⑱The Chiplet Rebellion「勝利と敗北と、挑戦者の魂」【第二部】Silicon Ascension
【第六章 円卓の亀裂】
その夜。
格闘協会本部では、緊急理事会の召集状が静かに回っていた。
召集から一時間も経たないうちに全員が揃ったのは、それだけ全員が映像を見て青くなったということだった。
監視映像の解析データが、極秘回線を経由して各理事の端末へ届いていた。
誰もが同じ映像を。
同じ、青ざめた顔で見ていた。
GCH緊急理事会議事録
非公式 非公開。
会議が始まったのは、深夜を過ぎた頃だった。格闘協会の理事たちが顔を揃えた円卓は、逃げ場のない沈黙に包まれている。
議長席に座る老理事の額には、普段は見られないほど深い皺が刻まれていた。
モニターには、例の監視カメラの映像が静止画で映し出されている。
真紅の災厄。
過剰な生体改造の果ての、異形の姿。
THREAT LEVEL: EXTREME
その赤い文字が、会議室の白い壁に跳ね返って見えた。
「……これは、本当に同一人物か」
誰かが、モニターを見たまま呟いた。答えは、誰も返さなかった。
あの白銀の守護者が、ここまで変質するのに、どれほどの時間がかかったのか。
データには数字しか出てこないが、この映像の中にあるものは数字で語れるものではない。
法務担当理事は、私たちが、ここまでにしたのか、と考えて、すぐに頭の中から消した。感傷の場ではない。今夜は、処置を決める場だ。
誰も、最初に口を開こうとしなかった。この会議の記録は最初から存在しないことになっているにもかかわらず、それでも誰も話し出せなかった。
最初に喋った者が、何かを背負うことになる。そういう空気だった。
沈黙に耐えかねたのは、法務担当理事だった。
「……正式なライセンス剥奪処分は、適正な手続きに則ったものだ。協会側に瑕疵はない」
資料を手に、淡々と述べた。誰も反論しなかった。反論できなかった、というのが正確かもしれない。
手続きは、正しかった。でも、問題はそこではない。手続きの「外側」で起きている事態こそが、彼らの首を絞めていた。
「問題は、彼女が処分を受け入れていないことではなく」
別の理事が、慎重に言葉を選びながら継いだ。
「人間としての限界を捨ててでも、なお動き続けていることだ」
再び、沈黙が落ちた。
彼女は、規則を破っているのではない。規則の「外」へ出たのだ。制裁も、除名も、彼女を縛る論理としてもはや機能していない。
「過去にも類似のケースが」
競技統括を担う一人の理事が、手元の端末を確認しながら口を開いた。
「別の競技での大規模ドーピング発覚、試合後に選手が暴走して負傷者が出た案件。いずれも協会の手続きで対処してきた」
「だが、今回は違う」
老理事が、静かに遮った。
「過去の案件はすべて、まだ『制度の内側』にいる人間の話だった。今回は、制度そのものの外に出た存在を相手にしている。手続きで触れられる場所に、彼女はもういない」
「……では、どうする」
誰かが言った。
答えは、誰も持っていなかった。
議場の全員が、その冷酷な現実の前で言葉を失っていた。
そのとき。
「ねえ、ちょっといい?」
場違いなほど軽薄な声が、重苦しい空気を切り裂いた。
円卓の末席。正確には、末席のさらに斜め後ろに置かれた補助椅子。そこに、クロエ・ペイジは座っていた。
格闘協会情報統括特別顧問。
あるいは、この世界の全データが流れる不可視の神経網から遣わされた、最も不敵で不躾な代弁者。
虹色のツインテールに、無数のテクノロジー企業のロゴが散りばめられたオーバーサイズのパーカー。
その場の重厚な格式を粉々に粉砕するような出で立ちで、彼女は片手に持った缶ジュースを遠慮なく音を立てて啜っている。
何人かの理事が、不快感を隠そうともせず眉をひそめた。
なぜ、この人間がここにいる。
法務担当理事は、視線だけを一瞬その方向へ動かした。本当のことを言えば、入室に気づいたというより「気づいたら座っていた」としか表現のしようがない。
誰も彼女を呼んでいないし、誰も彼女が来たことに気づかなかった。入口の警備を通過したはずがない。それでも、そこにいる。
