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人の本質は「光」か「貨幣制度」か 〜”カネ”の意味を改めて考えてみる〜

このタイトルを見てピンと来られた方もおられるのではないでしょうか。

これは、漫画・キングダムの423話〜427話で秦王・嬴政と相国・呂不韋にて繰り広げられた舌戦の主題です。

これを初めて読んだ時は、自分が超甘ちゃん時代(28歳)だったので、「人の本質を光、とか言っちゃう嬴政カッケー!」くらいにしか思っていませんでした。

ですがその後、「経営」・「組織」・「人」に真剣に向き合う中で、極めて本質的な問いであると認識し、事あるごとにこの問いについて考えてきました。

そして今回、東畑先生の本を読み、自分なりの言語化が一旦完成したので、このnoteを綴るものです。

「数字が大きい方が良い」という、さも当たり前の“常識“について「本当にそうか?」という視点で考えてみたいと思います。

(キングダム・39巻より)

「貨幣」はなんのために生まれてきたのか

「欲求の二重一致」問題

まず、そもそもの「貨幣ってなんのために生まれてきたのか」について遡ってみましょう。

これは経済学的に回答することができて、『物々交換が抱える構造的な欠陥=「欲求の二重一致」という問題を解決するため』と言えます。

物々交換は、当事者同士の「欲しい物」と「その価値の大きさ」と「タイミング」という『欲求』が、『二重で一致』しないと成り立たない。

例えば、私がパン屋だとして「今、牛肉100gを、食パン1斤で欲しい」と思っても、肉屋が「明日、レーズンパン3斤を、豚肉50gで欲しい」と思っていたら一生取引が成立しません。

社会が小さく、取引の数が限られているうちは、この「欲求の二重一致問題」に伴う不便さは何とか我慢され、許容されていました。ですが人が増えるにつれて、物々交換は急速に限界を迎えます。

そこで登場したのが、「誰もが受け取ってくれる何か」としての「貨幣」でした。

つまり、貨幣は「欲しいものそのもの」ではなく、「欲しいものに“たどり着くための道具”」として生まれたのです。

最古の「貨幣」はモノですらなかった

実は、歴史上最古の貨幣制度は、硬貨ですらありません。最も古い貨幣制度の原型は、紀元前3000年頃のメソポタミア文明にまで遡ります。

そこでは「銀」が使われていましたが、「銀そのもの」ではなく「銀の重量を基準にした“帳簿上の単位”」でした。

神殿や王宮が中心となり、「この農民は、今年これだけの大麦を納めた」「この職人には、銀◯シェケル分の労働対価が発生している」といった形で、価値が記録されていました。

当時の「貨幣制度」は、本当に「交換の摩擦を減らすためだけ」に特化した仕組みだったことがよくわかります。

金属貨幣になっておかしくなった

「持ち運び」、そして「蓄積」出来るようになってしまった

「帳簿に記録されるという貨幣」が生まれたことで「交換取引自体の効率性」は上がったものの、その場まで行く必要があり、「取引制度全体の効率性」は極めて低い状態です。

そんな「取引制度全体」の効率性向上を求めて生み出されたのが金属貨幣であり、そのルーツは紀元前7世紀のリディア王国に遡ります。

ここで生み出されたのが金73%、銀27%の合金「エレクトラム」でコインを造り、ライオンの頭部を刻印した硬貨でした。

「金や銀を一定の重さ・形に揃え、国家がその価値を保証する」という我々が思い浮かべるような「(金属)貨幣」が生まれたことで貨幣は初めて「持ち運べる価値」になりました。

ただ持ち運べるようになっただけなら、経済圏が広がるだけで良いのですが、同時に「蓄積」という機能も具備してしまいます。

蓄積できるようになったことで、「その人の持つ資産」という概念が生まれ、そしてそれが「比較可能」になってしまう。

誰がどれだけ持っているか。誰がより多くを支配しているか。

それを可視化し、それを競う世界がここで生まれてしまいます。そして、これがまさに呂不韋の言っていることに繋がります。

貨幣制度は何を生み出したのか

①「比較可能であり、かつ、大きい方を羨む」社会

ここまで、「貨幣」というものを極めて簡単に歴史的な観点から振り返ってみました。ここからは、「貨幣制度は何を生み出したのか」について、改めて考えてみましょう。

呂不韋はこう言います。

「貨幣制度により、他人との裕福度を比較する物差しを手にしてしまった」
「生まれたのは“他よりも多くを得たい“という強烈な我欲」
「金が人の欲を増幅させ、天を目指した」

