『地獄まで愛してⅡ』第10話|境界線が混じり合う夜
「麗華さん、違いますよ。
『今日の私を、昨日より好きになる』です!
“もっと好きになる”じゃありません。
ここ、ブランドの“核”なんですから……本当に間違えないでくださいね!」
莉央は苛立ちを隠そうともしなかった。
――どうして、こんな簡単な言葉すら覚えられないのかしら。
ああ、ほんとイラつく。
「ごめんなさい。明日までには覚えるから、大丈夫よ」
――そんなキツく言わなくてもいいじゃない、どっちも同じよ。誰も気にしないのに。
気まずい沈黙が落ち、
「……お紅茶でも淹れましょうか?」
と、麗華は逃げるようにキッチンへ入っていった。
――ほんと、さっきからお茶ばっかり。なんなの、この人。ほんと、やんなるわ。あとでまた、あのメッセージ送ってやろう。
莉央の苛立ちが頂点に達したその時、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
と、相変わらずトーンの低い声で陽がリビングに入ってきた。
――あ! 陽くん。帰ってきたのね!粘っててよかった!
莉央は満面の笑みで振り返る。
「おかえりなさい。ちょうど今、お紅茶を──」
麗華もキッチンから顔を出したが、陽の後ろに続いて入ってきた“二人”を見た瞬間、言葉を失った。
陽は靴を脱いだ龍と透を、「どうぞ」と軽く促し、そのままリビングへ招き入れると、場の空気が、一気に凍りついた。
「は〜、だから言ったろ? 兄ちゃんは良くてもよ……急にお邪魔してすみません。陽くんの知り合いで、怪しいもんじゃないっす」
龍はサングラスと楊枝を外し、意外にも丁寧に会釈した。右頬の傷跡が照明に浮かび、かえって怪しさを増している。
麗華は、龍のスキンヘッドから穴の空いた靴下までを一瞥し、何か言おうと口を開くが、声が出ない。透にも目を向けるが、麗華の記憶は結びついていないようで、冷たい一瞥を投げただけだった。
――やっぱり、あの時の女だ。
透は確信した。
――こんな金持ちの奥様だったのか。なんであの時、俺と……。
20年の歳月と苦労で変わり果てた自分を、麗華が思い出すことはないらしい。
「…どうも」
と、冷たい視線を浴びながら、透も頭を下げた。
「龍さんと透さん。ライブに来てくれてるんだ。莉央さん、邪魔してごめん。どうぞ続けて」
陽は、呆れ顔の莉央を横目に、台所から適当に飲み物を取り出すと、何事もなかったように二人を連れて自室へ向かった。
***
「いやあ、思った以上の邸宅だな。こんなマンション、入ったことねえからよ。兄ちゃん、このベッドすげえな」
龍はベッドのマットレスを手で押してから、そのまま勢いよく腰を下ろし、子どものようにはしゃいでいる。
「そうですか? 適当にくつろいでください。透さんも、ここに座ってください」
陽はデスクの前に置かれたゲーミングチェアを静かに引き、透の方へ向けて軽く押し出した。
「あ、ああ……すんません」
透は恐縮しながら、部屋の棚に積まれたCDやレコードを眺め回す。
陽も龍の隣に腰を下ろし、サイドテーブルに置いた飲み物から、ビール缶を二人に差し出すと、自分はペットボトルの水を一気に飲み干した。
「お前の母ちゃん、美人だな。俺たちを見てびっくりしてたけどな。そりゃあ、そうだよなあ」
龍はまた新しい楊枝をポケットから取り出して口にくわえる。
「あの細いモデルみたいな姉ちゃんは? お前の姉貴?」
「いや、古い知り合いです。気にしないでください」
陽は短く答えた。
――龍さんと透さんを見たあの二人の顔ったら……。
陽は思い出し笑いをこらえた。
透は椅子を左右に揺らしながら、静かに部屋中を見渡している。
「お前の母ちゃん、親父さんが例の心中で死んでから、ずっとシングルなのか?」
「まあ……自分が知ってる限りは」
