ささやかな楽しみ つみあがるしあわせ -沙耶香-
とぷん。
淡いブルーグリーンの水面が揺れる。
たちのぼるミントの香り。
しゅわしゅわと、入浴剤の炭酸成分が小さな泡になって、肌にまといつく。
ゆったりと手足をのばすと、ぬるめの湯がかすかにひんやり感じられて、沙耶香はほっと息をついた。
満足度の高い達成感と心地よい疲労感に、心と身体が満たされる。
あー、極楽〜。
今日はよく頑張った。
ぱしゃん。
両手で湯をすくい、顔に打ちつける。
見まわしたバスルームは、どこもピカピカだ。
うん。いい気持ち。
8月の第一日曜日。
この日に必ず、バスルームの大掃除をすると決めていた。
大掃除といえば冬が定番かもしれないが、寒いなかで浴室の掃除を丁寧にやるのは、なかなかに辛い。
だから水まわりの大掃除は真夏にやる。
それが彼女の昔からの習慣だった。
高圧洗浄機を浴室に持ち込み、外したエプロンの奥まで汚れを吹き飛ばす。
浴槽に張った湯に酸素系の洗剤を溶かし、風呂桶や椅子、外せる小物用の棚板をいれる。
つけおきの間に壁や鏡を洗い、床と排水口に酸素系の洗剤をまいて、一旦休憩。
シャワーヘッドを浴槽に漬けるのも、もちろん忘れない。
「アレクサ、タイマー20分」
バリスタでアイスコーヒーを淹れてソファに座り、タイマーをセットした。
クーラーの効いたリビングは天国だ。
同居人は自分の部屋で仕事中。
プロの漫画家だから、会社員の沙耶香とは生活サイクルが少し違う。
彼女は掃除が苦手。でも料理は得意。
沙耶香はその逆。なので家事は得意な方がやる分担制だ。
漫画家というと不規則な生活を想像するけれど、彼女は会社勤めと兼業だった期間が長い。
専業漫画家になっても朝起きて昼間に仕事、夜には寝るという、規則正しい暮らしを続けていた。
朝食はトーストとコーヒーに、ヨーグルトをかけた果物を少し。
これは先に起きた方が用意する。
買い物と夕飯の支度は彼女任せだ。
正直、仕事から帰宅した時に夕飯ができているのは、とてもありがたかった。
ポポポピピン、ポポポピピン♪
「アレクサ、止めて」
20分経過を知らせるアラームを、声で止める。
空になったグラスを軽く洗い、バスルーム掃除に戻る。
硬めのブラシで床を擦り、バスタブから取り出したシャワーで洗剤を洗い流す。
引戸の内側は洗剤を含ませたスポンジで洗い、戸を外して外側もきれいにしたら、脱衣所に敷いた古いバスタオルの上に立てかけて水気を拭った。
ついでレールのパーツを外す。
かかった水は抜ける造りになっているが、どうしてもカビや脱衣所からのほこりなどが溜まって、汚れる場所だ。
古ハブラシで擦ってウエスで拭う。
取り戻した白さに、ふっと口元がゆるんだ。
オッケー。
きれいになった。
目につかないところだけれど、きれいになると心まで晴れる気がする。
浴槽の栓を抜いて洗剤入りの湯が流れ落ちるのを待ち、つけ置きしていたものをひとつひとつシャワーですすいでいく。
最後に浴槽の内側をバスボンくんでこすり洗いすれば、終了だ。
乾いた引き戸をレールに戻す。
からり、からり。
数回左右に動かし、戸車の滑りを確認した。
ぽたりと汗があごを伝って落ちる。
窓を全開にして作業していたから、全身汗びっしょり。濡れたTシャツが、背中に張りついていた。
シャワー浴びる?
いや、お風呂入っちゃおうかな。
こめかみを流れてくる汗を、無造作にTシャツの裾で拭う。
そうして沙耶香はピカピカになった浴槽の栓を閉めると、自動湯張りをスタートさせた。
さああああ。
貯湯タンクから注がれる水音は、バスタブに湯が溜まりはじめれば聞こえなくなる。
お気に入りのタブレット入浴剤を、ポトンと投げ込む。
湯に溶けて泡とともに立ちのぼる、爽やかなミントの香り。
夏の夕方は明るい。
早い時間からのんびり風呂に入るのは、贅沢の極みだろう。
夏は半身浴だから、湯張りは少なめ。
『まもなく自動湯張りが完了します』
あっという間に音声が知らせてくれる。
湿った服を脱ぎ、ぬるめのシャワーで汗を流す。
身体と髪を丁寧に洗って、湯船に足を入れた。
とぷん。
ぬるい湯に、肩まで沈む。
揺れる水面は、海を連想させる淡いブルーグリーン。
しゅわしゅわと肌にまといつく炭酸の泡。
弾けてたちのぼる、ミントの香り。
あー、極楽〜。
しあわせ〜。
お風呂から上がったら、ノンアルビール、あけちゃおうかな。
沙耶香はアルコールが飲めない。
それでも冷蔵庫には、ノンアルコールのビールやチューハイが常備されている。
頑張った日のご褒美だ。
ぷしゅっと響く缶を開けた瞬間の音と、噴き出す泡。
ほろ苦い炭酸をグビリと飲んだ時の爽快感。
ノンアルだって充分、ビールの美味しさは味わえる。
今日の晩ごはん、なんだろ。
ビールにあうおかずだといいなあ。
献立はもう決まっているはずだけど、知らない。
できあがるまでのお楽しみ。
ささやかな楽しみを積みあげて暮らす。
やわらかな幸福感に、沙耶香は小さく笑った。
(2000字)
#今2000字で書けって言われたらどこからの発想で書き始めますか
こちらの企画に参加させていただきました。
このハッシュタグがついた記事を読んだ時、お風呂に入っていて(笑)。
その状況からの発想で書きました。
楽しい企画をありがとうございます!
豆島さん、はじめまして。
通りすがりに失礼いたしましたー!
