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『地獄まで愛して PartI』ー愛も憎しみも、すべては罠だったなら【一気読み・完結篇】

こんにちは、ぱるるです。

今回は、短編サイコ・スリラー「地獄まで愛して Part I」の完結編をお届けします。本作は、愛憎・家族・嘘・妊娠の秘密・心理崩壊といったテーマを軸に、人間の心の奥底に潜む“見たくない真実”を描いた物語です。

完結編では、二十年にわたる嘘と執着の行方、そして“家族の正体”をめぐる謎が明らかになります。

ミステリーや心理サスペンス、家族をテーマにしたフィクション、人間の闇を描く物語を求めるイヤミス愛読者に向けて書き上げた一作です。

どうぞ、最後までゆっくりとお楽しみください。

##あらすじ
俊介は議員家系のエリート弁護士でありながら、五年の不倫の末に沙耶を“手切れ金”で捨てた。だが六年後、彼の自宅には沙耶と、自分の愛息子に酷似した少年が、妻に招かれて座っていた。逃げ場のない監視、崩壊する現実、耳奥で鳴り続ける電子音。俊介は次第に正気を失い、沙耶と少年の“鬼の顔”に追い詰められていく。意識を失った彼の脳裏には、妻の妊娠と、男女3人の愛憎が絡み合う狂気の光景が繰り返し蘇る。妄想か、罪の幻影か。妻が抱えた妊娠の秘密、子供たちの正体、そして彼が眠る間に構築された“完璧な嘘”。すべてを奪い演じきった女たちの、冷酷な執着のゲームの行方とは。二十年後、遺産を手にした妻・麗華は静かに微笑む。「望みが叶うことほど、残酷な悲劇はない」と。

*このページは、Part Iの一気読み用のまとめです。



第1話:エロスの残骸


「良きものを永遠に我がものにしたいという欲望、それがエロスである」 

 ――プラトン『饗宴』より


都内の大手総合商社、金曜日。夕闇が迫るオフィスは、週を締めくくる活気と、週末を待ちわびる高揚感が混じり合い、熱帯びていた。

後藤沙耶、三十五歳。

一点の隙もない表情でキーボードを叩き、次々とタスクを処理していく。派手さはないが、凛と整った顔立ちと、すらりと伸びた手足のスレンダーな体躯は、オフィスでも密かに目を引いていた。

いつも淡々と仕事をこなす沙耶なのに、今日だけは、指先が自分でも驚くほど落ち着かない。

「先輩、お誕生日おめでとうございます! 間に合ってよかった!」

外回りから戻ってきたばかりの後輩女子が、有名コスメブランドの小さな紙袋を沙耶のデスクにそっと置く。

「やだ、覚えててくれたの?」

思わず笑みがこぼれる。一瞬、沙耶の顔に少女のような、あどけなさが浮かんだ。

「もちろんです。先輩がとうとう魔の三十五……『アラフォー』の大台に乗る記念すべき日を、忘れるわけないじゃないですか!」

いたずらっぽく笑う後輩を、沙耶は肘で軽く小突いた。

「やめてよ、声が大きい」

文句を言いながらも、嬉そうに箱の中身を覗くと、以前から欲しがっていた新作の香水が入っている。

「嬉しい! これ、ずっと気になってたの」

「良かった!あの時、先輩がすごく欲しそうな顔をしてましたから。……お礼、期待してますよ?」

後輩女子はそう言って、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「で、今夜の予定は? 例の弁護士さんとですよね。いい加減、写真くらい見せてくださいよ」 そう言って、いよいよ本題とばかりに、沙耶へ顔をぐっと近づけた。

「また今度ね。全然カッコよくないから、期待しないで」

沙耶は余裕の笑みを崩さず、さらりとかわす。

「ったく、相変わらずガードが固いんだから。……で、場所はどこなんですか?」不満を隠しもしない顔で、さらに踏み込んでくる。

「ホテルD。……部屋を取ってくれてるの」


***

ホテルDの重厚なドアの前に立ち、沙耶は一度深く息を吸い込み、額にかかった前髪を指先で整え、小刻みに震える右手で下腹部をそっと押さえる。

期待と緊張が入り混じり、心臓の鼓動が耳の奥まで響いてくる。

高級ホテルの廊下には似つかわしくない二匹の蛾が、低い位置をひらひらと舞っていたが、もちろん沙耶は気づかない。

ドアをノックすると、数秒後に山内俊介が姿を現した。
仕立ての良さが一目で分かる白いワイシャツを上品に着こなし、
数個外した首元からは、無防備な色気がふっと漂う。

その姿に、一瞬だけ心地よい眩暈が走り、沙耶の顔には満面の笑みが溢れた。付き合って五年になるが、彼の洗練された容姿に見飽きるということは、一度もなかった。

「ごめん、待った?」

「いや、俺も今来たところだ」

微笑む俊介の吐息には、わずかにワインの香りが混じっていた。そのこわばった笑顔に、沙耶は一瞬の違和感を覚えたが、ドアの隙間から見える部屋の豪華さに目を奪われ、彼の腕の下をくぐるようにして、夜景が一望できる窓際へ駆け寄っていく。二匹の蛾も、沙耶を追うようにしてすっと部屋の中へ入り込んだ。

壁一面の大きな窓の向こうには、宝石を散りばめたような東京湾の夜景が広がっていた。窓際のテーブルにはイタリア料理が美しく並び、ワインボトルはすでに半分ほど空になっている。

「わあ……すっごい綺麗。こんな素敵な部屋、とってくれてありがとう。高かったでしょう?」

と、視界いっぱいに広がる夜景にうっとりしながら、沙耶は言った。

「いや……沙耶には、いつも我慢させちゃってるから」

その言葉にふっと愛しさが込み上げ、沙耶は軽く首を振りながら、俊介の方へ振り返った。

「そんなことないわ。今夜は、ゆっくりできるんでしょう?」

俊介の喉が、一瞬、唾を飲み込むように上下した。

「……それが、今晩は泊まれなくなったんだ。ごめん。君の誕生日なのに。この埋め合わせは必ずするから」

まるで言い訳を押し出すように、俊介は一気に言葉を吐いた。

沙耶の笑顔が、音もなく引いていく。

「……え? なんで? ずっと前から約束してたじゃない。だからこんないいお部屋、とってくれたんでしょう?」

沙耶と目を合わせまいと視線を泳がせる俊介の横顔は、残酷なほど沙耶のタイプで、ひどく美しい。白くて細い指でポケットから小さな箱を取り出すと、そっとテーブルに置く。

「誕生日おめでとう。君がずっと欲しがってたやつだ」

沙耶は固い表情のまま箱を受け取り、そっと蓋を開けた。
一瞬でも「指輪」を期待した自分を、心の中で嘲笑する。
中に入っていたのは、確かに前から欲しかったブレスレットだった。

「……都合が悪いって急に何で? 奥さん?」

突き刺すような沙耶の言葉に、俊介の肩が微かに震えた。
答える代わりに、逃げるように視線を泳がせたその時、テーブルの上に伏せられた俊介の携帯が、ズズッ、ズズッ、と不穏に振動音をあげた。
それでも俊介は取る様子もなく、ボトルのワインをグラスに注いでいる。

