エターナルライフ第4話 1945年夏
梅雨の合間に珍しく晴れた午後、康輔は書き終えた葉書を持ってポストに走った。家の裏の土手を駆け下り、線路の上を走る。それは郵便ポストのある雑貨屋までの近道だった。康輔は真夏のような強い日差しが照りつけるあぜ道を駆けた。
母の住む町が空襲に遭ったことを聞いたのは昨日のことだ。どうか母が無事でいてくれるように、康輔は祈るような思いで葉書を投函した。
投函してしまうと、何か大きな仕事を果たしたかのように脱力してしまった。風もなく、ひどく蒸し暑い中を走ったせいで汗が噴き出てきた。そもそも自分が何で走ったのかさえ解らなかった。走ったところで、母の元へ葉書が早く着くわけではないのだ。
ぼんやり帰り道を歩いていると、いろんなことが思い起こされた。家族がまだひとつだった頃のことを。
銀行に勤めていた父は、仕事が忙しく、康輔が姿を見るのは日曜日だけだった。しかし、その日曜日は家族三人で食事に行ったり、朝早く起きてピクニックに行ったり、どこにも出かけなくてもキャッチボールをしたりして、父は康輔のために時間を作ってくれた。
その父は、一昨年の夏、母さんを守るんだぞと康輔に言い残して出征した。
それから、母とふたりきりの暮らしは一年も経たないうちに終わった。
康輔が親戚の農家に縁故疎開したのは去年の春のことだった。ここでの生活は辛いことばかりだった。学校ではいじめられて友達は一人もいなかったし、日に三度の食事は取れるものの、育ち盛りの胃袋を満たすにはほど遠かった。
最後に母と会ったのは、母が正月に訪ねてきてくれた時だった。帰り際、康輔の坊主頭をゴシゴシ撫でながら涙ぐんでいた母。母さん、どうか無事で…。
背後から足音が聞こえたかと思うと、不意に背中を小突かれた。つんのめって転びそうになりながら、康輔はその相手が誰なのかすぐにわかった。ユキ姉だ。康輔はユキ姉ちゃんを縮めてそのように呼んでいた。
「何してんの康輔」
「乱暴なことするなよ。女のくせに」
ユキも縁故を頼って同じ家に疎開している子だった。康輔にとっては、その三歳年上の遠縁の女の子が、同世代唯一の話し相手であった。
「こんなことでよろけてちゃ、立派な兵隊さんになれないぞ」
「うるせえよ!」
二人は草いきれの立ちこめる道を小突きあいながら歩いた。
「康輔、面白いもの見せてあげる。こっちに来て」
平坦な土地の広がる中でそこだけが小高く盛り上がった森の中に寺がある。ふたりが数日前、米軍機の編隊から降下してきた一機に機銃掃射を浴びて逃げ込んだ森だ。ユキはその寺の参道に入って行った。
寺の門をくぐって石畳を進むと石段の向こうに本堂が見える。ユキは十センチ程の黒い石を拾ってその石畳の上に置いた。
「何これ?」
「ここから見ても何だか解らないけど…」
康輔は石段を駆け上がるユキを追った。石段の途中から下を見下ろしてユキが言う。
「ほら、何に見える?」
康輔はあっと声を上げた。石畳に象の顔が浮かび上がった。先ほど置いた石は象の目だ。石畳の微妙な陰影が象の横顔を形作っていた。
「ねっ、面白いでしょ」
「ユキ姉ちゃん凄い。他にも何かに見えるものが無いか探そう」
「じゃ、今度は康輔探して」
ユキは石段を駆け下りて先ほど置いた石を参道の脇に戻した。
「ユキ姉、何で取っちゃうの?」
「だって誰かが躓いたら危ないでしょ。何か見つかった?」
康輔は目を凝らして石畳を見つめたが、何も見つからなかった。ふたりは諦めて本堂に続く石段を登って行った。
「あっ、見つけた。ユキ姉、ほら、カタツムリがいるよ」
本堂の大きな梁の木目にカタツムリを認めた康輔が言う。
「ほんとだ、よく見つけたね!」
友達もおらず、娯楽も無い疎開生活、時には命の危険にも晒される過酷な状況の中で、ふたりはたわいの無い遊びに興じては、その辛い現実に耐えていた。
「ねえ康輔、康輔は秘密守れるよね」
「秘密って何?」
うっそうとした木立の中を進んで行くと、ひときわ大きな樫の木があった。ユキはその樫の木の下で立ち止まると、康輔を手招きして言った。
「ねえ、肩車してあげるからあの穴の中にこれを入れてほしいの」
ユキはハンカチにくるまれた大人のこぶし大のものを康輔に差し出し、幹の二メートルほどの高さに空いている洞を指さした。
「何それ」
「私の宝物」
「さあ、早く私の肩に乗って」
