【同じ赤ですか?】🍅メアリーの部屋と、置き換わる「私」の思考実験
【語り部の部屋】
ようこそ……。
今夜も、よくいらっしゃいました。
あなたは、「赤」という色を知っていますね。
信号機の、あの赤。
血の、あの赤。
夕焼けの、あの赤。

では、聞かせてください。
その「赤い」という感覚を、あなたは言葉で説明できますか。
光の波長がどうとか、
そういう話ではありません。
あなたの頭の中に浮かぶ、あの赤という感覚そのものを、他人に正確に伝えることができますか。
……できないでしょう。
今夜お話しするのはその、
伝えられない「何か」の話です。
これは、哲学者フランク・ジャクソンが1982年に提示し、今も議論が続いている、有名な思考実験です。
そしてこの話は、途中からもうひとつ別の思考実験と静かに重なっていきます。
その先で、あなたはある事実に気づくことになるでしょう。
あなたの中にも今この瞬間、静かに置き換わり続けている、ある「船」が存在するということにね……。
さあ、ページを捲りましょう。

【第一章:白黒の部屋で育った天才学者】
最初に、一つの思考実験の話をしましょう。
メアリーという一人の女性を想像してください。
彼女は、天才的な学者です。
そして生まれたときから、
ある特殊な部屋の中で育ちました。
その部屋の中はすべてが白と黒と、その中間の灰色だけで作られています。
壁も。
床も。
彼女が着る服も。
彼女が使う道具も。
彼女は、赤も青も緑も、
生まれて一度も見たことがありません。
けれどメアリーには、時間だけはたっぷりとありました。彼女はその部屋の中で、色に関するあらゆる知識を学び尽くしました。
光の波長について。
その波長がどのように人間の網膜に届くかについて。
網膜が受け取った情報が、どのような神経の経路を通って脳の視覚野へ伝わるかについて。
赤色を見たとき、脳のどの部分がどのように活動するかについて。
彼女はこれらすべてを、
完璧に理解しています。
もし色についての物理的な事実というものがこの世界に存在するのだとしたら、メアリーはそのすべてを知っている。
……そういう設定です。
さて。
ある日、メアリーは初めて、その白黒の部屋の扉を開けます。そして外の世界で、真っ赤なトマトを目にするとしましょう。
……ここで、ひとつの問いが生まれます。
このとき、メアリーは何か新しいことを学んだのでしょうか。

【第二章:知識という名の抜け落ちた何か】
多くの人は、この問いにこう答えます。
「学んだと思う」と。
メアリーは赤いトマトを見た瞬間、
こう思うでしょう。
「ああ、これが赤という感覚なのか」
これは、彼女がそれまで持っていたどんな物理的な知識とも違う種類の、新しい何かです。
赤い、という感覚。
痛い、という感覚。
甘い、という感覚。
私たちが体験する、その主観的な質感には、クオリアという名前がつけられています。
もしメアリーが本当に、色についてのすべての物理的な事実を知っていたにもかかわらず、赤いトマトを見た瞬間に新しい何かを学んでしまったのだとしたら。
そこには、興味深い可能性が待っています。
それは、脳内の状態をどれほど詳細に記述しても、その物理的、文字的な記述に現せない「何か」が、別に存在する。
という可能性です。
……もちろん、この結論に対しては反論もあります。
メアリーは新しい「事実」を学んだのではなく、赤を認識する「能力」を新しく獲得しただけではないか、という反論。
彼女はもともと持っていた知識を、体験という別のルートからもう一度確認しただけではないか、という反論。
そもそも色に関するすべての物理的事実を、人間の脳が完全に網羅することなど不可能ではないか、という反論。
ジャクソン自身も後年、この議論に対する自らの立場を見直しています。
この議論は、知識論法、と呼ばれています。
でも今夜あなたに考えていただきたいのは、この議論の勝敗ではなく、別のことです。