「なんで出ないの? 奥さんでしょう?」鋭い視線を俊介に投げつける。

「ああ……最近、様子が変なんだ。俺を疑ってるみたいで……昨晩も後援会の接待中に何度も電話してきて、恥をかかされたよ」

俊介は視線を合わせようとせず、逃げ場を探すように目を泳がせた。
その揺れた視界の端に、二匹の蛾がふっと入り込む。

なんで、こんなところに蛾が―と言いかけたその瞬間、

「ちょうどいいじゃない」

驚くほど鋭く、低い沙耶の声が、矢のように俊介の心を貫いた。
平静を装ってグラスを揺らしていた俊介の頬の肉が、ピクリと引きつる。

「奥さんに、私たちのこと話すちょうどいい機会じゃない。もう五年だよ? 私、今日で三十五になったんだよ?」

「言うって……今は無理だよ。選挙が終わるまで待ってくれって、言ったじゃないか!」

ズズッ、ズズッと携帯がまた振動音をあげた。沙耶は衝動的にそれを奪い取ると、俊介の鼻先に突きつける。

「言ってよ。今、ホテルに女といる。彼女を愛してるから、別れてくれって、今すぐ言ってよ!」

最後は、悲鳴に近い叫びになっていた。五年も耐え忍んだ思いが爆発する。

「何バカなことを言ってるんだ! おい、返せ、返せって!」 俊介が強引に携帯を取り返そうとした瞬間、沙耶の指先が、通話ボタンに触れる。

『もしもし、もしもし……あなた? 聞こえてるの?』

漏れ聞こえる妻・麗華の高くて鋭い声。俊介は血の気の引いた顔で携帯をひったくると、逃げ場を求めるようにバスルームへ駆け込んだ。沙耶もすぐにその後を追い、閉められたドアに耳を押し当て、一語たりとも逃すまいと聞き耳を立てる。

薄い扉の向こうからは、俊介が必死に声を潜め、何かを取り繕うように言い訳を重ねている。

「……女なんていないって言ってるだろう! 腹の出たジジイばかりだって言ったじゃないか!写真なんか撮れるわけないだろ、いい加減にしてくれ!……えっ、吐いたって?つわりだろう。そんなことで救急車なんて呼ぶなよ、恥ずかしい!おとなしく寝てろよ。……ああ、分かった、できるだけ早く帰るから」

息を殺して聞き入る沙耶の中で、思い描いていた未来がガラガラと音を立てて崩れていった。

その場にへたり込みそうになるのを必死に堪え、ヨロヨロと後ずさって背後の壁へ寄りかかる。壁の冷たさに触れた瞬間、どうにか気力だけが沙耶を支え続けていた。

数分後、バスルームから出てきた俊介の顔には、隠しきれない疲労と苛立ちが滲んでいる。 沙耶は、冷徹なナイフのような視線で俊介を射抜く。

「奥さん、妊娠したの?」

俊介は言葉に詰まり、力なくヨロヨロとベッドに腰掛けると、両腕で頭を抱え込む。

「……すまない。こんなことになるつもりじゃなかったんだ」

「奥さんとはもう、そんな関係じゃないって……ずっと言ってたじゃない」

その声は、抑揚という温度をすっかり失い、ただ冷たく、恐ろしいほど平坦だった。

「たまたまなんだ! 断ったら、逆に怪しまれるだろう? 遊びじゃなかった、本当に君との将来を考えてたんだ。でも……」
俊介は絞り出すような震える声で続けた。

「こうなった以上、あいつと別れるのはもう無理だ……」

次の瞬間、俊介はベッドから滑り落ちるようにして、沙耶の足元へ土下座した。

「ごめん……本当にすまない、沙耶。
もう、これ以上君を待たせることはできない。
君には幸せになってほしい。必要な援助なら何でもする。
海外に行きたいって言ってただろう?
その支援くらい、喜んでさせてくれ!」

小さく震える声とその背中は、数ヶ月前に見た歌舞伎の一場面のように、
どこまでも白々しい。

「……手切れ金を渡すから、綺麗さっぱり、視界から消えろって、そう言ってるの?」

「そんなつもりじゃ……ただ、これが俺にできる精一杯の……」

足元で震える男を見下ろす沙耶の目に、少し薄くなった彼の頭頂部が映った。

信じて耐え忍んだ五年間。思い描いてきた彼との将来―名門家系の議員の妻として並び立つ未来。

それを、奥さんが妊娠したから諦めてくれ?
すべて忘れてくれって?

沙耶の怒りは再び沸き立ち、その温度は沸点を超えて、やがて絶対的な零度へと変わった。

沙耶の瞳から光がすっと消え、強く噛み締めた唇が弾けると、一滴の血が静かにこぼれ落ちた。

ポタッ

赤い滴は、土下座する俊介の髪の上に落ち、黒い髪に吸い込まれるように消えたが、沙耶も俊介もそれに気づかない。

震える声で許しを乞い続ける俊介の言葉だけが、部屋の空気を満たしていく。

二匹の蛾は、沙耶と俊介の行く末を見届けるかのように、東京湾の夜景を映す窓ガラスへひっそりと張り付いていた。

その羽は、まるでこの瞬間の静けさを讃えるように、一度も震えなかった。


第2話:再会


あの夜から、六年。

都心の一等地にそびえ立つ高級マンションの前に、黒塗りの高級車が静かに滑り込む。

運転手がうやうやしくドアを開けると、仕立ての良いスーツに身を包んだスラッとした長身の男、山内俊介が降り立った。

その胸元には、重厚な純銀の都議バッジが街灯を跳ね返し、暗闇の中で鈍く光っている。


「お疲れ様でした」

「うん、ありがとう。また明日」

短く挨拶を交わし、俊介はマンションの重厚なエントランスへ足を踏み入れた。かつて纏っていた危うい色気は、今では「若手政治界のホープ」という華々しい肩書きの仮面の下にそっと押し隠されている。

だが、その隙のない佇まいの端々からは、かつての脆さと危うさが混じり合った色気となって、時折、わずかに滲み出ていた

「ただいま」

玄関の扉を閉め、いつものように壁に右手を添えて靴を脱ごうとした時、俊介の動きがふと止まった。 耳の奥で、かすかな電子音が脈打つ。

ピッ……ピッ……ピッ……

頭を振ると、音は一瞬で消えた。

「疲れてるのかな……」

小さく呟き、視線を落とした瞬間、玄関の隅に並べられた見慣れない女物のスニーカーが目にとまる。
そして、その横に寄り添うように置かれた小さな子供靴。

俊介の胸の奥で、説明のつかないざわつきが微かに波立った。
リビングからは、妻・麗華の弾むような笑い声が聞こえてくる。

「おかえりなさい! よかった、今日は早かったのね!」

リビングのドアが開き、少女のように明るい声が廊下へ広がった。

麗華は出産間近の大きく膨らんだお腹を両手でそっと支え、その身体を慈しむようにゆっくりと歩いてくる。

屈託のない笑顔を浮かべる彼女は、まるで全身から幸福そのものの光を放っているかのようだった。

その光は、どこか不気味なほど眩しく、廊下の空気さえ黄色く染め上げ、俊介の胸のざわつきを、さらに一層高めていく。

「今日ね、公園で新しいお友達ができたの! あなたにもぜひ会ってほしくて。陽と同い年で、お誕生日も一日しか違わないのよ。しかも、来月から同じ幼稚園なんですって! すっごく素敵な方なの、さあ、早く来て来て!」

急き立てる麗華に背中を押され、品の良いベージュカラーで統一されたリビングへ足を踏み入れた瞬間、ソファに深く腰を下ろした一人の女が、俊介の視界に入った。

床では小さな男児がレゴを積み上げ、女はその頭を優しく撫でている。

そして、女がゆっくりと振り返る。

「お邪魔してます。すみません、今日奥様にお会いしたばかりなのに、図々しく親子でお邪魔しちゃって」

六年前のあの夜に清算したはずの女、沙耶だった。

俊介の全身から、さーっと一瞬にして血の気が引くが、悪びれる様子もなく、沙耶は優雅に会釈する。

俊介は金縛りにあったように身体を動かせない。

背後では、何も知らない麗華が「そんな、全然気にしないで」と無邪気に笑っている。

ーーなぜだ?なぜこいつが、俺の家のリビングで、余裕の笑みを浮かべて座ってるんだ?