「えー! なんで女に肩車なんかされなくちゃいけないんだよ。俺がしてやるよ」
「大丈夫なの? 私重いよ」
「大丈夫に決まってるだろ。ユキ姉を持ち上げるくらい」
ユキがしゃがんだ康輔の頭を挟んでまたがると、康輔は渾身の力を振り絞って立ち上がった。思いのほか、洞は奥行きがあるようだった。ユキはそっとその宝物を穴に入れた。
「いいわよ。降ろして」
康輔はゆっくりとしゃがんでユキを降ろした。
「宝物って何なの? なんであんなところに隠しちゃうの?」
「マスコット。おばさんに捨てられちゃったの。敵国のものだからって。それを内緒でまた拾ってきたんだ。だから絶対秘密だよ」
「敵国のマスコット?」
「そう。私、小さい時ね、近所に住んでいた仲良しの友達がいたんだ。アメリカ人の」
梢を見上げながらユキは続けた。
「ダーナっていうの。目が青くてね、とってもかわいい子だった。その子がくれたの」
「敵国人だぞ! アメリカ人なんてみんな鬼畜なんだぞ!」
「そんなの嘘なのよ。そうやって憎しみを煽っているだけ。大人たちの都合でそう言ってるだけなのよ。ダーナのお父さんもお母さんもみんないい人だった」
「嘘なもんか! この前俺たちを撃ってきたパイロットだって、ニタニタ笑ってたんだぞ」
「きっとその人も騙されてるのよ。日本人は皆鬼畜だって教えられているの。その方が戦争するのに都合がいいから。日本人だって、アメリカ人だって、いい人もいれば、悪い人もいるの。なんでそんな簡単なことがわからないの?」
「父さんは、俺の父さんは命を懸けて悪い奴らと戦ってるんだ!」
そう叫ぶと康輔は駆け出した。走るしか込み上げる怒りを紛らわすことができなかった。石段を駆け下り、山門を過ぎて畦道を駆けた。次第に走れなくなり、息を切らしてとぼとぼと歩きながら、ユキの言っていることは本当かもしれないと思った。
日本人だっていろいろだ。自分の級友たちのことを考えれば明らかだ。康輔がここに来てもう一年以上経つのに、彼らは一向に自分を受け入れようとはしない。それはきっとユキも同じなのだろう。ユキが友達と一緒にいるところを見たことが無かった。
康輔は用水路に架かる橋の上でユキを待つことにした。欄干も無い橋に座って足をぶらぶらさせながら水草が揺れる流れを眺めていた。
康輔は無性に家に帰りたくなった。家に帰って母に会いたい。かつての友人たちに会いたかった。
それから一週間が過ぎた。心待ちにしていた母からの返信はまだ届かなかった。夕食後、おじさんに呼ばれた康輔は母が空襲で死んだことを聞いた。
普段寡黙なおじさんは、いろんなことを言って康輔を励ましてくれているようだったが、康輔の耳には全く届いていなかった。康輔は心が空洞になったように全ての感情が麻痺してしまっていた。
夜、床に入ると、母との思い出が次々と想い起された。隣に寝ているユキに気づかれたくなかったので声を押し殺して泣いた。
「康輔」
ユキが康輔の肩に手を置いたその途端、堰を切ったように感情が吹き出してしまった。ユキが布団に入って来て康輔の頭を抱き、背中をなで続けてくれた。康輔はユキの胸に顔を埋めて思いっきり泣いた。
泣き疲れた果てに訪れた虚脱の中で、康輔は何か、果実のような甘い匂いを嗅いだ。
翌日、康輔とユキは母方の祖父母を訪ねて大きな街に向かった。
母の遺骨はその祖父母の元にあるようだった。危険だからやめるようにと、おじさん達に止められたが、康輔は頑として聞き入れなかった。おじさん達は根負けして、ユキも一緒に行くと言う条件で渋々同意し、旅費も出してくれた。
二人を乗せた汽車は青い稲穂が実る水田を抜け、左右に山塊を眺めながらいくつかの谷を抜けていった。二人は言葉も無く、車窓に移ろう風景をただ眺めていた。
午後遅い時間に祖父の住む街へ着いた。祖父は駅まで迎えに来てくれているはずだった。多くの人が行き交う駅の構内を抜けて改札口に向うと、祖父のしゃがれた声が聞こえた。
「ここだ、ここだ、康輔!」
改札の外で祖父が叫んでいる。
「しばらく見ないうちに大きくなったなあ」
祖父はその皺だらけの掌を康輔の帽子の上にそっと乗せた。そしてユキの方を見て言った。
「ああ、ユキちゃんか。何年ぶりだろうな。綺麗になったなあ」
祖父が目を細めながらそう言うと、ユキは恥ずかしそうに微笑んだ。