人間の最も強烈な感情は「嫉妬」であるとも言われており、まさに「嫉妬」という感情を生み、増幅させたのが貨幣であることは、疑いの余地がないと思っています。

②「主観なき」社会

私はそれに加えてもう一つ、貨幣が生み出した負の側面があると思っています。それが「主観なき社会」です。

皆さん、自分が欲しい物を買いに行って「え、安!!」と思ったことはありますよね。例えば、仮に1万円だったとしても買うのに、1千円で売ってた時。

その時、1万円を差し出して「釣りはいらねえぜ」と言って帰る人は極めて稀でしょう。その瞬間、「自分が思う価値」を完全に放棄して、「誰かが決めた価値」に乗っかっている訳です。

仮にこれが1円で売っていたとしても、1円で買って帰ってくるでしょう。

自分はとても価値があると思っているものなのに、社会的には「1円」であれば「1円」になってしまう。他の1万円のものとは交換できない(1万個集めないと)。

これを強制的に受け入れさせられることで、「価値」に対する「主観」を強制的に放棄させられることが、多くの社会的問題を引き起こしていると考えます。

では、強制的な受容を求められる「客観的な価値」というものは、そんなにも信頼できるものなのでしょうか。

「価値」「価額」「価格」、全て超不完全で超いい加減なもの

「気持ち」「雰囲気」「流れ」で簡単に変わるものに過ぎない

私の2025年No.2書籍である「物価を考える デフレの謎、インフレの謎」に明確に書かれていますが、足元のインフレを起こしたのは「人の気持ちの変化」です。

何かモノの価値が劇的に変わったわけでも、ヒト側の生活様式が劇的に変わったわけでもありません。ただ、「インフレになるかも」と皆が思ったことで起きています。全然実態と関係ない。

また、バブルもまさにそうですよね。世界最初のバブルであるオランダの「チューリップ・バブル」では、球根一つに馬車一つ以上の値段が付きました。

それが「需給という見えざる手」で決まっているのは確かですが、じゃあそれに何か「意味」がありますかと言われたら、そんなことは無いわけです。

これだけでも、「価値」というものが極めて「意味の薄いもの」であることが分かると思います。

「定量化できる」ごく限られた要素によって値付けされている

人間がとんでもない労力を払って「現実の定量化」を試みてきたものの一つが、財務諸表です。

企業の実態を出来るだけ表現し、健全な経営、円滑な取引、そして正しい株価算定などを目的に、世界中の叡智を使って会計原則を作ってきました。

株式価値を測る指標の一つに「PBR(Price Book-value Ratio)」=「株価純資産倍率」というものがあります。

会計原則は頑張って頑張って、企業のBSを実際の価値に表そうと努力してきました。つまり、極端に言えばPBR1倍を目指してきたはずです

では実際はどうか。例えばエヌビディアのPBRは30倍。前職・セルソースは一時期250倍というとんでもない数字を付けていました(PERじゃないですよ、PBRです)。

それはなぜか。以下のnoteに書いた通り、「非財務資本」の存在によるものです。一言で言えば「(現在の技術では)算定できない価値」」

PBRが30倍というのは、技術的に算定出来ている価値はたったの3.3%ということです。

この時価総額がバブルなのであれば前者の「気持ち」の問題であり、これが正しいのであれば、「定量化できることなんてたった3%」ということ。

どちらにしても、意味がない。

私は、この簿価純資産と時間純資産の乖離が、そのまま「価値・価額・価格の意味のなさ」を表現していると思っています。

「生きるためのゲーム」と、「その先のゲーム」を分ける

【賃金】「給料」はあなたの価値を表すものじゃない

HRとして働いていると「給料」「報酬」を常に意識して動く必要がありますし、それに関する相談や意見をもらうことも沢山あります。

ですが、これはちょっと実務に触れれば分かることですが、「給料なんて本当にいい加減」なものです。

どこかの部署の業績が良くなって会社全体の労働分配が増えることもあれば(会社事由)、メガトレンドの変化によって特定の職種の給料が上がったり下がったりします(社会事由)。