「あ……っ!」

その瞬間、刺すような白光が俊介の視界を貫く。いてつくほどの眩しさに、俊介はのけぞり、思わず目を押さえた。

「あなた? どうしたの、大丈夫?」

麗華の声が、遠い水面からゆっくりと反響してくるように、耳の奥でぼんやりと揺れながら聞こえた。

俊介はダイニングテーブルに左手をつき、押し寄せる眩暈に耐えながら身体をどうにか支えた。崩れ落ちそうな作り笑いを必死に繋ぎ止め、裏返った声で、ようやく言葉を絞り出す。

「あ……いや、なんでもない。ちょっと疲れてるだけだ。……初めまして。あ、いや……いらっしゃい…かな。ゆっくりしていってください」

自分でも呆れるほど、呂律が回っていない。

麗華はそんな俊介を見て、くすくすと笑い声を上げる。

「ふふ、沙耶さんが素敵だからって、そんなに緊張しちゃって。もう、妬いちゃうわ。……なんて、冗談よ。大丈夫、彼女とっても、えっと、英語で、なんて言うんだっけ…..あっ、フレンドリーよね、そう、すっごいフレンドリーな方だから。ね、沙耶さん?」

沙耶はしたたかに微笑みを崩さずに頷いた。

「お疲れのところ、すみません。議員さんって伺って……すごいわ。そんな立派なお仕事されてるなんて、尊敬しちゃいます。お会いできて光栄です」

その声は柔らかいのに、瞳の奥だけが氷のように冷たく、俊介を突き放すような、いや、むしろ挑発するような炎が、その氷の奥でゆらゆらと揺れていた。

麗華は何も知らぬまま、いたずらっぽい笑みを浮かべて無邪気に言葉を捲し立てる。

「全然、全然。主人の父も議員で、ただの議員家系なだけなのよ。主人はただ、お義父さまの言うことに『はいはい』って頷いて聞いていればいいんだもの。ね、あなた?」

顔を引きつらせながらも、俊介は必死に微笑みの表情を貼り続ける。

「麗華さん、そんな謙遜されないで。なんかすみません。お気を遣わせちゃって」

麗華は調子に乗って、ますます饒舌になる。

「謙遜じゃないわ。それよりあなた、沙耶さんのご主人、本当にすごいのよ!」

と、反り出たお腹をさすりながら沙耶の隣に腰掛ける。

「日本人だけどロンドン生まれのニューヨーク育ち。今も向こうでアートディーラーなんですって。素敵だわ。でもね、ご本人が日本語でとても苦労されたから、子供には絶対に日本語を身につけさせたいって、わざわざ帰国して日本の幼稚園に入れることにしたんですって。すごいインターナショナルよね」

「あ、ああ……」

「今のお仕事が片付いたら、旦那様もこちらに来て、東京でギャラリーを開く予定なんですって。本当に素敵よ。恥ずかしい話、うちは夫婦揃って英語がさっぱりダメで。ハワイに行くのでさえ、ちょっと緊張しちゃうくらいなんですもの。ねえ、沙耶さんに英語、ぜひ教えていただきたいわ。……ねえ、あなた、聞いてるの?」

捲しし立てる麗華の甲高い声が、俊介のめまいを一層、激しく掻き立てた。

沙耶は「やめてよ」と言いたげに困った顔を作ってみせると、

「やだ、本当に凄くないのよ。ただニューヨークに住んでいたというだけなんですもの。勝手にハードルを上げられたら、私こそ逃げ出したくなっちゃうわ」

軽やかに笑うその声とは裏腹に、その瞳からは冷たい光が俊介だけに注ぎ続ける。

「でも、本当に今日沙耶さんと会えたのはラッキーだったわ」

麗華は、まだ話し足りないというように続けた。

「あそこの公園の人たちって、なんていうか、こういったら、失礼かもしれないけど、少しお育ちが違う感じでしょう? なかなか馴染めずにいたんだけど、涼くんは陽のお友達にぴったり!なんだか雰囲気が凄く似てるのよね。ほら、見て。……まるで兄弟、ううん、双子みたいじゃない? ねえ、あなた、聞いてる? そう思わない?」

テーブルを支える俊介の左手のひらが、じっとりと汗ばみ始めた。

額にも脂汗が滲み、その湿り気が肌に不快にまとわりつき、呼吸のリズムさえ乱していく。

陽と涼―同い年で、驚くほど似通った骨格。

「……そうか? 似てるかな」

乾ききった喉を震わせ、俊介はようやくそれだけを押し出した。

「あ、ごめんなさい。すっかり長居しちゃって。さあ、涼、帰ろう」

沙耶が立ち上がると、麗華も名残惜しそうに立ち上がる。

「今度はぜひ、お夕飯もご一緒しましょうね」

玄関まで二人を送り出す途中で、「あ!」と麗華が声を弾ませ、俊介を振り返っていう。

「ねえ、もう一つ、すごい偶然があるのよ。沙耶さんのマンション、うちの真向かいのあの棟なんですって! しかも、同じ十五階!」

麗華が、ブラインドを全開にしたリビングの窓から見える道路を挟んでそびえ立つビルを指差した瞬間、俊介の額から、一筋の汗がゆっくりと流れ落ち、顎へ向かって静かに伝っていった。

「1503号室。本当に奇跡みたいな偶然よね」

重ねるように、沙耶が俊介の目をまっすぐ見て微笑んだ。

「そうなの。1503号室。……本当に偶然。今度はぜひ、私のお部屋にも遊びにいらして」

「是非伺うわ! バイバイ、涼くん」

二組の母と息子が名残惜しそうに手を振り合っている。

俊介は、ダイニングテーブルにもたれたまま、沙耶が座っていたソファの残骸を、ただじっと見つめていた。

***

その夜、寝室を支配する沈黙の重圧に押し潰されそうになりながら、俊介はベッドの端でブランケットに身をくるめ、麗華から逃れるようにダブルベッドの端へと身を寄せ、ゆっくりと背を向けた。

