『地獄まで愛して』 第1話|信じていた彼の言葉がすべて嘘だったならー略奪愛から復讐劇へと幕開けした日
こんにちは! ぱるるです。
前回の予告通り、今日から新連載『地獄まで愛して』をお届けします!
「あの時、彼が言った『地獄に落ちてでも君を愛するよ』という言葉も、すべて嘘でした。35歳になった夜、私は全てを失いました。その瞬間、彼を地獄へ突き落とすための復讐心だけが、冷たく私の心に芽生えたのです。」
――後藤沙耶
それでは…..幕開けです…….。
第1話:エロスの残骸
良きものを永遠に我がものにしたいという欲望、それがエロスである」
――プラトン『饗宴』より
都内の大手総合商社、金曜日。夕闇が迫るオフィスは、週の終わりに向けた活気と、週末を待ちわびる高揚感が混じり合い、どこか熱を帯びていた。
後藤沙耶、三十五歳。一点の隙もない表情でキーボードを叩き、次々とタスクをこなしていく。派手さはないが、凛として整った容姿は、オフィスでも密かに目を引いていた。周囲から「バリキャリの堅物」と称される彼女の日頃のクールなキャラに似合わず、今日の指先は自分でも驚くほど落ち着きがなかった。
「先輩、お誕生日おめでとうございます! 間に合ってよかった!」
外回りから戻ってきたばかりの後輩女子が、有名コスメブランドの小さな紙袋を沙耶のデスクにそっと置いた。
「やだ、覚えててくれたの?」 思わず笑みがこぼれる。一瞬、沙耶の顔に少女のような、あどけなさが浮かんだ。
「もちろんです。先輩がとうとう魔の三十五……『アラフォー』の大台に乗る記念すべき日を、忘れるわけないじゃないですか!」
いたずらっぽく笑う後輩を、沙耶は肘で軽く小突いた。
「やめてよ、声が大きい」 文句を言いながらも、嬉そうに箱の中身を覗くと、以前から欲しがっていた新作の香水が入っていた。
「嬉しい! これ、ずっと気になってたの」
「よかったです。あの時、先輩がすごく欲しそうな顔をしてましたから。……お礼、期待してますよ?」
後輩女子はそう言って、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「で、今夜の予定は? 例の弁護士さんとですよね。いい加減、写真くらい見せてくださいよ」
「また今度ね。全然カッコよくないから、期待しないで」
沙耶は余裕の笑みを崩さず、さらりとかわす。
「ったく、相変わらずガードが固いんだから。……で、場所はどこなんですか?」
「ホテルD。……部屋を取ってくれたみたい」
嬉しさを隠しきれていない自覚はあった。案の定、後輩女子は目を丸くする。「ええっ! ホテルD!? ちょうど昨日テレビでやってましたよ。夜景が最高で、予約の取れないイタリアンがあるって。さすがイケメン弁護士さん、抜かりないな〜!」
沙耶が五年間、大切に愛を育んできた相手。 弁護士で、将来を嘱望される議員家系という輝かしいバックグラウンドを持つ山内俊介は、誰もが羨む「最高の物件」だった。
――彼が既婚者であるという一点を除けば。
『もう少し待ってくれ。必ず妻とは別れる』その言葉を信じて、じっと耐えてきた5年間。だが、もうこれ以上は待てない。
沙耶はそっと右手を腹部にそえた。
「……詳しくは聞いてないけど、部屋で食事にするって言ってたわ」
髪を耳にかけながら、あえて無関心そうなトーンで言ってみる。浮き足立っているのを悟られるのは、大人の女として、そして何より「略奪」を狙う身として、あまりに無様だと思ったから。
「えええええ、それって……まさかのプロポーズ!?」
一瞬でも気を抜くと、唇が上に上がってしまいそうで、一生懸命に声を押し殺す。
「そんなわけないじゃない。さてと、じゃあ大台女は帰るわね。プレゼント、ありがとう」
パソコンを閉じ、バッグを手に取る。
(もう、これ以上は待てない)
沙耶の足取りは、これから待ち受ける「地獄」の入り口など知る由もなく、高鳴る鼓動を急かすように急ぎ足になっていた。
ホテルDの重厚なドアの前に立つと、沙耶は一度深く息を吸い込み、額にかかった前髪を指先で整えた。小刻みに震える右手でもう一度、下腹部をそっと押さえる。期待と緊張が入り混じり、心臓の鼓動が耳元まで響くようだった。
ドアをノックすると、数秒後に山内俊介が姿を現した。仕立ての良いシャツを上品に着こなし、数個外した首元から無防備な色気を漂わせている。その姿に一瞬、心地いい眩暈を覚え、沙耶の顔には満面の笑みが溢れた。付き合って五年も経つが、彼の洗練された容姿を見飽きることなど、ただの一度もなかった。
「ごめん、待った?」
「いや、俺も今来たところだ」
微笑む俊介の吐息には、わずかにワインの香りが混じっていた。そのこわばった笑顔に、沙耶は一瞬の違和感を覚えたが、ドアの隙間から見える部屋の豪華さに目を奪われ、彼の腕の下をくぐるようにして、夜景が一望できる窓際へ駆け寄った。
壁一面の大きな窓の向こうには、宝石を散りばめたような東京湾の夜景が広がっている。テーブルにはイタリア料理が並び、ワインボトルはすでに半分ほど空いていた。
「わあ……すっごい綺麗。こんな素敵な部屋、とってくれてありがとう。高かったでしょう?」