駅舎から大通りに続く階段を降りながら、祖父は康輔の肩に手をかけて言った。
「まさか君との再会がこんな形になろうとはなあ」
この前、祖父と会ったのはたしか三年くらい前だった。母親と一緒にこの同じ道を歩いて祖父の家に行ったのだった。祖父はわずか三年で、随分歳を取ってしまったように康輔は感じた。
仏壇の前に置かれたちゃぶ台の上に母の遺骨はあった。康輔は不思議と涙は出なかった。線香をともして合掌しながら、人の身体はこんなにも小さくなってしまうものなのかと思った。
「一週間程前になるな。幸恵の住むあたりがひどい空襲にあってなあ。連絡も取れんようになって心配で見に行った。一面の焼け野原でなあ、まあ、酷いもんだった。目印も何にも無くなってしまって、どこがどこだかよく判らん。やっと探し当てた幸恵の家も跡形も無かった。幸恵は近くの防空壕の中におったようだが、その中でこと切れておったそうだ。何人もの人がその中で亡くなっていた。防空壕など何の意味もなさぬ位、すさまじい熱なんだろう。熱かったろうのう」
ガラガラと玄関の引き戸が開く。襖の向こうから大きな声が響く。
「康輔!康輔かあ」
「うるさいのう。もう少し静かにせんか!」
祖父の叱責を無視して祖母は康輔のもとに駆け寄り、康輔を抱きしめながら泣き出した。
「ああ、康輔、元気だったかあ」
祖母は康輔の頭を、その大きな胸にかき抱きながら言った。
「幸恵がこんなことになってしもうて、お前が不憫でならん。これからはこのばあちゃんが、幸恵に代わって康輔を守るからの」
康輔は祖母のダイレクトな愛情がうっとうしくなってきた。たまらなく一人になりたかった。
「そうだ康輔、今日は泊まっていくんだろ。美味しいご飯を作るからな。今日のために米をとっておいたんじゃ」
そう言うと、祖母は台所に向かい、夕食の支度に取りかかった。
康輔は散歩に行くと言って外に出た。かつて母と歩いた町並みをたどって母との思い出に浸りたかったのだ。祖父母の家を出て、駅に続く道を歩いているとユキが駆け足で追ってきた。
「待ってよ。一緒に行く」
「ひとりにしてくれよ」
「そんなこと言わないでよ。邪魔しないから。おじいちゃんとおばあちゃん相手に何話していいのかわからないんだもん」
ユキは康輔の後を少し離れてついて行った。
商店街に入る。母が祖父母の家に行くときにいつも寄っていった和菓子屋は閉まっていた。祖父母のお土産とは別に、ねだって買ってもらったみたらし団子を、いつも頬張りながら歩いたものだった。
ほとんどの店が閉まっている商店街の一角に古刹がある。門をくぐって奥に入ると青々と葉を茂らせた大銀杏がある。かつて母は黄金色に色づいたこの樹を眩しそうに見上げていた。
けたたましいサイレンの音が響いた。空襲警報だ。
「ユキ姉、逃げなきゃ!」
でも何処へ逃げればいいのだろう。防空壕も安全ではないのだ。
「康輔、どうしよう」
西の方角から火の手が上がった。焼夷弾を落としてきたのだ。
「そうだ康輔、駅前に鉄筋のビルがいくつかあったわ。その中なら安全かもしれない」
ふたりは駅に向かって走った。
康輔は必死に走ったが、ユキの早さに追いつかない。ユキは立ち止まり、追いついた康輔の手を握り、また駆ける。背後から爆撃機の轟音が近づいてくる。
「ユキ姉!先に逃げろ!」
「だめよ康輔!走るのよ!」
轟音はすぐ背後に迫る。
「だめだ。逃げ切れない。隠れよう」
二人は引き戸を開けて民家に飛び込んだ。鍵はかかっておらず、誰もいなかった。」
敵機が上空を通過する。と同時にもの凄い音を立てて無数の焼夷弾が降ってきた。この家の屋根にも落ちた。みるみるうちに天井が燃え始める。
「どうしよう康輔」
ユキが康輔の腕にしがみつく。
「ここにいても焼け死ぬだけだ。外に逃げよう」
外に飛び出すと、既に通りの両側の家々は激しく燃えている。二人は多くの人が逃げ惑う炎の海の中を駆けた。息をするのも苦しい凄まじい熱だ。
燃えた布のようなものが飛んできて前を走るユキにあたった。ユキの髪の毛が炎に包まれる。叫び声を上げてユキがうずくまる。康輔はボタンを引きちぎって脱いだシャツでユキの頭を叩いて消そうとしたが、炎はすぐにそのシャツに燃え移った。
すぐ先に川がある。多くの人が橋の上から川に飛び込んでいた。康輔はユキの手を取って立たせた。
「ユキ姉、飛び込め!」
二人は手をつないで川に飛び込んだ。
