見出し画像

約80年前の物語『ふたりのロッテ』を令和の感覚で読み直す【読書感想文】

この記事では、ケストナーの古典的名作を令和の視点で読み直してみます。

ケストナーとは、ドイツの児童文学者(1899~1974)です。
前回は、その自伝を読んでみました。
こちらの記事です。

今回、読み返した『ふたりのロッテ』は、およそ80年前に映画用のシナリオとして書かれた作品です。
リメイクされた映画は、今も観ることができます。

*この記事はAmazonアソシエイトに参加しています。

『ふたりのロッテ』のあらすじ

エーリッヒ・ケストナーの名作児童文学『ふたりのロッテ』のあらすじを簡潔に説明します。
有名な作品なので、ストーリーはネタバレありで紹介します。

1. 運命の出会い

夏休みの林間学校で、ウィーンから来たおてんばなルイーゼと、ミュンヘンから来たおとなしくて料理上手なロッテという、顔がそっくりな二人の少女が出会います。

最初は反発し合う二人でしたが、自分たちが同じ日に同じ街で生まれたこと、そしてお互いの親が離婚して離れ離れになった一卵性双生児の姉妹であることを知ります。

2. 大胆な入れ替わり作戦

二人は、会ったことのない方の親に会うため、夏休みが終わる時にお互いに入れ替わってそれぞれの家へ帰ることにします。

  • ルイーゼ(活発)→ お母さんの待つミュンヘンへ

  • ロッテ(控えめ)→ お父さんの待つウィーンへ

二人は慣れない環境に戸惑い、周囲に怪しまれながらも、必死にもう一人の自分を演じます。

3. 両親の再会とハッピーエンド

しかし、ウィーンのお父さんに再婚話が持ち上がったことで事態が急展開します。ショックで寝込んでしまったロッテを心配し、真相を知ったお母さんとルイーゼがウィーンへ駆けつけます。

久しぶりに再会した両親は、成長した娘たちの姿を見て、自分たちが離れ離れに暮らすべきではないと気づきます。
最終的に両親は再婚し、家族4人で一緒に暮らすことになるというハッピーエンドです。


一言で言うと

離れ離れに育てられた双子の姉妹が、夏休みに偶然出会って入れ替わり、バラバラになった家族を再び結びつける物語です。

令和にこの本を読んでみて

子はかすがい、ということわざを思い出しますね。
子どもたちが活躍して、離婚した両親を復縁させる話です。

80年前の価値観では、文句ないハッピーエンドですが、この家族観は令和の今も通用するのでしょうか。

再会した母親は父親にこう言って説得します。

「父と母を子どもたちはほしがっているんですわ!
それはつつましくない願いでしょうか」

『ふたりのロッテ』高橋健二訳

昔の文章なので、言葉づかいは、どうしても古めかしいです。
でも、内容はとてもまっとうな願いですよね。
つつましくない願い、とは、欲ばった願望、という意味でしょうか。そんなことないですね。
むしろ、ごく根源的で正当な欲求です。

子どもが父と母の両方をほしがるのは、贅沢でもわがままでもないと思います。
生きる土台を求めているだけです。

大人の都合や事情を横に置いて考えてみます。
子どもにとって親は心のよりどころです。

まず生活を支える安全基地です。
次に世界を知るためのモデルでもあります。
それから、自分が大事にされている証拠になります。

その役割を両親で担ってほしいと思うのは、自然すぎるほど自然な気持ちです。

もしこれを「つつましくない」と言うなら、それは子ども目線ではなく、大人側の論理です。

現実には、両親そろわないことはありえます。
でも、「願うこと」まで否定される筋合いはありません。

子どもが父と母を求めるのは、理想論でも幻想でもありません。
人間としてまっとうな感覚です。

だから、この物語で、父親はその願いを受け入れます。
復縁した父親は母親にこう言います。

「ぼくたちの新しい幸福の一刻一刻が、子どもたちのたまものだよ」

『ふたりのロッテ』高橋健二訳

私は、令和の今、この言葉が誰かを傷つけないか心配です。
昔の価値観で書かれた言葉は、文脈しだいで人を傷つけるからです。
悪意がなくても、です。

問題は「子どもたちのたまものだよ」という表現です。


今の時代に引っかかる価値観

ここでは、今の価値観で引っかかる点を整理します。

子どもに責任を背負わせている?