【第三章:何を残せば、同じものなのか】
ここで少し、話を変えましょう。
有名な思考実験を、もうひとつお話しします。
古代ギリシャの英雄、テセウスが乗っていた船がありました。
その船は長い年月をかけて、
少しずつ傷んでいきます。
板が一枚腐れば、
新しい板に取り替えられます。
帆が一枚破れれば、
新しい帆に張り替えられます。
そうして何十年もかけて、船を構成していた木材も、釘も、帆も、そのすべてが最初とは別の部品に入れ替わってしまいました。
……さて、ここで問いが生まれます。
その船は今でも、最初のテセウスの船と同じ船だと言えるのでしょうか。
もし同じだと言うなら、同一性というものは材料ではなく、いったいどこに宿っているのでしょうか。
もし違うと言うなら、いつ、どの部品がどこまで入れ替わった時点で、「船は別の船になってしまった」と言えるのでしょうか。
……もうひとつ、厄介な問いを添えましょう。
取り外された古い部品を、誰かが倉庫にすべて保管していたとします。
腐った板も、錆びた釘も、破れた帆も、
全てを一つ残らず。
そしてある日、その古い部品だけを使って一隻の船を組み上げてしまったとしたら。
そうなると港には今、
二隻の船が並んでいることになります。
一隻は、少しずつ部品を替えながらずっと海に浮かび続けてきた船。
もう一隻は、取り外された部品だけで組み直された、古い材料の船。
……どちらが、
真にテセウスの船なのでしょうか。
材料が本物だと言うならば、
倉庫の廃部品から生まれた方でしょう。
使われ続けてきた歴史が本物だと言うなら、
ずっと海に浮かんでいた方でしょう。
どちらも本物だ、と言えばいいのでしょうか。
けれど、そう答えれば。
ひとつだったはずの船が、
同時に二隻あることになってしまいます。
……メアリーの部屋と、このテセウスの船。
もともとは、まったく異なる二つの問いです。
一方は、
物理的な知識と主観的な体験のあいだの問い。
もう一方は、時間を通じた同一性の問い。
けれど、今夜の話の中では、あえてこの二つをひとつの問いで結ぼうと思います。
船で言えば、物理的な構成要素。つまり船の全データや木材、布、といったものを、すべて余すところなく集めて並べれば、
そのものの「全て」を真に説明しきれるのか。
という、一つの問いです。

【第四章:あなたの脳もまた、置き換わり続けている】
そして、ここからが今夜の本題です。
人間の脳を作る細胞の多くは、長いあいだ生き続けます。
けれど、その細胞を構成する分子は、代謝によって少しずつ入れ替わっていきます。
神経同士のつながりも、経験するたび、学ぶたび、静かに変化し続けています。
あなたの脳も、完全に同じ材料、完全に同じ状態のまま今日まで保存されてきたわけではありません。
つまり、あなたは今この瞬間も。
……生物学的な、テセウスの船なのです。
ここで少し、想像してみてください。
もし未来の技術で、あなたの脳のニューロンを一つずつ、まったく同じ機能を持つシリコン製のチップに置き換えていくことができたとしたら……。
しかも、その人工素子は、交換前のニューロンとまったく同じ信号を受け取り、まったく同じ信号を送り返すものとします。
記憶にも。
行動にも。
本人の言葉にも。
観測できる違いは、何ひとつ現れません。
そういう、理想的な装置を仮定します。
最初の一個を置き換えた段階では、あなたはあなたのままだと感じるでしょう。
十個置き換えても、きっと何も変わらないと感じるはずです。
では、その置き換えを、脳のすべてが機械へと入れ替わり終わるまで続けていったら、どうなるでしょうか。
そのとき、目の前にトマトを置かれたあなたは、かつてと同じように「赤い」と答えるでしょう。
行動も、反応も、言葉も、外側から見る限り、何ひとつ変わりません。
……けれど。
そのとき、すべてを置き換えられたあなたの中には、本当に赤という色の、あの主観的な質感が。まだ灯っているのでしょうか。
この問いに対して、哲学には大きく異なる答えがあります。
ひとつの立場は、こう答えます。
意識とは、脳がどんな材料で作られているかではなく、どんな働きをしているかによって生まれるものだ。
信号の受け渡しがまったく同じなら、材料が生体組織だろうとシリコンだろうと関係ない。
そこには、変わらず同じクオリアが灯り続けているはずだ。
こうした考え方を、機能主義と呼びます。

