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その最善は、本当に現場で選べたのか

事件のあとに向けられる問い

学校で事件や事故が起きると、
必ずと言っていいほど問われる言葉があります。

なぜ防げなかったのか。

この問いは、避けて通れません。
原因を調べなければ、同じことを繰り返す可能性があります。
学校に足りなかった備えがあるなら、見直す必要もあります。

ただ、この問いが強くなると、いつの間にか別の言葉に変わっていきます。

防げたはずだった。

教員として現場にいると、この言葉には複雑な思いを抱きます。
本当に未来の安全につながる言葉なのか。
それとも、誰かを責めるための言葉になっていないか。
私はそこに引っかかります。

事件のあとだから見えるもの

事件が起きたあとには、多くの情報が集まります。
防犯カメラの映像、記録、証言、時刻の流れ。
あとから見れば、状況は整理されていきます。

だから私たちは言えます。
あの時、こうしていればよかった。
ここで止められたのではないか。
もっと早く気づけたのではないか。
もちろん、その振り返りは必要です。
直しがなければ、次につながりません。

けれど、忘れてはいけない点があります。
現場にいた人たちは、結果を知らないまま動いていたということです。
あとから見えるものと、その瞬間に見えていたものは違います。
ここを分けて考えなければ、検証はすぐに後出しの批判になります。

現場は分からない中で動いている

不審者が入った。
その一報だけで、すべてが分かるわけではありません。
相手がどこにいるのか。
何を持っているのか。
何人いるのか。
子どもたちはどこにいるのか。
ほかの教員は動けるのか。

現場では、分からないまま判断しなければならない場面があります。
数分後には分かる情報でも、その瞬間には分かりません。
それでも、子どもを動かすのか、
教室に残すのか、
通報するのか、
近くの教員を呼ぶのかを決めなければなりません。

訓練なら、場面設定があります。
しかし現実には、始まり方も、相手の動きも、
周りの状況も予想通りには進みません。
その中で完璧な判断を求めるのは、簡単ではありません。

防げたはず、という安心

大きな事件ほど、人は理由を求めます。
なぜ起きたのか。
誰の判断が間違っていたのか。
どこに落ち度があったのか。

理由が見つかると、少し安心できます。
原因が分かれば、次は避けられるような気がするからです。

反対に、はっきりした理由が見つからない事件は怖いものです。
どれだけ備えても起きるかもしれない。
自分の学校でも起きるかもしれない。
そう感じるからこそ、人は分かりやすい原因を探します。

そして、学校や教員の対応に視線が向きます。
防げたはずだった。
この言葉には、再発を防ぎたいという願いもあります。
一方で、不安を誰かの責任に置き換えたい気持ちも
混ざっているのではないでしょうか。

責任を決めても安全になるとは限らない

責任を明らかにする作業は必要です。
学校に問題があったなら、改善しなければなりません。
判断に課題があったなら、次に生かす必要があります。

けれど、責任者を決めるだけで終わるなら、学校は安全になりません。あの学校が悪かった。
あの教員の対応が遅かった。
あの時の判断が間違っていた。

そこで話が止まると、次に必要な備えが見えなくなります。
本当に考えるべきなのは、誰が悪かったのかだけではありません。
同じような場面が起きたとき、どうすれば被害を小さくできるのか。
学校だけでできる対策はどこまでなのか。
地域や行政や警察は、どこで支えるべきなのか。

そこまで考えなければ、検証は現場を追い詰めるだけになります。


最善の環境が整っていたのか

学校安全を考えるとき、
本来ならまず環境の話から始めるべきだと思います。

不審者対応であれば、警備員を置くのか。
校門や受付のつくりはどうするのか。
死角はないのか。
非常時に複数の経路で逃げられるのか。

防災であれば、火災報知設備やスプリンクラーは十分なのか。
避難経路は確保されているのか。
校舎の端にある教室から安全に逃げられるのか。

そのうえで、学校として、教員として、その場で何ができるのかを考える。
順番としては、こちらの方が自然です。

私自身、校舎の新築に関わったとき、
設計図を現場の教員で確認してほしいと言われた経験があります。
そこで、スプリンクラーのない部屋や、
校舎の端にある教室の出入り口が一つしかないこと、
非常階段がその教室の近くにないことを指摘しました。

しかし返ってきたのは、
今からでは予算の都合で変更できないという答えでした。
そのとき、私は強い怖さを感じました。

環境の不備を、最後は教員の判断や献身で埋めてほしい
と言われているように感じたからです。

もちろん、予算には限りがあります。
すべてを理想通りに整えるのは簡単ではありません。
それでも、最善の環境を整える努力を十分にしないまま、
事件や事故が起きたあとで教員に最善の行動だけを求めるのは、
あまりに苦しい話です。

教員は、その場でできる最善を尽くします。
けれど、その最善は、用意された環境の中での最善です。

設備も人手も避難経路も十分ではない中で、
あとから理想的な対応だけを求められる。
私はそこに、学校安全の怖さを感じます。

教員が恐れているもの

教員は事件そのものを恐れています。
目の前で子どもが傷つくかもしれない。
自分も傷つくかもしれない。
判断を間違えるかもしれない。

それだけでも大きな恐怖です。
けれど、もう一つ怖いものがあります。
事件のあとに向けられる言葉です。
なぜ、あの時こうしなかったのか。
もっと早く動けたのではないか。
先生なら止められたのではないか。

そうした言葉が繰り返されると、
教員は判断すること自体を怖がるようになります。
失敗を恐れる現場では、動きが遅くなります。
責められない選択を探すようになります。

それは、子どもを守る力を強くするでしょうか。
私は、そうは思いません。

未来につながる検証へ

事件や事故の検証は必要です。
原因を調べることも、責任を明らかにすることも避けられません。
ただし、その目的は誰かを責めることではないはずです。
次の被害を少しでも減らすためです。

防げたはずだった。

この言葉は分かりやすい言葉です。
だからこそ、使う前に立ち止まりたいと思います。
その言葉は、未来の安全につながっているのか。
それとも、私たち自身を安心させるために、
誰かを責める言葉になっていないか。

学校安全を考えるなら、そこから問い直す必要があります。
学校だけを責めても、子どもは守れません。
現場の教員を追い詰めても、次の安全にはつながりません。

必要なのは、過去を責めるための検証ではなく、
次に同じような場面が起きたとき、
子どもも教員も生きて帰るための検証なのだと思います。


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