親の幸福は、本来、親の選択と努力の結果のはずです。
それを「子どものおかげ」にすると、子どもが無意識に「壊したらいけないもの」を背負ってしまいます。

子どもがいない人を否定してる?

「子どもがいない幸福は不完全」と受け取られかねません。
そうすると、意図せず、誰かの人生を否定する表現になってしまうかもしれません。

子どものおかげで復縁、は重い?

「私たちは子どものために一緒にいる」という表現は重すぎます。
「子どもがいなければ、この幸福はなかった」
そう聞こえることで傷つく人は、確実にいます。


言いたい気持ちはわかるけど

たぶん父親は、「子どもがいたから、もう一度向き合えた」
そう言いたいだけなんですよね。

優しい気持ちはわかります。
でも、昔の表現は、言葉の重心が今の価値観とずれているかもしれません。


今の時代に言い換えるなら

もし表現を考え直すなら、こんな言い方のほうが安全です。

「子どもたちがいてくれたから、
ぼくたちはもう一度、向き合う勇気をもらえた」

「この幸福は、ぼくたちが選んだもの。
その選択を支えてくれたのが、子どもたちだった」

これなら、責任は大人に、感謝は子どもに、きちんとわけることができます。


昔の小説を読むとき、現代の社会に生きる誰かを傷つける言い方ではないか、と感じることがあります。
それは言葉狩りでも、過剰反応でもありません。

優しい気持ちはわかるけれど、言葉を少しだけ選んだほうがいい場面があると思います。

昔の話は時代遅れ?


ケストナーの時代の児童文学は現在でも読まれるのでしょうか。
1950年ごろの小説に、2026年の現代でも通用する価値があると思いますか。

ハッピーエンドは、ただの綺麗ごとと受け止められるのではないでしょうか。

私は、1950年前後の小説は、今でも読む値打ちがあると思っています。
その理由は、時代を経て価値観が変わっても、人間の根本は変わっていないからです。

変わらないもの変わったことをわけて考えてみましょう。


今も変わらない価値観

・家族を求める気持ち
さっきの「父と母を求める子ども」の話と直結します。
血縁、居場所、守られる感覚。
形は変わっても、人間が欲しがる中身は変わっていません。

・貧しさ、つつましさの感覚
1950年ごろの小説は、「足りない中でどう生きるか」を真剣に描いています。
これは、物があふれている2026年のほうが、むしろ必要とされる感覚です。

・他人の目に縛られる苦しさ
昔は、世間体、村社会、噂に振り回されていました。
今は、SNSに形を変えただけで、構造的には同じことが起きています。

・生きる意味への問い
成功とか承認じゃなく、「私はなぜここにいるのか」という根源的な問い。
これは時代を超えて存在します。


そのままでは通用しない価値観

・男女の役割分担
数十年前の表現は古いものが多いです。
今と比べると価値観も偏っています。
でも「役割に押し込められる息苦しさ」は、あまり変わっていないですね。
ジェンダー問題として今も生きていると思います。

・がまんが美徳とされる描写
「がまんすればなんとかなる」という考え方は、今では肯定はできなくなりました。
ただし「声を上げられなかった人の痛み」は、現代の沈黙している人とつながっています。


昔の小説、読んでみよう

1950年ごろの小説が今も通用するのか、という不安は杞憂だったようです。
もちろん名作古典の価値は今も失われていません。
むしろ、今のほうが必要な場面もあるはずです。

なぜなら現代の社会は、スピードと効率と正しさばかりが優先されます。
そのなかで、人の弱さや未完成さを置き去りにしがちだからです。

昔の小説には、「うまく生きられない人」を切り捨てない温かさが残っていると思います。

そこには、2026年の現代でも通用する価値があります。
久しぶりに『ふたりのロッテ』を読み返して、そう思いました。

新訳になって読みやすくなった文庫本ですね。
私は、まだ旧訳しか読んでいませんが、ミュージカルにもなっていたようです。


そのほかの読書感想文は、こちらのマガジンに入っています。


#読書感想文 #人生を変えた一冊 #文学 #児童文学 #読書 #本 #感想 #エッセイ #人生哲学 #価値観 #気づき #文章 #日常 #学び #考え方 #生き方 #人間関係 #社会 #思考 #記録 #雑記 #読書日記

いいなと思ったら応援しよう!

椿みきこ🌸季節の花ごよみ もし応援いただけましたら、明日も書くエネルギーが出ると思います😊