「沙耶さんって、本当に素敵よね……」

麗華がベッドサイドテーブルの引き出しからハンドクリームを取り出すと、たっぷりと塗りながら、独り言のように呟く。

「あなたはどう思った?」

「……別に。普通だろ。どっちかと言えば、地味な人じゃないか」

暗闇を見据えながら、俊介はボソッと返事した。

「もう、あなたって本当に分かってないわね〜。あれがニューヨークスタイルなのよ。日本人みたいに無駄に着飾らないの。ほんと、素敵だったわ。でも涼くん、さすがに良いスニーカー履いてたわ。陽にも買ってあげなくちゃ」

麗華はクスクスと笑い、腕まで丁寧にクリームを塗り込みながら喋り続ける。

「でもね、沙耶さん、日本で長く付き合っていた人がいたんですって。五年間も。それなのに散々嘘をつかれて二股されて、最後はポイ捨てされたらしいわよ。……しっかし、ひどい男よね。女の一番大切な時期を奪っておいて。絶対いつかバチが当たるわよ。ふふっ、もう当たってるかもしれないけれどね」

俊介の呼吸が、闇の中で一瞬止まる。

「でも沙耶さん、そんな奴に人生を踏みにじられてたまるかって、単身でニューヨークに渡ったんですって。そこで今の素敵な旦那様と出会ったんだから、人生って分からないわね。親の決めた通りに歩んできただけの私と違って、自分で運命を切り拓いていて素敵だわ。……なんだか、引け目を感じちゃう」

ハンドクリームを塗り終えた麗華は、携帯を取り上げ、今日公園で撮った四人の写真を満足げにめくっていく。

幸せに溢れた笑みを湛えた二人の母親の間で、双子のように似た二人の男の子が、おどけた表情を作って写っている。

麗華の指が、そっと画面を愛おしそうになぞり、

「本当に、二人……双子みたいだわ」

愛おしそうに呟いた。

そして、次の瞬間、麗華の表情からすっと笑みが消える。

視線は携帯から、背を向け眠ったふりを続ける俊介の後頭部へと、ゆっくり、静かに移動する。まるで獲物を狙う猛獣のような冷徹な眼差しで、夫の頭から、布団の下で微かに盛り上がる細い腰のラインまでを無言で数秒なぞりあげたあとで、何事もなかったかのように視線を携帯へ戻すと、麗華の顔に再び満足げな微笑を浮かばせた。

そして、最後にもう一度だけ写真を眺め、携帯を置くと、迷いのない動作でサイドランプのスイッチを切る。

部屋が深い闇に沈みこむ。

暗闇の中で、再び、あの電子音が俊介の耳の奥で鳴り出した。

ピッ……ピッ……ピッ……

その音に重なるように、麗華の穏やかな寝息が暗闇に広がっていく。

俊介は身じろぎ一つせず、ベッドの端に追い詰められたまま、出口のない闇の中心を、ただ見つめ続けていた。

第3話:忍び寄る狂気


「1503号室……」

俊介は沙耶のマンションのドアベルを、壊れんばかりの勢いで何度も押し続けた。やがて、重いドアが音もなくゆっくりと開く。

目の前に現れた沙耶は、長い髪を無造作にアップでまとめ、ダボついた大きなスウェットを纏っていた。裾から覗く、すらりと形よく伸びた白い素足。その姿は、まるで時間が止まっていたかのように、六年前の記憶のままだった。沙耶はわざとらしく目を丸くしてみせたが、その瞳の奥には、俊介の来訪を待ち構えていたかのような、揺るぎない自信が静かに宿っていた。

沙耶が何かを口にするよりも早く、俊介は玄関へと強引に踏み込むと、背後でドアを蹴り閉め、そのまま彼女の細い腕を掴み上げた。逃げ場を奪うように壁へと追い詰め、逃がさないとばかりに壁を強く叩く。

「一体、どういうつもりだ!」

言葉を絞り出したその瞬間、俊介の耳の奥で、あの無機質で規則的なシャクに触る音が鳴り始める。

ピッ……ピッ……ピッ……ピ……

また、あの音だ。 「いい加減にしてくれ!」 俊介が頭を激しく振ると、耳障りな電子音は幻聴のように掻き消えた。

「きゃっ!」

沙耶はわざとらしく怯えたふりをしてみせたが、その表情は数秒と持たず、すっと消え去って、代わりに冷ややかなせせら笑いを浮かべると、

「6年ぶりの再会だっていうのに、随分ね。『会いたかったよ』とか『綺麗になったな』とか、そういう甘い言葉はないわけ?なんか、がっかりだわ。」

沙耶は挑発的に、俊介の瞳の奥をまっすぐ射抜くように見つめながら言い放った。まるで、あなたの考えていることなんて、全部分かっているのよ、とでも言いたげに。

「ふざけるな。……あの子は、俺の子なのか」  

俊介の問いかけに、沙耶はぷっと小馬鹿にしたように吹き出し、心底呆れたという風に肩をすくめる。スルっと俊介の腕から抜け出ると、

「何を言ってるのよ。私がピルを飲んでいたことは、あなたも知ってるでしょう?あんな可愛らしい奥様がいたら、そりゃあ、別れられるわけないわよね。あなたから聞いてた話とずいぶん雰囲気が違うから驚いたわ。ずっと不妊治療をしていたのに、今回は自然にできたんですって?」

俊介の横で壁にもたれながら、挑戦するかのように問いただす。

「俺の子供じゃないというなら、目的は何なんだ!なぜ今になって現れた!十分に金はやっただろう!」

「自惚れるのもいい加減にして。6年前、私はあなたにゴミのように捨てられた。傷ついた私は、NYに行って、そこで運命の人に出会って、涼を授かった。日本語を学ばせるために帰国したら、偶然あなたの奥様とお友達になった。ただそれだけのことよ。……世の中、すべてがあなたを中心に回っているわけじゃないのよ」

沙耶はフンっと鼻で笑い、露骨に俊介を見下すような仕草をしてみせた。

「そんな話を信じろとでも言うのか!」

壁に拳を打ちつけて去勢をはるが、その声はどこか弱々しく震えている。

「信じるも信じないも、あなたの勝手だけど」

沙耶は、俊介の拳のすぐ横で髪の先を指先で弄びながら、俊介のすべてを手の内で転がしているかのように、冷たい余裕の笑みを浮かべて彼を見つめる。

俊介は拳を壁に押しつけたまま、両腕の中に顔を埋めて項垂れている俊介の耳元へそっと顔を寄せると、今にも唇が重なりそうな距離で、甘く囁く。

「……せっかく来てくれたのに、そんな顔しないで。見せたいものがあるの。ちょっと上がって。涼が起きるから、静かにね」

沙耶は俊介の腕を軽くつかみ、抵抗を許さない自然な強引さで窓際へと連れていく。窓際には、小さな望遠鏡が据えられていて、沙耶に促されるまま覗き込むと、道路向かいのマンションの一室で、麗華が台所に立って料理をしている姿が、驚くほど鮮明に映し出されていた。まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くに感じられ、その一挙一動までもが、はっきりと観察できた。

***

「ただいま」

数日後の夜。俊介は魂が抜けたような足取りで帰宅すると、

「おかえりなさい」

と、麗華のエプロンを身につけ、髪をリボンで後ろで緩く束ねた沙耶が、リビングから出迎えてきた。

「……どうして、おまえがここに」

俊介が絶句していると、奥のリビングから麗華の声が響く。

「あなた、おかえりなさい」

沙耶は意味ありげな視線を俊介に向けたまま、まるで、毎日かのことのように彼からカバンを受け取り、リビングへと戻っていく。その背を追って俊介が室内に入ると、ソファに麗華が横たわっていた。傍らでは陽と涼が夢中になってレゴで遊んでいる。

