【36歳からの人生の作り方】#23 出版企画の頓挫と、1文字も書けなくなった空白の3カ月
note創作大賞2026 オールカテゴリ部門 応募作品
36歳まで、わたしは「趣味で絵を描いていた専業主婦」に過ぎなかった。
それがイラストレーターになり、46歳で漫画家になり、51歳でインタビューライターになった。気づけば4冊の本を出し、NHKで教え、新聞やテレビ媒体でコラムを書くまでになったのだ。
そして、36歳で離婚し、39歳で9歳年下の男性と再婚した。
36歳の自分に20年後の自分の話をしても、おそらく信じないだろう。
今までわたしが心がけてきたこと、やってきたこと、やらなかったことを、少しずつ書いていきたいと思う。
この冒頭から始まる記事も、今回で23本目となる。
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10秒で読める「前回までの話」
20年前、趣味で絵を描いていた専業主婦のわたし。ライター講座をきっかけになぜかイラストレーターへ。36歳で離婚し、9歳年下男子Yと39歳で再婚。
Yの持病・アトピーが悪化し、退職してわたしの名古屋の実家へ引っ越す。Yは専門学校に通いカメラマンへ。2人の仕事は順調に進むが、母との地獄の日々のあまりの辛さに、わたしの妄想は膨らんでいった。

妄想が、現実になった
わたしたちの窮状を救ったのはオットだった。
彼がアトピーで倒れたために、人生の航路を大きく変更することになったわたしたちだが、その舵取りの微調整も彼は自分自身でやり遂げたのだ。
2015年、彼は定期的に請け負っていた不動産撮影の仕事で知り合ったI夫妻に気に入られて、物件撮影だけでなく、イベントや住人のサロンの撮影などを頼まれるようになっていた。
2016年の春、オットがこんなことを言い出した。
「Iさんが、ウチの物件に住まないかって言うんだけど」
「え?ええ???住む!住む住む住む!保証人はいらない?家賃は?」
オットいわく、I夫妻が「自分たちの近くに住んでくれたらいいのに」と言い出したらしい。自社物件なので保証人も敷金礼金も必要ないし、家賃も相場よりかなり低く抑えてくれるという。
ウソでしょ!それってわたしが妄想していたこと、そのまんまじゃないの!!こんなことってあるんだ……。信じられない気持ちだったけど、嘘でも詐欺でもなかった。
話はトントン拍子に進み、6月に引っ越すことが決まった。

2016年夏、独立
引っ越すことを母に話すと、こちらを見ようともせず、目はテレビに向けたまま「あ、そう。せいせいするわ」と言い放った。
母はそう言うことで、少しでも優位に立ち、わたしたちを傷つけたかったのだろう。でもそんなセリフは想定内のことで、まったく何も感じなかった。
引っ越し作業は過酷だった。
廊下やリビングに段ボールを広げることは許されなかったので、仕事部屋と寝室に荷物を運んで詰めた。バカみたいに時間がかかった。よく間に合ったと思う。
引っ越し当日、母はリビングに座り、わたしたちの作業をじーーーっと見ていた。まるで監視するように。
親に迷惑をかけまいと、ずっと真面目に生きてきた。甘えたのは今回が初めてだ。生活費もきちんと支払ってきた。
それなのに、最後まで泥棒でも見るかのように娘を疑う母。その視線だけは、本当に悔しく、やりきれなかった。

5年間の同居生活が終わった。
1カ月後、忘れ物を取りに実家へ行った。わたしが「ほかに忘れ物はないかな」とあちこちチェックしていると、毒気の抜けた母はぼんやりと「また取りに来ればいいがね」と言った。
けれど、わたしは二度と実家に足を向けなかった。母に会ったのは、その日が最後になった。
ライター始動
2人だけの生活がはじまった。
引っ越しでまたもや貯金が底をついたので、わたしはまた派遣に登録して働きはじめた。
わたしは元プログラマで、イラストも描けて本も出している。その経歴のおかげで、未経験のECサイトの更新兼コピーライティングやポータルサイトのコンテンツライターなどに次々と採用された。この経験が、のちにわたしの仕事を大きく広げていくことになる。
一方、オットも、順調に仕事が増えていった。
2016年には、トリエンナーレあいちの一環で、ZIP-FMの人気番組『モーニングチャージ』に出演。

