さすまたを持たされた教員に何が求められているのか
訓練のたびに感じる違和感
学校には不審者対策として、さすまたが置かれています。
不審者対応訓練でも必ず登場する道具です。
私もこれまで何度も訓練に参加してきました。
しかし、そのたびに同じ疑問が頭に浮かびます。
本当にこれで子どもたちを守れるのだろうか。
そして、私たち教員には何が求められているのだろうか。
学校安全について考えるとき、
多くの場合は子どもの命をどう守るかという話になります。
もちろん、それは最優先です。
ただ、さすまたを手にした瞬間、別の疑問も生まれます。
教員自身の命は、どのように考えられているのでしょうか。
実際に使うと分かる難しさ
さすまたを見たことはあっても、
実際に扱った経験が少ない人もいると思います。
ところが訓練で持ってみると、想像していたより簡単ではありません。
相手との距離を保ちながら動かなければなりません。
一人で押さえ込むのも簡単ではありません。
相手が協力してくれる訓練なら形になりますが、
本当に暴れる相手なら話は別です。
体格差もあります。
恐怖もあります。
冷静さを失う場面もあるでしょう。
訓練を経験した教員ほど、さすまたへの過信はしなくなります。
万能な道具ではない
これでは役に立たない
と実感するからです。
実際に私が、学校のさすまたを使って
ナイフを持った不審者と戦えと言われたら
絶対に嫌だと言い切れます。
相手を傷つけない道具
学校に置かれているさすまたを見ると、ある特徴があります。
相手を傷つけにくい形になっていることです。
昔の捕物道具のような棘はありません。
刃物でもありません。
相手を引っ掛けて拘束することを目的とした作りです。
壁や床に押し付けて拘束することも考えられているようです。
つまり、相手を無力化するための道具ではありません。
ただ、ここで一つの疑問が生まれます。
命を脅かす相手が目の前に現れたとき、
教員は何を優先すべきなのでしょうか。
子どもを守るのか、それとも
学校へ侵入してくる不審者は、
話し合いで解決できる相手とは限りません。
興奮しているかもしれません。
刃物を持っているかもしれません。
誰かを傷つける目的で来ている可能性もあります。
そのような状況でも、教員には冷静な対応が求められます。
しかし私は、ときどき不思議に感じます。
子どもを守るための話は数多く聞きます。
その一方で、
対応する教員自身をどう守るのかという話はほとんど聞きません。
不審者対応の議論では、子どもと加害者が登場します。
その間に立つ教員の存在が見えなくなっているように感じるのです。
教員は治安維持の専門家ではない
教員は授業を行うために採用されています。
子どもの成長を支えるために働いています。
警察官ではありません。
警備員でもありません。
それでも学校で事件が起きれば、最初に対応するのは教員です。
警察が到着するまでの時間。
その場にいる大人は教員だけです。
子どもを避難させるのも教員です。
状況を判断するのも教員です。
不審者と向き合う立場になるのも教員です。
そこには大きな責任があります。
命を守るという現実
不審者対応は訓練のようには進みません。
マニュアル通りにもなりません。
目の前に危険があるなら、子どもを守るための行動が必要になります。
同時に、教員自身も生きて帰らなければなりません。
学校安全の話になると、教員は子どもを守る存在として語られます。
しかし、教員もまた守られるべき存在であるです。
家庭がある人もいます。
守りたい人がいる人もいます。
それにもかかわらず、
不審者対応の議論では教員の安全が後ろに置かれているように見えます。
さすまたへの違和感の正体
私が疑問を感じているのは、さすまたそのものではありません。
さすまたは象徴です。
違和感の正体は別の場所にあります。
子どもを守る責任は語られる。
不審者への対応も語られる。
しかし、その間に立つ教員をどう守るのかは語られない。
私はそこに引っ掛かりを覚えます。
さすまたを見るたびに思うのです。
私たちは何を持たされているのか。
そして、何を期待されているのかと。
おわりに
学校安全を考えるとき、
子どもの命を守るという視点は欠かせません。
ただ、その場にいる教員の命も
同じように考えられるべきではないでしょうか。
不審者対応の訓練を重ねるほど、その思いは強くなります。
さすまたは道具です。
しかし、その道具を見ていると、
学校が教員に何を求めているのかが見えてくるような気がします。
