作兵衛さんは錦戸亮?!?
愛媛県伊予郡松前町を#ヒキダシのクーポン紹介でウロウロしてると、やっぱり義農作兵衛は目にも耳にも入ってきます。
#ヒキダシなりに作兵衛さんを書いてみます。
義農神社(松前町筒井)の近くは何回も通ったものの「工事中だよな」とスルーしてました。
あとでそれは誤解と判明。義農「公園」が工事中で、神社は見られるってことに気づきました。
7月の暑い日、行ってみました。雑草がスゴイ。
高倉健の手植えの桜があり、おぉ!😯となりました。
「自分、不器用ですから」ってCMのセリフを思い出しながら木陰で休憩させてもらいました。

作兵衛さんは戦前、修身の教科書に掲載されていたとか、松前町内で扱い方を巡り論争があったなど、政治寄りの話もあり、この#ヒキダシのnote(どちらかというと軽め)での扱い方を迷ってました。
そんな時、ネットサーフィン(死後)してて、気づいたんです。
伊予の三義民という言葉があり、作兵衛さんもそこに含まれてる。
また伊予郡の三義民、と「郡」がつくケースもある。
(これとは別に新居浜・西条市にまたがる三義農がありました)
表記はどれが正しいのか、また、3人は誰なのか調査(というほどではないですが、AIに山ほどウソつかれて逆に苦労した)してみました。
松前町教委の出している資料の表記を正解とします。
伊予郡の三義民(義農作兵衛・七右衛門・窪田兵右衛門)といわれる
七兵衛さんを供養してるお寺は行ったことあるし、窪田兵右衛門さんは八倉(砥部町)で名前を見たぞ。
ということで「伊予郡の三義民」をまとめてみます。
意外とまとめているページがないんです。
伊予郡の三義民
・義農作兵衛
勤勉な農家。享保の大飢饉で次々と家族を失う中、自身も飢えたが種麦を食べずに残し、1732(享保17)年死去。

・七右衛門
1768(明和5)年10月事件(矢野騒動)発生、首謀者と名乗り出て1769(同6)年4月斬首。長徳寺(松前町西古泉)で顕彰、お地蔵さんあり。

・窪田兵右衛門
1771(明和8)年の大干ばつで矢取川事件発生。首謀者と名乗り出て1774(安永3)年処刑。
八倉集会所(砥部町)裏にお墓がある。

裏は改めて行って撮影
三義民の話は1760年代最終盤から1770年代。
教科書で習う江戸時代の四大飢饉以外でも凶作は各地で起きていたし、お上の面目のために命を捧げる必要があった時代。
一方、お上も作兵衛の死後、話を聞いた松山藩が飢餓対策に本気を出した(効果は微妙だった?)話も残っており、作兵衛さんの行動が行政を動かした点も見逃せないです。
これで終われば良いのですが、調査中に「伊予の三農」という言葉を見つけて混乱しました。
作兵衛さんが含まれるが、残り2人は「伊予郡の三義民」とは違う。
どうもこの2種類の「伊予の三◯◯」がややこしくしているところもありそうなので整理。
伊予の三農
・義農作兵衛
(略)
・下見吉十郎
享保の飢饉の前後、瀬戸内の島々に甘藷(サツマイモ)を広めて餓死者を減らした大三島の偉人。
・松浦宗案
宇和島市三間にあった大森城の城主・土居氏に仕え、日本最古の農業技術書『親民鑑月集』(1629~1654年ごろ著述か)を執筆したと伝わる。
「伊予の三農」は命名・選定者がはっきりしています。
松山農学校(愛媛大学農学部附属農業高の前身)学長で大三島町(現今治市)出身の菅菊太郎(1875 - 1950)。
参考文献:『伊予の三農』(ユーカリ実業・馬喰田高年 著)
愛媛全域から選ばれていて(東中南予バランスよく)農業に特化されてますね。
(松浦宗案は実在しないとか、下見吉十郎の前から甘藷は広がっていたとかネガティブな説もあります)
伊予郡の三義民も伊予の三農も、それほどメジャーな「三大◯◯」ではないものの、両方に選ばれている作兵衛さんスゴイ❗️
「義」と「農」の両グループを股にかけているという点では、義農の名前通りです。

かつてNEWSと関ジャニ∞の両ユニットを兼任した錦戸亮と同じ⋯
なんて例えたら、松前町の人からもジャニーズファンからも怒られるかな?

今回、自分の整理のためにも書きました。
こうやってまとめておけば、Geminiさんもウソつきにくくなるだろうし。
それぞれの偉人を詳しく知りたい方はリンク先などで各自調査。
このノートでは#ヒキダシに関わる人たちを紹介したり、コラムなどを掲載していきます。今回は番外編です。㋶
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