【短編小説】芙蓉の花の香~鳥山検校と瀬川①
【お断り】
この小説は大河ドラマべらぼうのスピンオフではございません。
鳥山検校の目線で、大河ドラマとは全く違った切り口で書いております。
突然、荒々しい風が、私の着物をバタバタとはためかせた。
「……っ」
私は思わず、右手で目の前を覆う。
やがて、得も言われぬ濃厚な甘い色香が、艶やかに鼻腔を満たし始めた。
「検校様。大門、潜りましたよ」
連れの男の声に、私はただ頷いた。
ここは吉原。花のお江戸の外れにある、幕府公認の遊郭――色と欲が支配し、金が絶大な力を持つ、男にとっては夢のような場所だ。
私の名は、鳥山検校。玉一という名があるが、その名で呼ぶものは極僅かだ。
盲人の組織・当道座の最高位である私は、幕府の庇護の下、「官金」いわゆる高利の金貸しを営んでいる。その商売は順調で、今や私は江戸でも屈指の大金持ちだ。
戦国の世は遥か遠く、太平の世では武士の二本差しもただの飾りだ。表向きは支配階級としてふんぞり返っている彼らも、裏に回れば金を工面するために私のような者に土下座する。
そう、今の世を動かしているのは、力でも矜持でもない。山吹色だ。
身も蓋もないことを言うと、目の見えぬ私は、本来ならば吉原には不向きなのだろうと思う。
何故なら、吉原は目で見て楽しむものが多いところだからだ。
煌びやかな衣装に身を包み、艶やかに咲き誇る女たち。
豪奢な調度品や季節の花を飾った宴席。
踊りの腕を披露する芸奴。剽げた仕草で笑いを誘う幇間。
宴席ではお座敷遊びなどもあるが、これも私には難しい。
――それでは、盲人の私は、一体何を求めてここに来ているのだろうか。
私はふとそんなことを考えながら、小さく頭を振った。
「鳥山検校」の名は、容赦なき冷徹な高利貸しとして広く知れ渡っている。
だが、それだけでは面白くない。通人としての別の顔を世間に知らしめるのも一興と考えたのだ。
男の懐の深さを見せつけ、粋な恋の駆け引きで今をときめく女の心を射止めて、世間をあっと言わせる――その恰好の舞台が、色と欲と金が渦巻く、ここ吉原だ。
さて、そんな私が恋の相手と見定めたのは、当代一の花魁との呼び声高い、瀬川だ。
瀬川はその美しさもさることながら、教養の深さと巧みな客あしらいが評判を呼び、今や吉原随一の人気を誇っていた。
瀬川を座敷に呼び出すだけでもひと月以上待たされる。そんな噂は私の耳にも届いていた。
――まさに、通人たる私が口説き落とすにふさわしい女だ。
私は山吹色の力を示し、置屋をして密かに取り計らわせた。
その効果は絶大で、瀬川の同席を望んでからわずか5日後の呼び出しに成功したのだ。
座敷で瀬川を待つ間、私は取り巻き達が遊びに興じる様を聞き流しながら、ただ盃を傾けた。
……私にとっては、実に退屈な時間だ。
やがて、瀬川到着の触れが届いた。
――やっと来たか。
私は居住まいを正して、声のした方に顔を向ける。
「おお……」
「これは……」
呆けたような、取り巻き達の声。
その雰囲気から察するに、相当艶やかで美しい女のようだ。
重量のある布が擦れる音が近づき、やがて私から少し離れたところで、止まった。
ふっ、と良い香りがする。
――これが、瀬川か。
私はそちらへ顔を向けると、微笑みかけた。
「太夫。宜しく頼む」
「……」
私の挨拶に、瀬川は無言だ。
ただ、頭を下げてくれたことは、そよと動く風の流れでわかった。
――瀬川ほどの花魁なら、今日は口を利くまい。
私は瀬川に向けて目元を綻ばせると、再び盃を傾けた。
瀬川の声を聴けたのは、3回目の呼び出しの席だった。
その日、私は禿や振袖新造たちにも喜んでもらおうと、江戸で評判の菓子を持参していた。
恋の駆け引きには、このように花魁を取り巻く娘たちへの気遣いも必要なのだ。
この時も、瀬川は無言でやってきて、私から少し離れたところに静かに座った。
「太夫。今日は甘いものを持参したのだ」
私の言葉を合図に、手代が菓子折りの蓋を開ける。
「わあ……!」
「美味しそうでありんす」
幼子が無邪気な声を上げる。
「さあ、みんなで食べなさい。遠慮はいらないよ」
私が優しく声を掛けると、女たちの心がぱあっ、と華やいだ。
「花魁。食べてもようござりんすか?」
幼子が、甘え声で瀬川に許可を求める。
その時。
ふと、瀬川が動く気配がした。
「検校様。お気遣い、ありがとうござりんす」
低く落ち着いた、穏やかな声音。
――これが、瀬川の声か。
微かな喜びを滲ませた優しい声が、耳に届いた時。
私の脳裏に、大輪の花が咲いた。
ああ、これは――芙蓉の花。
私は、芙蓉の花を見たことはない。
ただ、遠い子供の日、庭に咲いていた芙蓉に触れたことがある。
大きな花びらをもつその花は、しっかりと空に顔を向け、凛とした風情でそこにあった。
――瀬川の声をきっかけに、私の手の中に芙蓉に触れた時の感触が蘇ったのだ。
私は、暇を見つけては瀬川の許に通い続けた。
やがて、瀬川は酒の相手をするようにはなったが、相変わらず凛とお高く止まったままだ。
――私と瀬川の「勝負」は、ここからが本番なのだろう。
私は、金をかけて選びに選び抜いた品を持参して、瀬川の前に披露した。
「まあ、素敵。ありがとうござりんす」
彼女はこんな風にして、口と態度では喜びと感謝を穏やかに表現する。
だが、その声の奥底には、真冬の冷たさが重く横たわっていた。
――そんなもので、私の心が買えるとでも?
