『地獄まで愛してⅡ』第11話|夜明けの前に、血が目を覚ます
熱いシャワーでシャンプーの泡を洗い流しながら、透は二十年前の記憶を呼び起こしていた。
――あの女、もし妊娠するのが目的だったなら。
記憶の断片を、パズルを組み立てるように繋ぎ合わせていく。指先に力を込め、眠っていた過去を抉り出すように、一心不乱に頭を掻き回した。
半年近く続いた逢瀬。
月に数回だけ、あの女から非通知でかかってくる電話。
待ち合わせは決まってホテルで、関係が終わればまた音沙汰がなくなる。
会話も乏しい関係だったが、別れ際に三万円を包んでくれること、そして見た目も充分に魅力的であること。透にとって、誘いを断る理由はなかった。
――だから避妊する必要がない、と言い張っていたのか。
ピルを飲んでいるから大丈夫だと、あの女は執拗に避妊を拒んでいた。
その不自然さが、今になって腑に落ちる。
山内家の息子は愛人に夢中だった。麗華は夫を取り戻すために妊娠する必要があったとしたら?――山内家の若奥様という座を守るために。
そして妊娠して、透の前から姿を消した。
シャワーを止め、洗面所に出ると、置かれていたタオルで体を拭く。今まで触れたことのないほどふかふかのタオルに、透は深く顔を埋めると、目元の傷がヒリヒリと痛む。顔を離し、洗面台の鏡に映る自分をまじまじと見つめた。数日間、飲まず食わずで過ごしたせいで肋骨が浮き出ている。横腹には、紫色のアザが広がっていた。頬はこけ、贅肉が削ぎ落とされた顔の中で、目だけが異様に大きく光ってる。しかし、その顔立ちはひどく端正だ。陽が用意してくれた新品の髭剃りで青髭を剃り落とすと、鏡の中の自分は陽にますます似ていた。
――あいつは、俺の子なのか。
社会の底辺を彷徨ってきた俺の息子が、この豪華な邸宅に住んでいる?
ドラマのような非現実的な物語が、真実味を帯びて迫ってくるほどまでに、鏡に映る自分の顔は、陽と似ていた。
陽が用意してくれたTシャツとスウェットを着ると、サイズもぴったりだった。髪を拭きながら、バスルームの扉を開けた、その時、
「あっ」
麗華がドアの前を通り過ぎ、透が開けたバスルームのドアが彼女の腕に触れ、手にしていた水のグラスが床に落ちる。一瞬にしてグラスが砕け散り、透と麗華は互いに硬直したまま動けなかった。
「あ、あの時の……」
透が言いかけた時、物音を聞きつけた陽が自室のドアを開けて顔を出した。
「何やってんの? 大丈夫?」
麗華は咄嗟に屈み込み、破片を集め始める。
「ええ、大丈夫よ。ちょっとベランダからチリトリを持ってきてちょうだい」
そう言うと、彼女は二度と透の顔を見ようとはしなかった。髪を束ねた首筋から、あのアザがはっきりと見えた。
陽がベランダへ向かう背中を見届け、透は黙って陽の部屋へ戻った。
***
部屋に戻ると、龍はベッドで大の字になり、いびきをかいていた。予期せぬ展開の連続に、よほど疲れていたのだろう。いびき混じりの吐く息に酒の臭いが漂っている。透は立ったままタオルで髪を拭きながら、先ほどぶつかった麗華の顔を思い出していた。
――あの女も、俺を思い出したんだ。
しかし、麗華は全身で、透との再会を拒絶していた。昔話を持ち出せる隙はない。それに、陽だって自分の父親を山内太郎の息子だと信じて疑っていない。だが、今の透は確信していた。陽は、俺の息子だ。
そこへ、陽が戻ってきた。
「立ったまま、どうしたんです?」
ガラスを片付けた際に切ったのか、指先に絆創膏を巻いている。透がそれっ、と指差すと、
「あ〜、どじっちゃいました」
と、陽はなんでもなさそうに笑った。
「悪いな。ギターを弾くのに」
「いえ、透さんのせいじゃないっすよ。あの人、ちょっと鈍臭いから」
陽は肩をすくめ、透を気遣った。
「あ〜、龍さんも疲れてたんだな」
陽がベッドで寝落ちした龍に薄いブランケットをかけてやると、自分はゲーミングチェアに腰掛ける。それを見て、透は龍の足元のベッドに腰かけたその直後、寝ている龍がぷうーっとおならをした。
陽と透はお互いに顔を見合わせ、二人で笑い合った。しかし、次の瞬間、不意に何を話せばいいか分からなくなって、息苦しくなり、透は視線を逸らした。
「透さん、明日の予定は?」
「いや、特には、っていうか、いつもだけど」
と言って、頭を掻いた。
「明日、俺、バンドのリハがあるんです。よかったら来ませんか?」
陽は嬉しそうに続ける。
「透さん、昔音楽やってたって龍さんから聞いたんです。CDも出したって。俺も、なぜかそんな気がしていたんですよね」
「……ああ、そうだよ。大昔の話だけどな。俺もギターだったからさ。……俺たち、似てんな」
透はチラリと陽の反応を窺ってみた。
「ですよね! 似てますよね。意外にどっかで親戚だったりして」
屈託なく笑う陽を見て、胸がチクリと痛んだ。
「でもよ、なんでお前、俺にそんなに懐くっていうか、なんで? 俺、お前に五百万もせびったんだぞ? やべえ奴だって思わねえのか?」
「あ〜、まあ、確かに。そう言われたらそうなんですけどね」
陽はふふっと笑い、少し息を置いてから言った。
「ひかれちゃうかもしれないんですけど……俺、透さんといると、すごく楽しいんです。なんでか分からないけど、あの公園で会った時から、今までに会ったことのないタイプの人で……上手く言えないんですけど」
照れくさそうに頭をかき、デスクに立てかけてあったギターを手に取ると、いくつかのコードを爪弾いた。
「……なんか、悪いな」
透がそう謝ると、陽はギターを弾きながら笑った。
「透さん、いつも謝ってばかり」そのまま、透を見ずに続ける。
「俺、生まれた時から父親がいなくて、母親はあんな感じだし。透さんといると、もし兄弟がいたらこんな感じなのかな、なんて思うんですよ。この三人でいると、落ち着くというか。会ってまだ数回なのに、変ですよね。龍さんなんて、さっき会ったばかりなのに」
最後は、ギターの音色に溶けるような小さな声になっていったが、透はその一語一句を逃さずに受け止めていた。
「疲れましたね。寝ましょうか。俺はリビングのソファで寝るんで、透さんは龍さんの隣でゆっくり休んでください」
陽はそう言って、照れたようにおもむろに立ち上がった。
「悪いな」
ベッドは、大の男が二人で寝られるほど十分に大きい。
「はは、まただ。電気、消しますね」
陽が出ていき、静まった暗闇の中で横になると、龍がぶっきらぼうに声を上げた。
「おい」
「起きてたんですか?」
透がびっくりしてそちらを向くと、龍は背中を向けたまま吐き捨てるように言った。
「気持ちわりいからこっち向くな。お前と同じベッドで寝るなんてよ」
そして、少しだけ声のトーンを落として続けた。
「……あいつ、すげえいい奴だな。俺らみたいな奴によ。金持ちなんてみんな嫌な奴ばかりだと思ってたけど、あんなのもいるんだな」
と言って、またいびきをかき始めた。
――いい奴ですよ。だって、俺の息子ですから。
透も龍に背を向け、心の中でそう呟いた。
ーーつづく
