『地獄まで愛してⅡ』第12話|梯子の向こう側
「あっち〜な、おい」
駅を出た瞬間、夕暮れ時だというのに、サバンナの熱風のような空気が龍の全身を包み込んだ。しかし、背中を流れ落ちる汗すら気にならないほど、龍の心は清々しい。
そこで初めて、朝から楊枝をくわえていないことに気づき、慌てて胸ポケットを探るが、一本も入っていなかった。
「ま、なくてもいいか」
裏道へ入り、いつもの事務所への近道を行こうとしたとき、ふと龍の頭にひとつの考えがよぎる。
――あのレコード屋に寄ってみっか。
駅から続く商店街のはずれに、中年男が営む小さなレコード屋がある。
今の時代にどれほど商売になるのか分からないが、若い頃は透のようにミュージシャンだったのだろう。
そんな風貌の男が、商売など気にしていなさそうな落ち着いた表情でレコードをいじっている姿が、通り過ぎるたびに龍の目に入り、その静かな佇まいが気になっていた。
いつかはこの世界から足を洗わなければならないのは分かっていた。だが、その先に何があるのか。どこに居つけばいいのか。高校を中退してからずっと転々としてきた龍には、「走り止まる」という感覚が分からない。
走り続けて、ある日ぽっくり逝けたらそれでいい――そんなふうに思うようになって数年。
自分と同じ根無し草の男たちを束ねることにも、正直しんどさを感じていた。
***
「透さん、僕とバンドやりません? 龍さんも。龍さん、いい声してるし、ボーカルで。透さんはギター。僕はドラム。他のメンツは徐々に探してけばいいし」
陽がコーヒーを注ぎながら言った。
「な、なに言ってんだよ!」
龍は思わず吹き出す。透は相変わらず浮かない表情のまま、ひたすら卵をいじっている。
陽は二人よりずっと早く起きていたらしく、十時を過ぎても起きてこない龍と透は、真っ青なジーンズに白いTシャツ、ワックスで固めた髪の陽に起こされた。
ダイニングテーブルには、目玉焼きと、龍が見たことのない種類のパンが、温かく焼かれてバスケットに並んでいる。
麗華はもうとっくに出かけたらしい。
「お! 美味そうだな! にしても兄ちゃん、いい奥さんになれんじゃね?」
へへ、と笑って席に着く。
冷房の効いた部屋に、壁一面の窓から遅い朝の光がやわらかく差し込み、その光を受けて龍のスキンヘッドがきらりと光った。サングラスで隠されていない目は、わずかに垂れ目でどこか愛らしい。
「おい透よ。何そんな浮かない顔してんだ。こんな朝飯まで出してもらってよ、陽ちゃんに少しは感謝しろよ」
龍はパンをつかんで豪快にかじる。
「あ、ええ。すみません」
また頭を下げる透を見て、陽はクスッと笑った。
目玉焼きを一気に平らげ、げふっと息を吐き、満足気に少し突き出た腹をさすりながら龍が言う。
「俺さ、音楽なんてやったことねえけどよ。でも、確かに良い声してんだわ。カラオケでさ、いつも拍手喝采よ」
意外にも龍はすぐに乗り気の顔を見せた。実際、龍の低さと高さが入り混じったしゃがれた声は味があり、陽は気に入っていた。今のバンドメンバーの少女のような一点の曇りもない高い声より、ずっと陽の想像力をかき立てる。
慣れてきたら、ハーモニカやタンバリンを持たせてもいいかもしれない。
右頬の深く刻まれた傷に楊枝をくわえた龍が、タンバリンを叩きながら歌う姿を想像すると、思わず笑みがこみ上げた。その後ろには透と自分がいて――悪くない。
龍と陽の目が合い、軽く頷き合う。龍も一瞬、三人のバンド姿を想像したに違いない。
ただ透だけが、下を向いたまま、ひたすらベーコンエッグにかぶりついていた。
***
龍が店に入ると、店主はレコードを整理していた手を止め、ほんの一瞬「おや?」という表情を見せたが、軽く会釈してまた作業に戻った。
初めて吸い込むレコード屋の空気を、龍は胸いっぱいに吸い込んだ。いつも前を通り過ぎていたが、自分がこの店に入る日が来るとは思っていなかった。たった一枚のガラス扉が、龍とその向こうの世界を隔てる深い渓谷のように感じられ、十七の頃からずっと、その向こうを眺めるだけで生きてきた。
だが、ある日突然、なんの前触れもなくその深い渓谷に、そっと梯子がかかることがある。
