、以下の5つを挙げています。
ワーク中心: 講義形式のインプットは最小限にし、受講者同士のディスカッションやグループワークを中心とした研修を実施します。
実際の経営課題: 机上の空論ではなく、参加者が実際に職場で直面している経営課題や業務課題をテーマに議論し、解決策を探ります。
相互学習: 専門の講師だけでなく、社員同士が互いに講師役と受講者役を担い、教え合うことで学びを深めます。教えるという行為は、最も深い理解を促す学習方法の一つです。
アクティブラーニング: 研修で学んだ知識やスキルを、研修期間中や終了後すぐに実際のプロジェクトで活用する機会を意図的に設定します。
フィードバック: 試験による点数付けではなく、学習の習得状況や職場での活用状況について、上司や同僚から定期的にフィードバックを受け、内省を深める機会を設けます。
すべての社員にアンドラゴジーが最適というわけではなく、社会人経験の浅い若手や、特定のスキル習得が必要な場面ではペダゴジー的なアプローチも有効であると述べています。大切なのは、対象者の成熟度や学習目的を見極め、両者を柔軟に使い分ける、あるいは組み合わせる視点を持つことだと結論づけています。
企業人事の視点から本書をどう活かすか
本書で提示された「アンドラゴジー」の理論は、現代企業の人事部門が抱える多くの課題に対して、非常に示唆に富んだ解決策を提示してくれます。VUCAと呼ばれる予測困難な時代において、企業が持続的に成長するためには、社員一人ひとりが自律的に学び、変化に対応し続ける「学習する組織」となることが不可欠です。アンドラゴジーは、まさにそのための組織文化を醸成し、人材育成の仕組みを根底から変革するための羅針盤となり得ます。
「研修の提供者」から「学習環境の設計者」への役割変革
従来の人事部門は、社員に対して画一的な研修プログラムを企画・提供する、いわば「ペダゴジー」的な役割を担うことが多くありました。「この階層にはこの研修を受けさせる」という発想は、まさに学習内容を教師側が決定するペダゴジーの典型です。しかし、社員のニーズや課題が多様化する現代において、このアプローチは限界を迎えています。
これからの人事担当者に求められるのは、研修の「提供者」ではなく、社員が自律的に学べる「環境の設計者(アーキテクト)」であり、学びを促進する「ファシリテーター」としての役割です。具体的には、社員が「今、これを学びたい(学習への準備性)」と感じた時に、最適な学習機会にアクセスできる仕組みを整えることが重要になります。eラーニングのプラットフォーム充実はもちろん、外部セミナーへの参加支援、書籍購入補助、資格取得支援制度などを、より柔軟に、社員の「ニーズ」起点で利用できるように制度設計を見直すことが第一歩となるでしょう。
Off-JT(研修)の再設計:知識伝達から課題解決の場へ
アンドラゴジーの観点から、集合研修(Off-JT)のあり方も大きく見直す必要があります。一方的な講義形式の研修は、社員を「受け身の学習者」にしてしまいがちです。特に、豊富な実務経験を持つ中堅以上の社員にとっては、退屈で効果の薄いものになりかねません。
今後は、研修を「知識をインプットする場」から、「参加者が持ち寄ったリアルな課題を解決する場」へと転換していくべきです。
例えば、リーダーシップ研修であれば、リーダーシップ理論の講義に時間を割くのではなく、「現在、自分のチームで抱えている最も困難な課題」を各々が持ち寄り、参加者同士の「相互学習」を通じて解決の糸口を探るワークショップ形式が有効です。ここでは、人事担当者や講師の役割は「正解を教える」ことではなく、議論を活性化させ、参加者の「経験の活用」と「内省」を促すファシリテーションに徹することが求められます。このような研修は、参加者の「自己概念」を尊重し、「内発的動機」を強く刺激するため、高い学習効果が期待できます。
日常業務に学びを埋め込む「1on1ミーティング」と「フィードバック文化」
アンドラゴジーの要諦は、学習を特別なイベント(研修)にすることなく、日常業務の中に埋め込んでいくことにあります。そのための最も強力なツールが「1on1ミーティング」と「フィードバック文化」の醸成です。
上司は、1on1の場で部下の業務進捗を確認するだけでなく、彼らが今何に関心を持ち、どのような課題意識を持っているのか(学習への準備性)、そしてキャリア上どのような成長を望んでいるのか(内発的動機)を対話の中から引き出す必要があります。その上で、「その課題を解決するために、こんな社内プロジェクトに参加してみないか」「あの部署の〇〇さんが詳しいから、話を聞いてみたらどうか」といった形で、具体的な学習機会や成長機会に繋げていくのです。この時、上司は指示命令者(ティーチャー)ではなく、部下の成長を支援する伴走者(ファシリテーター)でなければなりません。
また、アンドラゴジーにおける評価は「活用して得られた成果」です。学んだことを実践し、挑戦した結果たとえ失敗したとしても、そのプロセス自体を称賛し、次につながる具体的なフィードバックを与える文化が不可欠です。ピア・フィードバック(同僚からのフィードバック)の仕組みを取り入れることも、「相互学習」を促進し、組織全体の学習能力を高める上で有効な手段となります。
人材育成体系の再構築:ペダゴジーとアンドラゴジーの戦略的使い分け
もちろん、すべての教育をアンドラゴジーに切り替えるべき、というわけではありません。本書が示唆するように、対象者や目的に応じた戦略的な使い分けが肝要です。
新入社員・若手社員
ビジネスの基礎知識や専門スキルを習得する段階では、体系的な知識をインプットする「ペダゴジー」的なアプローチが依然として重要です。ただし、その際も「なぜこの知識が必要なのか」を実務と結びつけて説明し、彼らの「学習の方向性」を明確にすることで、学習効果を高めることができます。中堅社員・リーダー層
この層には、明確に「アンドラゴジー」へとシフトします。彼らの「経験」を資源と捉え、自らが抱える課題を解決するための実践的な学びの場を提供することが中心となります。管理職・ベテラン社員
彼らには、学習者としてだけでなく、「教える側(ファシリテーター、メンター)」としての役割を担ってもらうことが有効です。自身の豊富な経験を言語化し、他者に伝えるプロセスは、本人にとって最高の学び(内省)の機会となります。これは「相互学習」の仕組みを組織に根付かせる上でも極めて重要な施策です。
人事部門は、こうした世代別・階層別の特性を踏まえ、ペダゴジーとアンドラゴジーを効果的に組み合わせた複線的な人材育成体系を構築していく必要があります。社員一人ひとりの成熟度を見極め、その時々で最適な学習アプローチをデザインしていく「目利き」としての専門性が、これからの人事には強く求められるでしょう。考えさせられる内容でした。

