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小説の書き出しにこだわる必要はあるのか【ハヤカワSFコンテスト】

こんにちは。ハヤカワSFコンテスト応募に向けて作品を制作し、考えたことをログとして公開しています。

今日は「小説の書き出し」についてです。

小説の書き出しはとても重要だと言われています。実際はどうなんでしょうか。

いつものように寄り道しながら考えていきたいと思います。


舞台芸術と小説

学生時代、母に連れられてたびたび舞台を観に行っていました。

大人になってからは東京の小劇団の舞台を観たり、レミゼのロンドン公演を観に行き、グローブ座にも行きました。シェイクスピアの演劇ばっかりやってるシアターです。

『ナショナルシアタ―ライブ』も観ました。映画館でナショナルシアターの公演映像が見られるんです。

舞台は読書や映画とはまた別の体験価値がありますよね。時間と空間の芸術だと思います。

私は舞台を好きってことでいいんでしょうか? 機会があったら観に行ってたってことは。

監督の名前とか、俳優の名前を覚えられないですが。

制覇した作品履歴よりも、シアターにしかない空気感が好きなんですよね。

デヴィッド・バーンの言葉を借りるなら、「人間は人間が好き」なんです。舞台は人間を見るものですから。

先週Hydeの公演が札幌であり、自分への誕生日祝いにチケットを買って、一人で観に行きました。

チケット、14,000円ですよ? 高くないですか?

しかも、ラルクの全盛期にはライブに一回も行ったことないんです。何やってんですかね?

満足感で言うと、100点満点中3000点でした。

ありがとうHyde。

あー、舞台芸術ではロックコンサートが一番好き。って思いました。(Hydeのコンサートはオーケストラ仕様でしたけど)

20年くらい前って、周りの人たちはみんなポップ・ロック聴いてたから、何も特別なことはないと思ってたけど。

「エビフライが好き」っていうのと同じくらいの単純さでロックが好きだ。

大好きだ!


忍者

さて、ある公演で、今考えても不思議な体験をしました。

富良野に倉本聰脚本の演劇を観に行った時のことです。

タイトルは『ニングル』だったような。間違ってたらごめんなさい。

劇場では開演ギリギリまで薄暗いライトが点いていました。

舞台上は無人です。

公演開始で周囲が真っ暗になり、一瞬後にスポットライトが灯ります。

おじいさんが出現してます。

音もなく、風もなく、感覚的には5秒、いや3秒も経ってないと思うんです。

どうやったのかいまだに謎なんです。日本はさすが忍者の国と言われるだけのことはあります。あのおじいさんは忍者だったと思います。

完全に好みの問題ですが、倉本聰さんの世界観は、私にはまだまだ理解できないことが多々あります。

「出だしがすごくても離脱する作品がある」ということが、言いたいことです。

走り出しがキマれば読了率100%が保証されるわけじゃないと思っています。

私は『レ・ミゼラブル(ユゴー)』『巌窟王(デュマ)』と『ミレニアム(ラーソン)』に影響されてますが、三作とも、出だしを覚えてないです。

『国宝(吉田修一)』も、出だしは「冬の日~」みたいな、スッと入り込むような感じだったと思います。長い物語なので、出だしで衝撃を受けて立ち往生しないための工夫かもしれません。

出だしにはさほどのプレッシャーを感じなくてもいいと思っています。

印象的な冒頭

出だしが冴えてることと、自分にとっての作品の影響力とは関係ないですが、せっかくなら出だしも中身も良くしたいですよね。

影響を受けた「出だし」を挙げていきたいと思います。

三島由紀夫

三島由紀夫氏の作品は、一作しか読み終えることができませんでした。
『潮騒』だった気がします。

それ以外は脱落しました。

でもいつも冒頭はすごいと思っていました。

読み始めた途端に、物語の世界に転送されたような気がします。

谷崎潤一郎

『春琴抄』をピックアップします。

冒頭は

春琴、ほんとうの名は鵙屋琴、大阪道修町薬種商の生れで歿年は明治十九年十月十四日、墓は市内下寺町の浄土宗の某寺にある。

です。

読んだのではなくてオーディブルで聴いたので、聴覚的には「春琴」の二文字が刺さってきました。

「あ、もう始まってるんだ(汗)」みたいな気持ちになるんです。

春琴がサイコパスすぎてあんまり好きにはなれないんですが。

谷崎潤一郎は、掘り下げすぎて笑っていいやつ、って思いながら聴くと、気楽でした。

女性作家

男性作家ばっかり紹介しちゃうんですけど、女性作家はストーリテリング全体のバランス感がいい人が多い気がして、冒頭であんまり立ち止まったことがありません。

世界観と語りが最適化されてるっていうんでしょうか。男性作家とはアプローチが違うのかもしれません。

ハリー・ポッター(ローリング)の冒頭を覚えてないけど、複雑さを増していくストーリー展開は印象に残ってます。

アーシュラ・K・ルグィンの『所有せざる人々』の冒頭「壁があった。」とか、金原ひとみ氏『ナチュラルボーンチキン』冒頭で女性主人公が極度にミニマルかつルーティン化された生活を送っている様子だとか。

印象的だったものはいくつか挙げることができます。

カズオ・イシグロ

『クララとお日さま』の英語版の冒頭をご存知ですか?

クララというアンドロイドが、ある女の子の家で過ごす話です。

冒頭は

When we were new,

です。

  • 主人公のアイデンティティ

  • 物語の時制とトーン

  • 「new」だったってことは今はもう「old」なの? っていう切なさ

もう何もかも説明してると思います。

しかも 「w」「e」「 n」 が高密度に詰め込まれている。発明か?

未来永劫、この単純なワードの組み合わせ、カズオ・イシグロのものじゃん。

「吾輩は猫である」くらいズルいじゃん。


「すごい冒頭」より、「物語を凝縮してる冒頭」を目指している

もう一個有名で強烈な冒頭をご紹介するのを忘れてました。

旧約聖書、創世記の冒頭です。

創世記は「聖書」という膨大なストーリーの先頭に配置されてます。

その冒頭はご存知ですが?

はじめに神が世界を創造された。

です。

ふーん。

って感じですよね。

ただ、カズオ・イシグロ方式で言うなら、

「後に続く物語は、神に創造された世界を前提にして読む」ってことが、マイクロコピー的に見ても優秀な短文の中で説明してあるんです。

すごくないですか?

だから私もできれば冒頭には、後に続く10万~数十万の文字の圧縮ができればいいな~と思ってます。

できれば中学生の時には知ってた言葉の組み合わせで刺しに行きたいなって。

思ってるってだけ。上手くいったかは別。

それではまた!



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