しかし、「機能だけを同じにしても、意識まで再現されるとは限らない」と考える立場もあります。
生きた脳が持つ物理的な性質そのものが、体験には欠かせないのではないか。
その働きを完璧に真似た機械を作ったとしても、それは意識をシミュレートしているだけで、内側には何も灯っていないのではないか、と。
計算の正しさと、感じることは、別のものかもしれない、というわけです。
もちろん、立場はこの二つだけではありません。
意識をどう捉えるかについては、他にもいくつもの考え方が並び立っています。
……では、どれが正しいのか。
今のところ、それを決着させる実験は、ひとつも存在しません。
この思考実験の条件では、どちらが正しかったとしても、置き換えられたその人は、まったく同じように「赤い」と答えるからです。
哲学では、外から見れば私たちとまったく同じように振る舞いながら、内側には主観的な体験を持たないと仮定された存在のことを、哲学的ゾンビと呼びます。
もちろん、そんなものが本当に存在可能なのかどうかも含め、今も議論は続いています。

【語り部の部屋:最後に】
さあ……今夜の話は、
ここまでにいたしましょう。
メアリーの部屋は、客観的なデータをどれだけ集めても、主観的な体験には届かないかもしれないことを示していました。
テセウスの船は、部品をすべて入れ替えても、同一性がどこに宿るのか誰にも分からないことを示していました。
そして、この二つが重なる場所に、あなたという存在が立っています。
さて……。
今あなたは、「赤」を見ているとしましょう。それが今「赤く見えている」そのことだけなら、疑う必要はないのかもしれません。
けれど。
今感じているその赤さが、
昨日感じた赤さと本当に同じものなのか。
それを確かめることは、できません。
昨日の感覚そのものを取り出して、今の感覚と並べて比べる方法が、どこにもないからです。
あなたに残されているのは。
「昨日も、これを赤と呼んだ」
……という、記憶だけです。
そして、もうひとつ。
比べられないのは、過去のあなたとだけではありません。
今、あなたの隣にいる誰かが「赤い」と言ったとします。
あなたも同じものを見て「赤い」と答えます。
言葉だけは、完全に一致しています。
けれど、その人の頭の中に灯っている色が、仮にあなたにとっての青と同じ質感だったとしても。
二人は、生まれてから死ぬまで、一度もそのずれに気づくことはできません。
同じものを同じ名前で呼び続け、会話は完璧に成立し続けるからです。
これを、逆転クオリアと呼びます。
あなたが誰かと分かち合えるのは、
感覚の「名前」だけなのです。
色そのものは生涯、あなたの頭の中から一度も出ることはありません。
最後に、ひとつだけ問いを置きましょう。
もしあなたの脳が人工素子に置き換えられたとして、その人工素子が元の脳とまったく同じ働きを続けるのなら。
クオリアが少しずつ変化しても、あるいは静かに失われても、その口は以前と同じように「赤い」と答えるのかもしれません。
行動は変わりません。
記憶も変わりません。
「私は今も、以前と同じ私です」
そう答える機能まで、正確に受け継がれているからです。
けれど、その言葉は。
……本当に、同じ意識が今も残っている、という証明になるのでしょうか。

そんなことが実際に起きるという証拠は、どこにもありません。
しかし、それが起きていないことを確かめる方法も、まだ見つかっていません。
今夜あなたが見る夢の中の色が、
昨夜と真に同じ色であるかどうか。
……それを確かめられる人は、
どこにもいません。
昨夜のあなたはもう、
この場所にはいないのですから。
そして、たとえ確かめられたとしても。
その答えを誰かに伝えるための言葉は、
この世界にまだ存在しません……。
それではどうぞ、
お気をつけてお帰りください……。
良い、夢を……。
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