しかし、彼女をこの場から摘まみ出そうとする者は一人もいなかった。
理由は単純で、彼女を排除するということは、協会が依って立つあらゆる観測データと予測演算の生命線を自ら断つことを意味していたからだ。
ちなみに、その補助椅子はもともとそこになかったはずだ。彼女が持ってきたのか、最初からそこにあったのか、その物理的整合性すらも彼女の前では意味をなさない。
クロエはモニターの静止画を一瞥してから、退屈そうに告げた。
「最初っから全部観てたんだけどさ、これもう試合しちゃわないと、あの人何するか分かんないよ。……データ的にね」
理事の一人が不機嫌そうに問い返す。
「データ的に、とは?」
「あの人、今は外をうろうろしてるだけだけど。あと数日もしたら、理性が焼き切れて暴走すると思う。予測パターンは三つあって、どれも協会にとっては最悪の結果になる」
缶ジュースを一口啜ってから、少し間を置いた。
「一番マシなシナリオでも……まあ、かなり、ヤバいね。具体的に言うと、あのビルの五階が……いや、今は言わなくていいか」
淡々とした分析だった。軽いテンションのまま、内容だけが致死量を超えている。
途中で言いかけてやめた「五階」の件が、かえって全員の想像を最悪の方向へ引っ張った。
老理事は、クロエの顔を見た。退屈そうに、でも正確に。感情の色が薄いのに見ているものは誰よりも深い場所にある。
「意地張ってる場合じゃないと思うけどなー」
最後の一言だけが、また軽かった。

円卓に、激しいざわめきが走る。
誰も、彼女の言葉を否定できなかった。否定できる材料を、誰一人として持ち合わせていなかった。
ざわめきが少し収まりかけた頃、競技統括理事が低い声で割り込んだ。
「少し待ってほしい」
全員が、その方向を見た。
大柄な体躯。白髪まじりの短い髪。かつて何かを背負って戦い続けてきた者だけが持つ、静かな重さがその立ち姿に宿っていた。
「……今の話は、つまり彼女と『試合をさせる』ということか。除名処分中の、非合法改造を施した元選手に、公式な舞台を与えるということか」
静かだが、芯に怒りが通っている声だった。
「それは、私たちが先日執行した処分を、自らの手で無効化することになる。協会の規律を守ろうとする者全員への背信だ」
誰もすぐには答えなかった。言っていることは、正しかった。少なくとも、論理としては。
「今回の件を教訓に正規の道を歩んできた選手たちが、それを見てどう思うか」
「限界まで追い詰められれば、禁忌に手を伸ばしても許される、そういう前例を私たちが作ることになる。それが何をもたらすか、分からないはずはない」
一拍置いて、競技統括理事は続けた。声が、わずかに、低くなった。
「私も……負けたことはある。這い上がった経験もある。正規の道が閉ざされかけた時期も、知っている」
それだけを言って、少しだけ止まった。自分の話をするつもりはなかったのかもしれない。それでも、その言葉は出てきた。
「だからこそ、言う。その痛みの中でも、踏み越えていい線と、越えてはいけない線がある。それを守ることが、競技である証だ」
「彼女を特例として扱うことは、その線を消すことになる。正規の道を歩んできた者たちが、馬鹿を見る話だ」
会議室が、静かになった。感情に訴えているのではなかった。経験に、裏打ちされていた。それが、発言の重さとして、室内に充満していた。
「……分かった上で言ってるんだけど」
クロエが、ゆっくりと缶ジュースを傾けた。また軽い声で、しかし今度は少しだけトーンが落ちていた。
「試合をさせるのは、舞台を与えるためじゃないよ。封じるためだよ。あの人が内側に抱えてるものには、今や、外側からの制裁は何も機能しない。唯一残ってる選択肢は、あの人が『戦った』と思える場所を作ること。それだけ」
一拍置いた。
「前例の話をするなら、もう前例ない状態に進んでるからね。今夜の時点で。あのデータを見た上でそれが言える人がいたら、その人のデータを見てみたいな、正直」
淡々と言って、また缶を傾けた。
競技統括理事の表情が、複雑に歪んだ。言い返したかった。しかし、反論を組み立てるより先にモニターの赤い文字が目に入る。
THREAT LEVEL: EXTREME