「いや……沙耶には、いつも我慢させちゃってるから」
その言葉に愛しさを感じて、沙耶は振り返った。
「そんなことないわ。今夜は、ゆっくりできるんでしょう?」
俊介の喉が、一瞬だけ、躊躇するように動いた。
「……それが、今晩は泊まれなくなったんだ。ごめん。君の誕生日なのに。この埋め合わせは必ずするから」
と、言い訳でもするかのように、彼は一気に吐き出した。
沙耶の笑顔が、一瞬で凍りつく。
「……え? なんで? ずっと前から約束してたじゃない。だからこんないいお部屋、とってくれたんでしょう?」
視線を泳がせ、沙耶と目を合わせようとしない俊介の横顔は、残酷なほどに整っていた。白くて細い指の手でポケットから小さな箱を取り出し、テーブルに置く。
「これ、誕生日おめでとう。君がずっと欲しがってたやつだ」
固い表情で箱を受け取り、蓋を開ける。一瞬でも「指輪」を期待した自分を、沙耶は心の中で嘲笑った。入っていたのは、確かに前から欲しかったネックレスだった。
「……都合が悪いって急に何で? 奥さん?」
突き刺すような沙耶の言葉に、俊介の肩が微かに跳ねた。彼は答える代わりに、逃げるように視線を泳がせたその時、その時、テーブルの上に伏せられた彼のスマートフォンが、ズズ、ズズ、と重い振動音を立てた。それでも俊介は取る様子もなく、残ったワインを喉に流し込んだ。
「なんで出ないの? 奥さんでしょう?」
「ああ……最近あいつ、様子が変なんだ。俺を疑ってるみたいで……昨晩も後援会の接待中に何度も電話してきて、恥をかかされたよ」
俊介はそう言って力なく笑ってみせたが、その目は決して沙耶と合わなかった。彼は逃げるようにグラスにワインを注ぐ。
「ちょうどいいじゃない」
沙耶の声は、自分でも驚くほど鋭く、高く昂っていた。平静を装ってグラスを揺すっている俊介の頬の肉がピクリと引きつる。
「奥さんに、私たちのこと話すちょうどいい機会じゃない。もう五年だよ? 私、今日で三十五だよ?」
「言うって……今は無理だよ。選挙が終わるまで待ってくれって、言ったじゃないか」
また、ズズ、ズズとスマートフォンが震えだした。沙耶は衝動的にそれを奪い取ると、俊介の鼻先に突き出した。
「言ってよ。今、ホテルに女といる。彼女と一緒になりたいから、別れてくれって、今すぐ言ってよ!」
最後は、悲鳴に近い叫びになっていた。 「何バカなことを言ってるんだ! おい、返せ、返せって!」 俊介が強引にスマートフォンを奪い返そうとした瞬間、沙耶の指先が、通話開始のボタンに触れてしまった。
『もしもし、もしもし……あなた? 聞こえてるの?』
漏れ聞こえる妻・麗華の鋭い声。俊介は血の気の引いた顔で携帯をひったくると、逃げ場を求めるようにバスルームへ駆け込んだ。沙耶もすぐさまドアにすがりつき、耳を押し当てる。薄い扉の向こうから、必死に声を潜めて言い訳をする俊介の声が聞こえてきた。
「……女なんていないって言ってるだろう! 腹の出たジジイばかりだって言ったじゃないか!写真なんか撮れるわけないだろ、いい加減にしてくれ!……えっ、吐いたって?つわりだろう。そんなことで救急車なんて呼ぶなよ、恥ずかしい!おとなしく寝てろよ。……ああ、分かった、できるだけ早く帰るから」
息を殺して聞き入る沙耶のなかで、思い描いていた未来がガラガラと音を立てて崩れていく。その場にへたり込みそうになるのを必死に堪え、彼女は幽霊のように立ち尽くしていた。
バスルームから出てきた俊介の顔には、隠しきれない疲労と苛立ちが滲んでいた。 沙耶は、冷徹なナイフのような視線で俊介を射抜いた。
「奥さん、妊娠したの?」
俊介は言葉に詰まり、力なくヨロヨロとベッドに腰掛けると、両腕で頭を抱え込む。
「……すまない。こんなことになるつもりじゃなかったんだ」
「奥さんとはもう、そんな関係じゃないって……ずっと言ってたじゃない」
「たまたまなんだ! 断ったら、逆に怪しまれるだろう? 遊びじゃなかった、本当に君との将来を考えてたんだ。でも……」
俊介は絞り出すような声で続けた。
「こうなった以上、あいつと別れるのはもう無理だ……」
次の瞬間、俊介はベッドから滑り落ちるようにして、沙耶の足元に土下座した。
「ごめん……本当にすまない、沙耶。もう、これ以上君を待たせることはできない。君には、幸せになって欲しい。必要な援助なら何でもする。海外に行きたいって言っていただろう? その支援くらい喜んでさせてくれ!」
「……手切れ金を渡すから、綺麗さっぱり、視界から消えろって、そう言ってるの?」
「そんなつもりじゃ……ただ、これが俺にできる精一杯の……」
足元で震える男を見下ろす沙耶の目に、少し薄くなった彼の頭頂部が映った。
信じてきた五年間。思い描いてきた彼との将来、議員の妻 ――奥さんが妊娠したから、別れてくれ? 全て忘れてくれって?
怒りは沸点を超え、絶対的な零度へと変わった。沙耶の瞳から光が消える。あまりに強く噛み締めた唇が弾け、一滴の血がこぼれ落ちた。
ぽたっ。
赤い滴は、土下座する俊介の、完璧に整えられた髪の上に静かに落ちた。沙耶も俊介もそれに気づかないまま、震える声で許しを乞い続ける俊介の言葉が、部屋中に響いていた。
ーーつづく
「次のお話→」