芙蓉の花は素知らぬ顔で艶やかに咲き誇る。
(……っ)
私は平静を装いながらも、拳をぎゅっと握りしめた。
同席した取り巻き達は、
「検校様の心づくしに、花魁、喜んでましたねえ」
口々にそんな言葉で私を褒めそやした。
……どうやら、目が見える者は、彼女の微笑みにすっかり騙されてしまったようだ。
――贈り物などでは、到底物足りないということか。
そう考えた私は、大枚を叩いて派手な花魁道中を仕立て、宴席では気前よく紙花を蒔いて見せた。
しかし、瀬川の態度は変わらず冷淡だ。
――この女は、手ごわい。
私はまたしても瀬川の心を動かせなかったことを思い知らされて、落胆する。
では、瀬川が求めるものとは――?
そんな悶々とした気持ちを抱えたまま、私は出掛けた先の神社に立ち寄った。
御神体に商売繁盛を願った後で、私は健康守を買った。
――そうだ。瀬川に渡してやろう。
私はほんの気紛れで、そんなことを考えた。
「まあ――嬉しゅうござりんす。大事にしんす」
健康守を受け取った瀬川は、ぱあっと艶やかに華やいだ。
その声音には、あの真冬の冷淡さなど微塵もなかった。
「……」
私は、面食らった。
ほんの気紛れで買ったどうということのないお守りを、瀬川がこんなに喜んでくれるとは思わなかったのだ。
「いや……これは、たまたま立ち寄った神社で何の気なしに買ったものなのだが――」
ややあって、私はまるで言い訳のように呟いた。
すると、瀬川は、すっ、と私の手を取った。しなやかで優しい手だ。
「主さんは、あちきを思って、あちきのためにこのお守りを買っておくんなんした。そのお気持ちが嬉しいのでありんす」
「……!」
私は戦慄した。
瀬川が本当に望んでいたもの。
それは、山吹色でも豪華な贈り物でも、男の矜持や懐の深さなどではなく。
ただ、彼女のことを気遣い、大切に思う。その真心だけだというのか――。
――ならば。
「太夫。三味線はあるかね?」
「三味線……でありんすか?」
私の言葉に、瀬川は怪訝そうな声を上げる。
「ああ。私は検校になる前は三味線を弾いていてね――自分で言うのも何だが、巧いもんだったよ」
「まあ――」
「それで……今日は、太夫のために弾きたいのだ」
「!」
瀬川は、息を呑んだ。
戸惑いの匂いが、ふっと通り過ぎた後。
「主さん。是非聞かせておくんなんし」
瀬川は、いつもよりも高い声で、率直にねだってきたものだ。
この日から、私は瀬川と二人きりになると、三味線を弾いて聞かせるようになった。
三味線の情緒ある音色と、瀬川の穏やかな吐息。そして、ゆったりと身じろぎする気配。
あんなに頑なだった瀬川の心が、ゆっくりとほどけていく……。
そのことを感じ取った私は、口元に微かな笑みを乗せた。
そして。私は瀬川を、この胸に抱いた。
瀬川は何の抵抗もなく、私を受け入れた。
瀬川の心が緩んだせいだろうか――。
彼女は時折、物憂げな溜息をつくようになった。何ともやるせなく、細く長い溜息だ。
その意味するところを訊くのは野暮というもの。私は努めて素知らぬ顔を通した。
そして、その溜息を目の当たりにした、ある日のこと。
――もしやして、瀬川には間夫がいるのか?
とうとう私の心に、そんな疑いが沸き起こった。
一度心に現れたその疑念は、まるで真実の顔をして私の心を揺さぶり続けた。
――瀬川は私のものだ。他の男になんぞ渡してなるものか。
そして、私は遂に、実に「鳥山検校」らしいやり方で行動に出る。
置屋の言い値で瀬川を身請けすることにしたのだ。
ただ――。
このことは私にとっても大きな賭けだった。
瀬川ほどの花魁ともなると、置屋も彼女の気持ちを無下には出来ないのだ。
水面下でひりつくような交渉が交わされる中。
私は何食わぬ顔で瀬川の許へと通い、瀬川も変わらぬ様子で私と一夜を共にした。
私は瀬川のために三味線を弾き、瀬川はその音色に物憂げな溜息を、乗せた。
やがて、置屋から、「瀬川が身請け話を了承した」との知らせがもたらされた。
私は約束通り、置屋の言い値の1400両を支払った。
『あの鳥山検校が1400両で瀬川を身請けした――!』
その知らせは、あっという間に江戸の町を席巻した。
「あははははっ!」
私は江戸の空を見上げ、高らかに笑い飛ばした。
私は自らが望んだとおり、当代一の花魁を手中に収めて見事世間の耳目を集めたのだ。
そして。
世間では人々が紅葉狩りを楽しむ時分に、瀬川は吉原を去り、私の許へと住まいを移した。