(私は、正しいことを言っている。しかし、正しいことが正しく機能する状況に、もうないのか……)
その問いに、答えが出なかった。
沈黙が続いた。
長い沈黙だった。
やがて競技統括理事は、深く息を吸ってから、重く口を開いた。
「……一つだけ、確認させてほしい」
「なに?」
「これは、あくまで緊急回避のための一回限りの措置だ。公式記録には残さない。いかなる形でもこれが先例として参照されることを協会として拒絶する。それが担保されるなら、私は反対しない」
「反対しない、と言うんですか?」
法務担当理事が確認するように問い返した。
「……賛成は、できない」
一拍の間があった。
「ただ、止める理由も、今夜は持ち合わせていない。それだけのことだ」
それが、この場で出せる最後の矜持だった。
ざわめきが静まりかけた頃、別の声が静かに通った。
「私からも、一言よろしいか」
上座の端。それまで一言も発していなかった女性が、初めて口を開いた。
白銀に近い短い髪。胸元のロゴが、会議室の照明を冷たく反射している。
マキナだった。
いつから、いたんだ、この人は。
老理事は、驚きを飲み込んだ。マキナがいつ入室したのか、誰も気づいていなかった。クロエと同様に、気づいたときにはそこにいた。
ただし、クロエが騒音で存在を主張するのとは対照的に、この女性はその完璧な静けさゆえに誰の視界にも入らなかった。
「これは、私の問題でもある」
静かだった。
感情の起伏が、驚くほどない。
「あの結末を生んだ一因が私にあるとするならば。収拾もまた、私が引き受けるべきだろう」
彼女は、まっすぐに前を見据えた。
「秩序を取り戻す手段が一つしかないというなら、私はそれを選ぶ」
法務担当理事は思った。この人は、怖くないのか。非合法の改造を施した、制御不能の元選手と再び対峙することへの恐怖が。
この人間の中には、それが存在しないのだろうか。
答えは、マキナの表情を見ればすでに出ていた。恐怖がないのではない。恐怖が、何も変えないのだ。
やるべきことは、やるべき理由があるから、やる。それだけの話として、彼女の中では完結している。
一瞬の沈黙の後、理事の一人が言いかけた。
「しかし、ノンタイトルとはいえ、除名処分中の、しかも非合法な改造を施した選手との対戦は……公式記録への影響が」
「だから、超法規的にやるんでしょ?」
クロエが笑いながら遮った。缶ジュースを飲み干し、無造作に手に持ったまま。
「ここにいる全員が賛成しなくていいよ。反対しなければ十分。大人の決定ってそういうものでしょ?」
どよめきが落ち着いてきたところで、議長が静かに立ち上がった。
「これより採決に入る。規約に従い、当事者と議決権の無い方々には退室をお願いしたい」
視線が、マキナとクロエの方へ向けられた。
マキナは無言で頷いた。椅子を引く音もなく、足音もなく、ただ静かに立ち上がって扉へ向かう。その背中には、何の感情も読み取れなかった。
クロエは、缶を持ったまま伸びをした。
「はーい」
あまりにも気軽な返事だった。補助椅子から立ち上がりながら、特に急ぐでもなく扉へ向かう。その足取りには、退室を惜しむ様子が一切なかった。
二人が部屋を出て、扉が静かに閉まった。
採決は、静かに行われた。
試合実行の賛成に手を挙げた者は全員ではなかったが、反対に手を挙げた者は、いなかった。
競技統括理事は、最後まで腕を組んだまま、目を閉じていた。
それが、答えだった。
最終的な決定事項は、以下の通り。
GCH緊急特別規定第零条
非公式試合の開催
対戦:マキナ(現王者)vs
華麟(資格外・特別招集)
形式:ノンタイトル
賞金なし、一回限り。
会場:非公開施設。完全無観客。
中継:専用回線によるTV放映のみ。
異常発生時は即時切断。
議事録は、正式な文書としては作成されなかった。
余談だが、後日ある業界誌の記者が「この決定の経緯を知っている者はいるか」と複数の協会関係者に問い合わせた。
全員が、口を揃えて答えた。
「そのような会議は開かれていない」と。
全員が同じ答えを返してきたとき、記者はむしろ確信したという。
⇧⇧【第一部】の話も含めシリーズ全て⇧⇧