「おかえりなさい」

麗華は青白い顔で、弱々しい笑みを浮かべると、大きく膨らんだ腹に手を当てながら、ゆっくりと身体を起こした。

「今日ね、沙耶さんがランチに誘ってくださったの。その後にお茶をしていたら急にめまいがしてしまって……。それで、そのままお家まで送ってくださったのよ」

麗華は、青白い顔にいたずらっ子のような無邪気な笑みを浮かべて続ける。

「あなたが今日は早く帰るから、お夕飯を用意しなきゃって話したら、沙耶さんが作ってくださるって。とってもお料理がお上手みたいだから、つい甘えちゃった」

俊介が、ゴクっと生唾を飲み込むと、麗華は気づかぬ様子で、さらにこう続ける。

「ねえ、俊介さん。沙耶さんの得意料理って何だと思う? なんと、あなたの大好物のロールキャベツなんですって。それも、わざわざクリームシチュー仕立ての。本当に、運命を感じちゃうわ!」

「ええ。ロールキャベツが好きでよかったわ。口に合うといいんですけど」

沙耶が振り返り、余裕のある微笑みを俊介に向けた。

「ごめんなさい、気分が悪いわ。お夕飯まで少しだけ休ませてもらうわね」

麗華はしんどそうに息を吐く。俊介は麗華を寝室まで連れてくと、興奮した足取りでキッチンへ入り。野菜を刻んでいた沙耶の腕を、乱暴に掴み上げる。

「いい加減にしろ! 一体何を考えているんだ!」

「痛いわ。やめて」

沙耶は俊介の手を涼やかに振り払うと、挑発的に見つめ返した。

「麗華さんが言った通りよ。具合が悪いから手伝っているだけ。あなたの好物だって、私は全部知っているし。ちょうどいいじゃない」

そう言って、小さく笑う。俊介はリビングでレゴで遊ぶ陽と涼を確認すると
、声を押し殺して詰め寄った。

「金か……金なんだろ? いくら払えばいい! 言えよ、いくらでも払うから、俺たちの前から消えてくれ!」

興奮のあまり、俊介の手がアイランドキッチンの縁に置かれている鍋に触れ、中身が派手にひっくり返る。

「あっ!」

生ぬるいクリームソースが、俊介の下腹部からスラックスをべったりと濡らした。騒ぎに気づいた陽と涼が心配そうに駆け寄ってくる。沙耶は穏やかな笑みを一瞬にしてつくろった。

「大丈夫よ。あっちで遊んでいなさい」、と子供たちがリビングへ追い払う。「冷めててよかったわね。下手したら、あなた、大火傷するところだったわ」

沙耶はふきんを手に取り、俊介の腹部から股間にかけて付着したクリームソースを、スラックスの上から容赦なく拭き始めた。

「お、おい……やめろ……」

必死に沙耶の手を払いのけようとする俊介に対し、沙耶はエロティックな笑みを浮かべて言い返す。

「ほら、早く脱いで。シミになるわ。何を恥ずかしがっているの? あなたの裸なんて、見飽きるくらい見てるのよ」

そうくすりと笑うと、まるでこの家の主のような手慣れた所作で、沙耶は俊介の手を引いてシャワー室へと連れていく。シャワーから熱めのお湯が噴き出し、水音が狭い空間に反響する中、沙耶は躊躇いもなく俊介の衣服を剥ぎ取っていく。

俊介はシャワー室の壁のタイルに指を立て、必死に踏みとどまろうとした。立ち込める湯気の向こうで、ふと沙耶の顔があの夜と重なる。ナイフを握りしめ、狂気の瞳で俊介を見下ろしていた、あの彼女の顔と。

「あっ……!」

その瞬間、喉の奥から絞り出された声と同時に、視界が白い閃光に塗りつぶされた。俊介の膝から力が抜かれ、無惨にタイルの床へと崩れ落ちる。

「早く洗わなきゃ。汚れてしまうわ」

そう言って、沙耶は服を着たまま俊介のシャツを剥ぎ取ると、剥き出しになった無防備な裸体を、自らの手で洗いはじめる。氷のように冷たい指先が肌の上を這い、やがて彼女の唇が俊介のものへと、シャワーの水の中で重なっていく。

「やめろ……やめろってば……麗華が、すぐそこにいるんだ....ぞ……」

しかし、その言葉は弱々しく、全てはシャワーの水音に流されていった。 沙耶が俊介の耳元で甘く、そして冷たく囁く。

「麗華さん、あなたのことを『よく知っている』と思っているのよ。笑っちゃうわ。……あの女が、あなたの過去をどこまで知っているか、楽しみじゃない?」

その言葉が、苦くて甘い媚薬のように俊介の全身を駆け巡る。抵抗の意志は完全に崩れ去り、俊介の指先が自然と沙耶の腰へと絡みつく。羞恥と恐怖が混ざり合い、俊介の身体は次第に熱を帯びていく。シャワーの水音の向こうから、リビングから漏れ聞こえる子供たちの屈託のない笑い声がかすかに俊介の耳元に届く。

またたく間に、シャワーの湯気が充満し、甘い毒に侵された意識の中で、俊介の視界は徐々に朦朧としていった。俊介の身体からは完全に全ての力が抜け、タイルの床に大の字になった俊介の身体の上に跨ると、沙耶はスカートを捲り上げた。そして、冷たい薄ら笑いを浮かべたまま、腰を激しく動かし始めた。

明日目が覚めた時、きっと世界はもう昨日と同じ形をしてはいないだろう…。

第四話:混濁する境界


「パパ、パパ……」

幼い声が、俊介の耳の奥、遠くから水底を叩くように響いてくる。まどろみながら瞼を少しずつ開けると、視界は白濁した霧の中にいるように揺らめいていた。次第に霧が薄れていき、焦点を合わせようと目を凝らすと、そこには沙耶、麗華、陽、そして涼の四人が、心配そうな面持ちで自分を見下ろしていた。そして、真っ裸でベッドに寝かされていることに気がついた。

「よかった、気がついたわ!」

俊介と目が合うと、沙耶が弾んだ声で手を叩き大袈裟に喜ぶと、続いて「パパ〜!」と 涼が俊介の胸元に無邪気に飛び込んできた。そのスベスベの子供の頬が、なぜか氷のような冷たさで、鋭い痛みとなって俊介の胸に突き刺さる。

「沙耶さん、よかったわね。でも驚いたわ。シャワー室で倒れるなんて……。フフッ、なんだか随分と情熱的ね。ちょっと刺激されちゃったわ。私も今日、旦那を誘ってみようかしら」

麗華の声が、俊介の耳の奥で妙に反響する。まるで、他人の夫の痴話話でも聞くかのような、他人行儀で他所行きのすました笑みを浮かべている麗華を見ながら、不協和音のような、気持ち悪さを俊介は感じた。

ーー旦那? ……何を言っているんだ? お前の旦那は、俺じゃないか。

「もう、麗華さんったら。からかわないでよ。こんなこと、普段はしないんだから。本当に、今日はたまたまなんだから」

沙耶が顔を赤らめて、頬を両手で包みこみ、大袈裟に恥じらって見せると、その場にいた全員が一斉に笑い出した。ドラマの公開放送のような、不自然にタイミングの揃った笑い。陽も涼も、子供らしい無垢さは欠片もなく、何かに操られるように口角を吊り上げて笑っている。

「でも、麗華さんが偶然来てくれて本当に助かったわ。私一人じゃ、ここまで運べなかった」

沙耶の言葉の最後の方が、俊介の耳の奥で、錆びた金属を擦り合わせるような不快なノイズへと変質する。

ピッ……ピッ……ピッ……

背筋を、耐えがたいほどの寒気が突き抜ける。

その時、麗華がおもむろに身をかがめ、俊介の裸の胸に自分の耳を当てた。彼女の頬は驚くほど暖かく心地よい。

「大丈夫。ちゃんと心臓の音、聞こえるわ。……ただ、すごい遠い……」

ーーおい……麗華、一体何を言っているんだ?