評価制度だって、どこまで行っても「ヒトがヒトを評価する」という傲慢極まりないことを無理やりやっているもので、そこには「神の見えざる手」すらありません。

なので、間違っても「給料が自分の価値である」なんて思わないで欲しい。

社会に生きる以上、「あなたの価値はあなたが決めるもの」とは断言できませんが、「賃金」「給料」なんていう、いい加減で不完全なものなんかでは絶対ないのです。

【賃金】とはいえ、生活はしないといけない

一方、生きていく必要があるのは事実です。

私が大尊敬する東畑先生の最新作「カウンセリングとは何か」でも、「生存と実存」という言葉を用いて以下のように表現されています。

・生存:「いかに生き延びるか」。困難な状況の中で、生き延びること
・実存:「どう生きるか」。その人独自の生き方のこと。
・そして、「実存は生存を前提とする」

「衣食足りて礼節を知る」とはよく言ったもので、衣食足りて初めて、人は「どう生きるか」(実存)を考えることができます。

マズローの五段階欲求説でも、「生理的欲求(食事・睡眠など)」「安全の欲求(健康・安定)」が基盤になっています。

なので、「生存を実現する」=「衣食足らせる」まではこの「資本主義ゲーム」に則る必要があります。

【賃金】「どう生きるか」への切り替えが大事

でも、大切なのは「衣食足りたら」、早めに「どう生きるか」に切り替えること。

あのマイケルジャクソンですら破産の危機に瀕したのは、「生存の基準」を引き上げ過ぎたからと言えますし、これは我々にも言えます。

いつしか、「もっと、もっと」となってしまう。いつの間にやら、それが目的化してしまい、いつまで経っても「実存」のことを考えられない。

そしてある時、「あれ、一体何のために生きている(きた)のだろう」と考え、足が止まってしまう

私の周りでも、これが理由で選択肢を大きく失ってきた人が沢山います。

「生存への憂い」がなくなったタイミングで一度立ち止まり、ギアを入れ替えることを意識すると良いのだと思います。

【企業価値やら売上やら】ヒトと法人は全く同じ

上記に書いたことは、企業活動にも全く同じことが言えます。

資本主義社会における企業の「生存」とは、「Free Cash Flow(FCF)がポジティブな状態」であると考えます。

通算で見るか短期で見るか、という問題はありますが、その企業の「一生」を振り返ったときにFCFがネガティブであれば、それは間違いなく誰かに迷惑を掛けています

一方、FCFがポジティブである限りにおいては、あとは各投資家の期待利回りという「価値観」との勝負であり、「存在意義がない」ということはありません

そうなったら、いつまでも「Cashを産む」こと(生存)を考えるのではなく、どこかのタイミングから「どう生きるか」(実存)にシフトすることで、より「良い」企業になると信じています。

もちろん、情勢の変化によって「生存モード」に切り替える必要があるでしょう。その切り替え時期も間違えると、たちまち潰れてしまうのが資本主義社会の怖さです。

ですが、いつまで経っても「生存のため」に活動していると、人は破産に陥りますが、企業は「不正」に走ります。「売上を立てるための不正」が良くありますが、引いて考えると本当に意味がわかりません。

「自分の企業は、何のために実在しているのか」

最近の言葉で言えば「パーパス」に本当の意味で魂を宿し、現実に落とし込んでいる会社こそが、生存も実存もし続けるのではないでしょうか。

結論:人の本質は「光」だが、「貨幣」を前提とする

2022年に住友商事を辞める際、多くの人から「なんで?!」「もったいな!!」と言われました。

確かに、名目的な生涯収入を考えたら、残った方が良かった可能性は十分にあります(賃金に加え、福利厚生や持株会とかも入れると本当に凄い)。

実際、とりあえずこの4年間だけ見れば超・大負けです笑

でも、当時も今もそんなことはどうでも良かった。僕は「仕事・職場の価値」を賃金で測るつもりも意識も全くないからです。

私は、「自分と会社、そしてその先にある社会が同時に豊かになる職場かどうか」が尺度であり、それに従って転職も意思決定しました。

そしてそんなことが言えるのも、「衣食が足りているから」。それを前提にしていることを理解しないと、他者への失礼になることも重々理解しないといけないと思っています。

上記を踏まえ、見出しに対する回答は「人の本質は光だが、貨幣を前提とする」という、東畑先生の言葉を置き換えただけになってしまいましたが、まさにこうであると、極めてしっくりきています。

皆さんのお考えはいかがでしょうか。

今回はかなり長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

また次回のnoteでお会いしましょう。

細田 薫


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