普通の人間の、普通の暮らし。
――俺も、その向こう側に行けるのかもしれない。
透が持ってきた黒いリュックを足元に下ろし、店内をきょろきょろと見回す。ジャズのレコードがかかっていて、トランペットの音が狭い店内に響いていた。
――ああ、これ、どっかで聞いたことあるな。
レコードなど買ったことはないが、まるで何かを探しているふうに、ミュージシャン名ごとに整理された棚をめくってみる。軽く頷きながら眺めていると、気分はすでにミュージシャンだ。
そして、ふと目に入った楽譜コーナーで足が止まる。
――楽譜かあ。
「おい」と声をかけそうになり、慌てて咳払いする。これから世話になるかもしれない相手だ。丁寧にいかないと。
「あの、ちょっと、わりいけどさ、Hey Judeって楽譜、あったりする?」
自分でも滑稽だと思うほど甲高い声になった。店主は龍と同い年くらいか?でもこの世界ではずっと先輩だ。
「ええ、ありますよ」
店主は嫌な顔ひとつせず、レジ奥から梯子を持ってきて、一番上の棚から楽譜を取り出した。
「あ、三つある?」と龍。
「う〜ん、一部しかないな。でも、向かいのコンビニでコピーしたらいいんじゃない?」
梯子の上から龍を見下ろして、にこっと笑う。白髪まじりの髭の奥から白い歯がのぞいた。
「あ、そうだな!そうするわ」
店主は梯子を降りてレジに行き、少し埃のついた楽譜を丁寧に拭き、紙袋に入れると、
「お客さん、バンドでもやってるの?」
と聞いてきた。
「ま、まあな。そんなもんよ。俺、ボーカルなんだけどね」
と、照れ隠しに龍が頭をかきながら言う。
「へえ。良い声してるもんね。でもHey Judeって渋いね」
「あ、まあな。母ちゃんが好きで、よく聞かされてよ」
へへ、と笑った瞬間、胸の奥底にしまっていた記憶がぐわっと込み上げ、その思わぬ痛みに、龍は一瞬だけ顔を歪めた。
ゆらゆらと揺れてる親父の足。
「クズは最後までクズだなあ」
冷たく言い放つ借金取り。
すみません、すみません、と土下座して頭を床にすりつけてる母ちゃんの小さい背中。
封印していた記憶が、走馬灯のように脳裏を一気に駆け抜けた。
店主はレジを打っていて気づかない。
「名曲だもんね」と言い、楽譜を紙袋に丁寧に入れると龍に手渡す。
龍は軽く会釈して店を出た。
何十年もかけて龍がようやく渡れたその“梯子”の先の世界は、意外にも当たり前のどこにでもあるような日常だった。
黒いリュックを抱え直し、紙袋を左手に持ち替えると、夕暮れの熱風が、相変わらず龍のスキンヘッドを撫でつけていく。
――さてと、さっさとこの金を事務所に渡してくるとするか。
龍の所属する組の事務所は、踏切を渡って左へ曲がり、さらに右の裏道に入った古いビルの二階にある。
チンチンチン――踏切がちょうど降り切った。都内でも珍しく残るこの踏切は“開かずの踏切”で、一度閉まるとなかなか開かない。
ちぇっ。ま、いいか。急ぐわけでもねえし。
帰路を急ぐ人混みの一番後ろに並んだ龍の耳に、
ざわつく声がふっと入り込んだ。
「ちょっと、あのホームレス……」
チンチンチン――踏切の甲高い音が龍の耳の奥を逆撫でる。なんだ、と背伸びして踏切の中を見ると、泥酔したホームレスが、汚い服でパンパンに膨らんだビニール袋を数個抱えこんで、踏切の真ん中に座り込んでいた。
薄汚れた長いトレンチコートに帽子、スカーフまで巻きつけ、全身ねずみ色の、見るからに異臭を放つ筋金入りのホームレスだ。帽子の下からは、ぼうぼうに伸びて固まった髪がのぞき、もはや年齢すら分からない。
寝ているのか起きているのかさえ判然としない。
背中を丸めてうなだれたまま、踏切の真ん中にどてっと座り込み、薄汚れた袋を抱えて右へ左へとゆらゆら揺れている。
「おい!起きろ、おっさん、起きろって!」
チンチンチン――龍は人混みを押しのけて前へ進みながら、できる限りの大声を振り絞って叫んだ。
左目の端には、こちらへ迫る電車の気配が入り込み、鉄路からはゴーゴーと低い振動が伝わってくる。
チンチンチン――赤い警報灯が点滅する。
ゴーゴーゴー。
真夏の灼熱を吸い込んだ鉄路を、電車が鉄の塊そのままに、ホームレスへ向かって唸りを上げて迫ってくる。
ーーつづく