一瞬、麗華と視線が交差する。だが麗華はすぐさまバツが悪そうに目を逸らし、太ももに絡みついている陽に向かってニコリと笑いかけた。

「さ、陽。お家に帰ろう」

陽がこくりと細い首を縦に振り、麗華の手を握る。

「おい、待て……! ここはお前たちの家だろう?」

必死に絞り出した言葉は、掠れた悲鳴のように部屋中に響き渡る。全員が当惑したように顔を見合わせたあとで、心底可笑しそうに肩を震わせて、舞台で見せる芝居のように大爆笑する。

「あはははは……もう、俊介さん、やあねえ。麗華さんがそんなに魅力的だからって、そんな冗談、面白くないわよ」

沙耶が呆れたように首を振る。麗華も目尻に浮かんだ涙を優しく拭いながら、甘い声で続ける。

「ふふ、俊介さん、きっとまだ昏睡状態なのよ。今日は大目に見てあげて。じゃあね、沙耶さん、帰るわ。あ、冷蔵庫にロールキャベツを仕込んでおいたから、あとで温めて食べて。さあ、陽、行こう」

麗華は振り返ることもなくリビングのドアを閉める。
ガチリ、と 重く硬質な鉄の音が、俊介の脳髄にクサビのように打ち込まれた。

「待て……! 行くな、麗華!陽!」

俊介は彼女たちの見えなくなった背中の残影を掴もうと必死に手を伸ばそうとするが、指先一つ満足に動かせない。そうするうちに、視界が急速に細まっていく。奥深い霧の中へと引きずり込まれるような感覚。心地良いような、心地悪いような、ふわふわと沼に浮く藻のように漂うような感覚….。すると、沙耶が俊介の頬を両手で挟み、顔を近づけてくる。その手のひらは、俊介の体温をすべて奪い去るほどに凍てついていて、俊介の身体を一瞬で凍らせる。

「大丈夫よ、俊介さん。あなたは何も心配しなくていいの。ただ、私の男……そして、涼のパパでいてくれればいいの。ただ、それだけよ」

耳元で囁かれる吐息は、甘く、そして致死量の毒を含んでいた。

俊介の視界はじわじわと狭まり、暗がりの片隅で、沙耶と涼の頭皮のてっぺんが、ミシミシと音を立ててひび割れていくのが見えた。

さなぎが脱皮するように、薄い仮面がゆっくりと剥がれ落ちていく。

その下から現れた二人の顔は、血の気のない青白さに染まり、やがて恐ろしい形相の「鬼」へと変容していた。

「ひぃ〜、麗華、陽、助けてくれ……俺も連れてってくれ……!」

あまりの恐ろしさに、精一杯の大声を出そうとするが、喉からはヒューヒューと木枯らしのような呼気が漏れるだけだ。

そうして俊介は再び、深い沼の底へと沈んでいった。

暗転していく視界の端で、般若のような冷たい表情を浮かべた二体の「鬼」が、これから弄ぶ獲物の行く末を品定めするかのように、不気味な笑みを浮かべながら、ゆっくりと俊介を見下ろしていた。


第5話:ずっと一緒


白い光が瞼の上から差し込み、強引に俊介の網膜を突き抜ける。居心地の悪さに眉間を寄せ、頭を左右に振ったあと、俊介はゆっくりと目を開ける。見慣れたはずの寝室は、一様に白く染まり、現実味を欠いたまま、俊介の瞳の中でいびつに揺れていた。

「……よかった、夢か」

見た夢のあまりの恐ろしさに、心臓が早鐘を打っている。安堵を求めて身体を横に向けると、背中を向けた麗華が静かな寝息を立てていた。俊介は背後から彼女を抱き寄せ、その髪に顔を埋める。嗅ぎ慣れた甘い匂いを胸いっぱいに吸い込もうとした瞬間、麗華がゆっくりと振り返る。

「おはよう」  

陶器のような冷ややかな微笑みで甘い息を吐いたのは、麗華ではなくて、沙耶だった。

「わっ……! なぜお前がここにいる! 麗華はどこだ!」

俊介は沙耶を突き飛ばし、ベッドから転がり落ちると、そのまま壁際まで必死に身を寄せた。

壁の前で震え上がる俊介を、沙耶はベッドの上から冷ややかな瞳で見つめ、面白がるように口元をわずかにゆるめた。

そして、けだるげに髪をかき上げながら、ゆっくりと上半身を起こす。

「寝ぼけているのね。麗華さんなんて、初めからいないわよ」

「嘘だ! お前の目的は何だ! 何をしにここへ来た!麗華!陽!どこにいるんだ!助けてくれ!」  

壁に背を預けたまま、俊介の脚から力が抜け、ずるずると床へ崩れ落ちた。沙耶はベッドの上をゆっくりと這い進み、端までたどり着くと、一切の物音を立てず、俊介の目の前へ歩み寄った。

純白の長いネグリジェに、下ろしたままの真っ黒な髪。

その肌は異様なほど青白く、まるで古い映画の中から抜け出してきた亡霊のように、冷ややかな非現実感をまとっている。

華はゆっくりとしゃがみ込み、俊介と同じ高さまで顔を近づけると、氷のように冷たい唇で、そっと彼の頬に触れた。そのまま俊介の胸へ耳を押し当て、鼓動の音を確かめるように、静かに息を潜める。

俊介は全身の力を奪われ、抵抗する術もなく、ただその場で震えていた。

「……まだ、聞こえるわ」

残念そうに呟くと、沙耶はすうっと立ち上がり、俊介に向かって両手を差しのべる。

「さあ、立って。涼がパパを待っているわよ」

沙耶が微笑む。窓を閉め切っているはずの部屋に、どこからか冷たい風がふうっと吹き込み、ブラインドの隙間から差し込む光が、目に突き刺さるほど白く光った。

抵抗しようとする意思とは裏腹に、身体は操り人形のように沙耶の意のままにされ、全裸のままリビングへと連れられていく。そこでは涼が背を向けたまま、黙々とレゴブロックを積み上げていた。真っ黒なブロックを積み上げては崩し、崩してはまた積み上げている。俊介の気配を感じても振り返ろうとはしない。ただ、機械のように抑揚のない声で「パパ、こっちに来て。一緒に遊ぼうよ」と、呪文のように繰り返すばかりでいる。