同じころ、同番組から派生した「モーチャーカメラ部」の「ストリートスナップ」講師も担当するようになった。
バラ色なだけではない日々
朝はわたしが2人分のお弁当を作り、帰宅するとオットが夕飯を作って待っている。好きなテレビを見て、好きな音楽を聴ける。ただそれだけのことが、これほど幸せだったとは。
とはいえ、バラ色なだけの毎日ではなかった。オットの体調はまだ不安定で、数カ月に一度は寝込んでしまう。

けれど、ぐったりと横たわるオットに、追い打ちをかけるような冷酷な言葉をぶつける人は、この家にはもう、誰もいなかった。
ナゴヤ本の打診
2017年の夏、「本を書きませんか」と声をかけてくれたのは、Facebook(以下FB)で繋がっている出版社A社の編集者U氏だった。
「ナゴヤのおもしろい人に話を聞いて本を作ってほしい」
わたしが文章とイラスト、オットが写真を担当するという願ってもない話である。しかも、ひよこの漫画も載せられる。12年越しの悲願の企画がついに形になるかもしれないのだ。
取材なんてしたこともない。けれど、やるしかないでしょ!
記念すべき最初の取材先は、民藝の精神を受け継ぐ瀬戸焼の窯元・瀬戸本業窯さん。

それから有松絞り、都々逸とナゴヤらしい文化の取材を重ねていった。しかし、編集者の望む内容とわたしの書きたい内容に乖離があることに気づいた。
何度も話し合ったが、溝は埋まらなかった。
それだけではない。発売日も決まらないまま、動いていたのはわたし一人だった。そんな不信感や、編集者の中にある「どこか名古屋を馬鹿にしたような感じ」は、わたしには到底受け入れがたいものだった。
2017年の暮れ、企画は消えた。
本が出せないことより、快く取材に応じてくれた人たちに申し訳なさ過ぎて、目の前が真っ暗になった。
予想外の救いの手
救いの手は、まったく予想外のところから差し伸べられた。きっかけはまたもやFBである。

実は以前から、わたしのFBの文章を読んで「本を書かないか」と言ってくれていた人がもう一人いた。別の大手出版社B社の敏腕営業・K氏である。
しかし、B社ではわたしの企画は通らなかった。その後、なんとB社は倒産してしまったのだ。
K氏にとっては受難であり、わたしにとっては幸運だった。
再就職したK氏と2018年に再会したとき、「陽菜さん、今度の会社なら企画通せるから、何かあったら持ってきてよ」
持って行くものは、ひとつしかなかった。
担当編集の妊娠による中断など、紆余曲折を経て、ついに企画が通ったのは2020年2月。同時に10月の発売が決まった。
今度こそ、15年越しの企画が形になる。わたしはかなりハイになっていた。
しかし、世の中はコロナ禍に突入していた。
コロナ禍で出版企画はどうなるか
世界中で演劇やスポーツ、ライブ、映画が止まり、「エンタメ不要論」が語られるようになった。
2019年の秋、愛知県福祉局子育て支援課からの依頼で、著名人監修の冊子のイラストを描いた。冊子は2020年2月末のイベントで使用される予定だったが、そのイベントも飛んだ。

出版の世界も同じだった。
周りからは、不穏な話しか聞こえてこなかった。本の企画が飛んだ(なくなること)、という話ばかりが耳に入ってきた。
(あんな有名な著者さんでも企画が飛ぶくらいなんだから、わたしの本なんて絶対に吹き飛ぶ)
編集者から何も言われていないのに、もう絶対に無理だと決めつけていた。その結果、5月中旬までの3カ月間、1文字も書けなくなってしまったのだった。
さすがにまずいと思い、ようやく何本か書き始めて1カ月。
6月中旬に届いた1通のメールを読んで、わたしは自分のアホさ加減を激しく後悔することになる。

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