学校だけで子どもを守れと言われても
さすまたの先に見えてきたもの
前回までの記事では、
不審者対応の最前線に立たされる教員の立場について書いてきました。
さすまたを持たされる現実。
子どもを守るために、教員はどこまで命を懸けるべきなのかという問い。
そこを考えていくと、さらに別の疑問が浮かんできます。
そもそも、学校だけで子どもを守ることはできるのでしょうか。
事件が起きると学校が問われる
学校で事件や事故が起きると、まず学校の対応が話題になります。
校門は閉まっていたのか。
来校者の確認はしていたのか。
防犯カメラはあったのか。
訓練は行われていたのか。
どれも確認すべき内容です。
見直しが必要な点もあると思います。
ただ、その議論を見ていると、不思議な気持ちにもなります。
事件が起きた瞬間から、
学校だけが答えを求められているように見えるからです。
もちろん、学校には責任があります。
子どもを預かっている以上、
安全への備えをしなくてよいはずがありません。
けれど、子どもの安全を学校だけで抱え込むことは、
本当に現実的なのでしょうか。
子どもは学校の中だけで生きていない
子どもたちは、学校の中だけで生活しているわけではありません。
朝は家を出て、通学路を歩きます。
放課後には友達の家へ行く子もいれば、習い事へ向かう子もいます。
休日には地域の中で過ごします。
学校が見守ることのできる時間は、子どもの生活の一部です。
それなのに、安全について語るときだけ、学校が中心に置かれます。
学校にいる時間の安全は、学校が考えなければなりません。
しかし、子どもの一日全体を考えたとき、
学校だけで守りきれる範囲には限りがあります。
そこを見ないまま、学校に期待だけが積み上がっていく。
私はそこに違和感があります。
校門を閉めれば安全なのか
事件が起きるたびに、防犯対策の強化が求められます。
校門を閉めること。
来校者を確認すること。
名札を付けてもらうこと。
校内を巡回すること。
どれも必要な取り組みです。
けれど、それだけで学校が安全な場所になるわけではありません。
学校は、完全に閉ざされた場所ではありません。
保護者も来ます。
地域の方も来ます。
業者の出入りもあります。
授業参観や行事もあります。
開かれた学校を目指しながら、外部との接触を減らそうとする。
ここには、もともと難しさがあります。
できる対策は進めるべきです。
ただ、校門を閉めたから安心、
防犯カメラを付けたから安心、
訓練をしたから安心と言い切れるほど、
学校の安全は単純ではありません。
最初に対応するのは教員である
学校には、基本的に警察官はいません。
常に警備員がいる学校も多くありません。
不審者が現れたとき、最初に対応するのは、その場にいる教員です。
訓練では役割分担ができます。
けれど、実際の場面では、予定通りに人が動けるとは限りません。
授業中で手が離せない教員もいます。
別室で対応している教員もいます。
職員室に人が少ない時間もあります。
今の学校には、人手に余裕がありません。
その中で、不審者対応だけは完璧に行うよう求められる。
この無理を、どこまで社会は分かっているのでしょうか。
どこまでなら防げたのか
不審者対策に限らず、事故も災害も、完全に防ぐことはできません。
どれだけ準備をしても、起きてしまうものはあります。
それでも事件が起きると、私たちはすぐに考えます。
なぜ防げなかったのか。
この問いは必要です。
原因を見つけ、次につなげるためには避けて通れません。
ただ、その問いだけでは足りないと思います。
本当に考えるべきなのは、
どこまでなら防げたのか、
どこから先は学校だけでは難しかったのか、
という点ではないでしょうか。
防げる範囲と、防ぎきれない範囲を分けて考えなければ、
最後は誰かを責める話になってしまいます。
そして、その誰かは多くの場合、現場の教員になります。
学校だけでは守りきれない
学校だけで子どもを守ることはできません。
これは責任を投げ出す言葉ではありません。
現実を見つめるための言葉です。
学校には、学校にできることがあります。
教員にも、子どもを守る責任があります。
けれど、学校だけではできないこともあります。
その境目を見ないまま学校への期待を重ね続ければ、
現場は疲れ切っていきます。
子どもを守りたいという思いは、多くの人が持っています。
だからこそ、学校だけに任せるのではなく、
家庭、地域、行政、警察も含めて考える必要があります。
子どもの安全は、学校の中だけで完結しません。
学校だけで子どもを守れと言われても。
その言葉の先に、
社会全体で考えなければならない問いがあるのだと思います。