「携帯は……携帯はどこだ!」  

はっと我に返り、俊介はリビングを見渡す。

「麗華に電話しないと!」

全裸でソファのクッションをひっくり返し、一心不乱に携帯を探す俊介の姿を楽しみながら、沙耶は冷酷に言い放った。

「携帯なんてないわよ。あなたは働き過ぎ。もう、何もしなくていいの」

何が何だか訳が分からず、混乱した俊介は、全裸のままソファに座り込み、頭を抱えた。

「沙耶、頼む。悪ふざけはもうやめてくれ! 俺をどうするつもりだ。麗華は? 陽はどこへ行ったんだ!」

俊介が半狂乱になって叫ぶ。しかし、沙耶はそれに応えることもなく、キッチンカウンターでリンゴを剥き始めた。銀色の刃先から、赤い皮が一度も切れることなく、長く、長く螺旋を描きながら床へと落ちていく。

「麗華さん? ……そんな人は、どこにもいないわ」

顔を上げもせず、淡々とリンゴを剥きながら、冷たく答える沙耶。そのナイフの鋭利な光が、俊介の瞳を鋭い眩しさで射抜いた。

「俊介さん、いい加減諦めたら? あなたは私といるのよ。これからもずっと。私と涼と、ずっとね」

沙耶はリンゴとナイフを手に、足元まで伸びたリンゴの長い皮を蛇のように引きずりながら、俊介のもとへ一歩、一歩近づいてくる。裸足で歩く沙耶の足音は、この世の音ではないかのように一切響かない。沙耶は俊介の前に音もなく膝をつき、ふたたびその胸に耳を寄せた。

「……随分と、音が小さくなったわね」

その言葉と同時に、部屋の空気が凍りついた。閉まっていたはずのブラインドが、存在しない冷気に煽られ、バタバタと激しく窓を叩く。真っ白な光が全方位から俊介を射抜き、胸に鋭利な痛みが走った。俊介はたまらず胸をかきむしる。

「く、苦しい……」

耳の奥で、あの電子音が

ピッ……ピッ……ピッ……

と、不穏なリズムを刻みながらどんどん大きくなっていく。

沙耶がナイフで削いだリンゴのかけらを、強引に俊介の口元へ押し付ける。無理やり顎を開かされたまま、俊介が視線を沙耶の肩越しにリビングへ伸ばすと、レゴで遊んでいた涼がこちらを「パパっ!」と振り返った。その顔は、黒いクレヨンで塗りつぶされた塗り絵のように真っ黒で、目や口の位置さえ判然としない。

沙耶が「おいで」と誘うように腕を広げると、その合図に応えるように、真っ黒な顔の涼がスキップしながら俊介へ近づいてくる。

「ひぃ〜、やめろ、やめてくれ!」

追い詰められ、ソファに沈み込む俊介に、沙耶と涼は、示し合わせたかのように同時に飛びかかってきた。その貌(かお)は、かつて夢で見た鬼の形相へと変貌を遂げている。二体の鬼は俊介を四肢をあまねく捕らえ、ゆっくりと確実に引きずり込んでいく。俊介の身体と意識は、ソファの奥へ、底なし沼の暗闇へと確実に沈んでいった。

意識の遠くで、最後の音が響く。

ピッ……ピッ……ピーーーーーー

「やめろ、やめてくれ……俺は、どこにも行きたく……なかったのに……」

俊介の震える声は、沼の奥へと沈んでいった。

第6話:6年前、地獄に落ちた夜


深夜の病院の廊下は、重苦しい静寂と消毒液の匂いで充ちていた。集中治療室の前で、麗華は震える手でふっくらと膨らんだ下腹部を抱え、ガラス越しに管に繋がれた俊介を涙目で見つめる。

「俊介さん……お願い、目を覚まして……」

しかし、麗華の切なる祈りは届かない。時折、病室の静寂を切り裂くモニターの警告音が、俊介がもう境界線を越えてしまったことを、冷たいガラス越しに告げていた。

医師たちは「奇跡を待つしかない」と繰り返すものの、その表情には深い諦めの色が濃く滲んでいる。

少し離れた椅子に座る俊介の両親もまた、言葉を失い、深い絶望に打ちひしがれていた。

ピーッ、ピーッ、ピーッ

その時、モニターの波形が激しく乱れ、警告音が甲高く鳴り響いた。医師と看護師が慌ただしく駆け込む。しかし、その喧騒も束の間、激しい警告音はあっと言う間に途絶え、ただ一直線の単調な電子音へと変わった。

「お亡くなりになりました」

病室から出てきた医師から告知を受けた瞬間、麗華は力なくその場に崩れ落ちた。そんな彼女を支えながら、俊介の父、太郎が涙で目を潤ませて語りかける。

「麗華さん、本当に申し訳ない。お腹の子と君の面倒は必ず見る。だから、安心して産んでくれ。……本当に、あいつは馬鹿野郎だ。こんな素敵な妻と子供を残して……」

言葉は最後、嗚咽にかき消されていった。

――そうだ。すべては、あの夜から始まった。 薄れゆく意識の淵で、俊介の脳裏に走馬灯のように記憶が蘇る。心臓が鼓動を止めるその寸前、鮮明に浮かび上がったのは、数日前、ホテルDで迎えた沙耶の誕生日の夜の出来事だった。

***

テーブルに置かれた飲みかけのワインボトルと、手のつけられていない冷めきったステーキが異様な緊張感を煽っている。

「別れないわ」

沙耶は、足元で泣き崩れる俊介を見下ろしながら、冷たく呟いた。俊介がすすり泣きをやめ、ゆっくりと顔を上げる。沙耶の視線と絡み合い、それまで滑稽なほど必死に許しを乞うていた俊介の仮面が、音を立てて剥がれ落ちた。

「無理よ。だって、私、妊娠してるもの」

俊介はその言葉を聞くと、一度深くうなだれた。
やがてふらりと立ち上がり、足元をふらつかせながら窓際へと歩み寄る。
宝石のように輝く東京湾の夜景を映し出すガラスへ両手を突き、そのまま、何度も、何度も激しく、額を打ちつけた。

二匹の蛾は窓のはじでじっと動かない。

「ピルを飲んでたはずだろ! なんで妊娠するんだよ!」

「ピルだって100%じゃないのよ」

俊介は頭をぶつけるのを止めると、そのまま窓に両手をついたまま、乾いた不気味な笑い声を上げた。

「ははははは……そうか。お前の目的は最初からうちの財産だったわけか。

地方のスーパーの娘ごときが、この俺の嫁になれるわけないだろ! 俺とお前が釣り合わないことは、最初から分かってたじゃねえか!」

俊介は沙耶のもとへ戻ると、彼女の肩を乱暴に掴み、勢いのままベッドへ突き飛ばした。そしてふらつく足取りで、またテーブルのワインボトルを取りに行くと、中身を一気にあおった。そして、再び鳴り響いた携帯電話を床へ叩きつけ、苛立ちを剥き出しにして髪をかきむしる。