歯切れ悪く応える。
父の心中事件のあと、まもなく祖母が亡くなって、
祖父の太郎と母が深い関係になっている──
その事実に陽が気づいたのは、中学に上がった頃のことだ。
当の二人は、陽が知っているとは露ほども思っていなさそうだったが。
「ふ〜ん、もったいねえな。あんな美人なのによ。
あ、俺もシングル! 一応、言っとくわ。あはははは」
龍は酔いが回ってきたのか、赤ら顔で笑う。
陽はクローゼットから適当にスウェットとTシャツ、新しい下着を取り出しして、透に差し出した。
「透さん、シャワー浴びますよね。こっちです」
「あ、ああ……悪いな。お袋さん、嫌がるだろうけど」
「気にしないでください。シャワー室は母と別なんで」
陽がさらりと言うと、龍がご機嫌に叫んだ。
「ひえ〜、兄ちゃんは俺たちと違うのよ! おったまげ〜!」
***
「麗華さん、あの人たち、なんなんです? あー、なんか臭い!」
莉央は鼻に皺を寄せて窓を開けた。モワッとした湿った真夏の夜風が、冷えたリビングへ流れ込む。
「私だって知らないわ……」
麗華はソファーに崩れ落ちた。
――ほんと、私の嫌がることばかりする子だわ。
「龍って言ってた人、顔に傷ありましたよね?反社とかじゃないんですか? ちょっと麗華さん、それはまずいですよ。いくら知り合いでも、あの手の人とは縁を切らないと」
麗華は、リビングの向こう──陽の部屋の扉へ視線を流した。
「私、ちょっと様子でも見てきましょうか?」
と言いながらも、莉央はどこか楽しげで、扉の向こうを覗っている。
――あの透っていう人……どこかで会ったことがある気がする。
湿った夏の空気が頬をなぞった瞬間、麗華の記憶の扉が静かに開いた。二十年前の光景が、鮮やかに蘇り、同時に、最近届くあのメッセージが閃光のように脳裏をよぎった。
「お前の秘密を知っている」
――あの男が今頃なぜ?なんで陽の知り合いなの?
一気にめまいが込み上げ、世界が反転する。麗華はソファの端を掴み、崩れ落ちそうになる体をどうにか支えた。
「麗華さん、大丈夫ですか? 顔、真っ青ですよ」
莉央が慌ててそばに寄り、膝をついて麗華の顔を覗き込む。
「ええ……ちょっとめまいがしただけ。大丈夫よ。莉央さん、悪いけど、
今晩はこれで帰ってちょうだい。明日は早めにオフィスに行くわ。衣装もまとめて私が持っていく。セリフもちゃんと覚えていくから、安心して」
追い出すように言うと、莉央は不満げに顔を曇らせながらも帰っていった。
リビングに誰もいなくなると、麗華はゆっくりと窓辺に立ち、熱気を含んだ夜風を胸いっぱいに吸い込んだ。
――あの男が、メッセージを送っていたのね。今さら……何の目的?
……お金よね。お金しかない。
リビングの外では、男たちが何をしているのか、ドタバタと動き回る音がする。
麗華は唇を強く噛みしめ、その方向を暗く睨んだ。
***
――陽くん、なんであんな連中を連れてきたのかしら。でも……なんか面白そうだったな。麗華さんの顔ったら….
エレベーターの中で莉央は鼻で笑った。
マンションを出ると、深夜とは思えない熱気がまとわりつく。タクシーに乗り込み、住所を告げると、莉央は携帯を取り出すと、
「お前の秘密を知っている」
慣れた手つきでメッセージを打ち込むと、送信を確認し、そっとほくそ笑む。
「これでよしっと!」
続けて、もう一台の携帯を取り出し、今度は陽にメッセージを送る。
「陽くん〜、今日は全然話せなかったけど、また今度ね!ところでさっきのお友達? ちょっとびっくりしちゃった 笑」
可愛いテディベアのスタンプも最後につけて送信すると、満足げに画面を閉じ、目を閉じる。
――陽くん、かっこよかったな。また行こう!
真夜中を回った道は空いていて、タクシーは滑るように走り去っていった。
ーーつづく
