エターナルライフ第3話 邂逅 康輔
採ったばかりの川虫を針に刺して竿を振り、流れの速い瀬に仕掛けを投入する。
水も少し温んで来たので、魚たちの食い気も出てくるはずだと期待したもののヒットはない。場所を変えようか。もう少し待ってみるか。俺は餌を付け替え、オモリを調整して仕掛けをポイントに投げ込んだ。
すると、そこに上流から女の悲鳴と水音が響いた。
何があった? 悲鳴の方に走る。小さな滝の脇にリュックが転がっているのが見えた。ここか。
川の中に入って滝壺を覗くと女が沈んでいるのが見えた。潜って引き上げる。女を抱えて川べりに寝かす。脈はある。呼吸がない。
気道を確保し、鼻をつまんで口から息を吹き込む。女は激しく咳き込んで水を吐き出した。荒い呼吸をしながらしがみつく女の背中をさすりながら。大丈夫だ、もう大丈夫だと言い続けた。しかし、女はまた気を失ってしまった。
取り敢えず女を抱えて家に帰った。
救急車を呼ぶべき所だがあいにく家には電話がない。公衆電話まで走っても五分はかかる。濡れた衣服を替えて体温を確保する方が先だ。
何を着せるか。換えのパジャマが洗ってあるはずだ。俺は女の衣服を全て脱がせ、ここで目覚めるんじゃないぞと念じながら乾いたタオルでその身体を拭いた。可哀想に女の身体は冷え切っている。
俺の下着を穿かせるのも変に思い、素肌の上からパジャマだけを着せて、毛布でくるんだ。そして、ファンヒーターを全開にして、救急車を呼びに公衆電話に駆けた。
病院のベッドの上で女は点滴を受けていた。
気分はどうかと聞くと、大丈夫だと弱々しい声で応えた。
「あの、あなたは?」
「ああ、川で釣りをしていたらね。悲鳴が聞こえたもので、飛んでいったら君が滝壺に沈んでいたんだ。それで、ここに連れてきた」
「あなたが助けてくださったんですね。ありがとうございます」
制する俺を振り切って女は上体を起こした。
「さっき医者の説明を聞いてきたんだけど、肺には水が入ってないようだから心配ないそうだ。だけど少し発熱しているので、二、三日は安静にしておくようにって。で、ここはベッドが空いてないから、しばらくしたら出て行かなきゃならないんだけど、ご家族に連絡して迎えに来てもらった方がいいと思うんだ」
「家族は…、いません」
「そうか、じゃ迎えに来てくれそうな友達とかは?」
「そうゆう人も、いません」
「うーん。困ったね」
「大丈夫です。ひとりで帰れます」
「家は近くなの?」
「いえ、バスと電車で四時間くらい」
「無理だよ。どこかこの辺のホテルにでも泊まった方がいい」
「ほんとに大丈夫です。あの、私のリュックって?」
「ああ、君のリュックね。川原に置きっぱなしだった」
「あの中にお金とか入っていて…」
「そうか、じゃ取りに行こう。そういえば君の服も家に置きっぱなしだ」
女はその時初めて自分の着ているものに気づいたようだった。
「ああ、それね。俺のパジャマ。君がずぶ濡れだったからさ、着せ替えた」
「あの…」
「いや、失礼だとは思ったんだけどね。濡れた衣服はどんどん体温を奪ってしまうから。君の命を守るためだったんだ」
うつむく女の耳が赤く染まった。
タクシーを呼んで、ひとまず家に帰る。床には濡れたままの俺と女の衣服が散乱していた。俺はそれを洗濯機に放り込みながら言った。
「ここで少し待っていなさい。リュックを取りに行ってくる」
川に降りていったが見当たらない。場所を間違うはずがない。滝の脇だ。誰かに盗られたのか。家に帰って女に報告すると、財布の中にはクレジットカードやキャッシュカードが入っているのでそれを止めなければならないと言う。
俺はふらつく女の身体を支えながら、公衆電話まで付き添った。家に帰ると、さすがに女は消耗しているようだった。
「今日はここに泊まりなさい。大丈夫だよ。俺のことは信用してもらっていい」
「いえ、そんなこと」
「それしか選択肢はないんだ。そのブカブカのパジャマで帰るわけにもいかないだろう。ところでまだ名前を聞いてなかったな。俺は黒田康輔っていうんだ」
「森美里です」
「みさとさんか。どんな字を書くの?」
「美しい里山の里」
翌朝、女は高熱を発していた。
川で溺れたのがよほど怖かったのか、時折うなされている。粥を作ってやったがほとんど食べられない。これはしばらくソファーで寝ることを覚悟しないといけない。
女が着ていた衣服を洗濯し、街まで買い物に出た。換えの下着くらい用意しないといけないと思ったのだが、女の下着なんて買ったことがない。サイズの見方さえわからず、思い切って店員に相談する。
部屋着になるようなものも買って帰る。こちらの方は洗濯したときにサイズを確認してきた。着ていたものから推測すると、彼女はわりとボーイッシュなスタイルが好きだと踏んだ。他にも食料品や、スポーツ飲料、若い女が好きそうなスイーツなどを買い込んで帰る。
急に舞い込んだ煩わしいトラブルに、張り切って対処している自分が意外だった。
二日目、女の熱は下がらない。
明日も下がらなければタクシーを呼んで病院に連れて行こう。
女の顔には見覚えがあるような気がしていた。整った鼻筋。薄い唇。どことなく少女の面影を宿しているように見えるのはその広い額のせいか。
その額に汗で張り付く髪をかき上げ、冷水に浸したタオルを乗せてやる。暖かいタオルで寝汗を拭ってやろうかとも思ったがやめておいた。
三日目、女は粥を少し食べられるようになった。プリンは完食。
四日目、女は起きられるようになった。平熱に戻り、食欲も出てきた。
女に仕事は大丈夫なのかと聞くと、会社は辞めたんだと言う。連絡するところは無いのか、心配している人はいないのかと問うと、そういう人もいない。自分はひとりぼっちなのだと応えた。
五日目、女は帰ると言い出した。
「もう大丈夫です。いつまでも甘えているわけには…」
「やっと熱が下がったところだ。もう一日ゆっくりして行きなさい」
「いえ、大丈夫です。申し訳ないのですが、電車賃を貸してもらえますか?必ずお返しします」
俺は彼女に二万円を渡し、タクシーを呼びに公衆電話に向かった。
「本当にお世話になりました。ありがとうございました。必ずお礼に伺います。それと、買っていただいた衣料品も置かせておいていください」
「ああ、どうせ田舎のスーパーで売っていたものだから、必要なければ捨てるけど…」
「いえ、そんなことは…。必ず取りに伺います」
「あ、帽子だけ」
「え?」
「帽子だけ被ってみて」
彼女に似合いそうな気がして、衣類と一緒に買ってきたキャップだった。彼女は一度頭に乗せてから、大きさを調整してかぶり直した。
「よく似合う。可愛いよ」
彼女がはにかんで笑うと、頬骨の上の部分にえくぼができた。
そこではっきりと気づいた。初めて彼女を見たときから、どこかで会ったことがあるような気がしていた。堆積された記憶の奥底から鮮やかに立ち上がってきたイメージ。
彼女は呆然と立ち尽くしている俺に向かって深々と頭を下げ、タクシーに乗り込んだ。
ユキ、頬骨の上にえくぼを浮かべて微笑む君の存在が、あの頃の俺の唯一の救いだった。
あれからもう四十四年の歳月が流れたんだ。