「どいつもこいつも、妊娠妊娠って、うるせえんだよ!」

俊介は吐き捨てるように叫び、ベッドへ転がり込むと、やがらイビキをかき始めた。沙耶は虚ろな瞳でしばらく天井を仰いでいたが、静かに起き上がると、乱れた髪を整える。そして、テーブルから冷えた料理の脇に置かれたステーキナイフを持ってくると、獲物を狙うように彼の上へ馬乗りになった。

「私が何のために妊娠したと思ってるのよ!」

俊介の喉に目掛けて一気に振り下ろす。迷いのない一突きで、ステーキナイフが俊介の喉元を深々と貫いた。カッと見開かれた俊介の瞳に、恐怖と絶望が混濁し、陸に上がった魚のように口をパクパクとさせながら、両手で首を押さえた。沙耶は間髪入れず、同じナイフを自らの喉元へ突き立てた。鮮血が噴水のように噴き出し、彼女は俊介の上にどさりと崩れ落ちる。純白のシーツが、どす黒い朱色へと染まっていく。

窓の外では、夜の空を切り裂くように一機の旅客機が赤い航法灯を瞬かせ、ゆっくりと遠い闇へ消えていく。二匹の蛾はとうとう窓から離れると、ひらひらと戯れ合うように舞いながら、倒れ重なる俊介と沙耶の上を静かに巡っていた。


エピローグ:完成された嘘


「こちらで、以上です。」

初老の弁護士が、麗華が捺印した書類をトントンと机で整え、事務的に言い放った。

「遺言どおり、奥様と息子さんの口座へ、数週間内に振り込まれます。」

麗華は、隣で股をだらしなく開いて座っている陽を軽く突き、立ち上がる。促されるままエレベーターまで向かうと、弁護士はうやうやしく頭を下げた。

「じゃ、俺、リハがあるから」

陽は気だるそうに言い放つと、ギターケースを背負い直し、駅の方へと小走りに消えていった。

血は争えないものだ。人混みに消えていく陽のひょろっとした背中を見ながら、ふと、あの男の笑顔が脳裏をよぎる。

ーーやだわ、忘れていたのに。
その記憶をかき消すかのように、麗華は軽く頭をふった。

ちょうど前を通りすぎたタクシーにそっと乗り込むと、車は都心の喧騒へと滑り出した。

ーーあれから二十年。長かった…..。

あの夜、俊介が逝ってから二十年。ようやく義父の太郎も鬼籍に入り、とうとう麗華と陽に遺産が渡ることになった。窓越しに街の景色を眺めていた麗華の目に、ふと、ある看板が飛び込んできた。

――渋谷ウィメンズクリニック

まだやっていたのね。

麗華は喉の奥で小さく笑った。そして、あの日を思い出す。


***

20年前、診察室に入った麗華に、医師は当惑した表情を向けた。

「奥様お一人ですか? ご主人もご一緒に、とお伝えしていたはずですが」

「……すみません。主人はどうしても仕事の都合がつかなくて。今日は私だけで結果の方を…」

麗華の鼓動が、一段と激しく心臓を打つ。

医師はPCの画面と手元の書類を交互に見比べ、言い淀んだ。その沈黙が、まるで鈍器のように麗華の心臓を締め付け、喉元まで吐き気がせり上がってくる。

ーーやっぱり、私は妊娠できないんだわ。「……そうですか。結論から申し上げますと、奥様の方には何も問題はありません。妊娠に支障をきたすような要因は見当たりません」

「え?」

身体から一気に力が抜け、天にも昇るような安堵が全身を駆け巡る。よかった、私は妊娠できる。十代の頃からのひどい生理不順で、てっきり自分に欠陥があると思い込んでいた。麗華が安堵の笑みを浮かべたのも束の間、医師は、その小さな期待の芽を根こそぎ刈り取らねばならないかのように、追い立てられるような様子で続けた。

「ただ、問題は、ご主人の方でして……」

***

診察室を出た後の記憶は曖昧だ。ただぼんやりと、夕暮れの忙しない街中を、気の向くままに歩き続けた。ふと、右足のヒールが折れてバランスを崩し、麗華はその場に座り込んだ。診察室で聞かされた医師の言葉が、頭の中で何度も何度も再生されている。

「ご主人、精子が見当たりません。無精子症ですね」

結婚して五年。俊介が外に女を作っていることには、ずっと前から気づいていた。夜中を回って帰宅する彼のシャツには、決まって甘ったるい、安い香水の匂いが染み付いていた。

子どもを産まなければ、私は捨てられる。

もうすぐ議員の妻になれるというのに。

誰もが羨む高級マンション。政治家一族の新米議員を支える、美しく健気な妻という立場。

――それだけは、絶対に手放したくない。

俊介を必死に説得し、ようやく始めた不妊治療だった。

私の身体が悪いのだと、そう信じ切っていた。俊介も、冷ややかにそう思っているはずだった。それが、無精子症……。

涙が頬を伝い、嗚咽が漏れる。行き交う人々は、その姿を横目で値踏みするように眺めながらも、足早に通り過ぎていった。

その時、

「大丈夫ですか?」

若くて瑞々しい、甘い声が麗華の頭の上から降ってきた。
麗華の視界の端に、薄汚れた若い男もののスニーカーが映る。
顔を上げると、背中に黒いギターケースを担いだ青年が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。

麗華と目が合うと、若い男は躊躇うことなく麗華の目線までしゃがみ込み、ギターケースを道に下ろした。そして、水色の色褪せたハンドタオルを無造作に差し出してくる。

ーー俊介さんに、驚くほどよく似ている。見るからに、かなり貧しそうではあるけれど……。

麗華は、涙で霞む瞳でその若い男の顔を見つめながら、ある考えが思いつく。

ーーああ….神様っているんだわ…..。

「大丈夫? 何か辛いことでもあったの? 僕でよかったら話、聞きますよ。こう見えて僕、聞き上手なんです」

屈託なく笑う青年の視線が、頬の涙を拭う麗華の左手。その薬指へ一瞬だけ動いたのを、麗華は見逃さなかった。

麗華は儚げに微笑み、差し出されたタオルを受け取った。汗のにおいがしたが、グッとこらえて目尻の涙をそっと拭い、可憐な声を作り、遠慮がちに聞いてみる。

「ありがとう……。なら、お茶に……付き合っていただけますか?」

青年はニコッと笑い、麗華の華奢な手を受け止めるように掌を差し出した。

その手を、麗華はすがるように掴み、ゆっくりと立ち上がった。

ワンピースについたほこりを軽く叩き、二人は並んで歩き出した。麗華はカバンの中に手を入れて、無造作に入れられた診断書をぐしゃりと握りつぶした。


***

…..ほんと、長い20年だったわ。あの沙耶とかいう女、妊娠していたそうだけど。結局、誰の子だったのかしら。まあ、どうでもいいことだけれど….。

麗華は、流れる窓外の景色から視線を戻すと、満足げに小さく笑みをこぼして瞼を閉じた。車は地獄の記憶を置き去るかのように、トンネルの暗がりの中へ静かに加速していく。

「世の中には二種類の悲劇がある。一つは、望みが叶わぬこと。もう一つは、望みが叶ってしまうこと。」

――オスカー・ワイルド 



最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
スキをくれた皆様、大変励みになります!

一番ゾッとしたシーンはどこでしたか? ぜひ、ご意見をお聞かせください。すべて大切に読ませて頂きます!!!


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