エターナルライフ第2話 邂逅 美里
バスが緩いカーブを左に切ると、新緑から零れ落ちる日の光が私の上を流れていく。生まれたばかりの葉っぱたちは太陽を求めて競うように成長していく。街なかではとっくに散ってしまった桜が、ここでは今真っ盛りだ。
春が緑に塗り替えた山をバスは喘ぎながら登っていく。
昔パパとママと一緒に乗ったバスもこんなポンコツだった。もう17年も前のことだから、同じバスのわけはないのに、ここだけ時間が止まっているのではないかと思うほど、あの日のままだ。
今までの自分に区切りを付けたくてひとりで旅に出た。子供のころに家族で泊まった旅館。そこからの山歩き。その再現。
先月さくらが死んだ。
特に病を得ていたわけでは無く、その朝まで元気だったので、車に撥ねられたことは間違えない。でも、不思議とその亡骸に外傷は無く、轢死とは思えないほどきれいな姿だった。私は泣きながら側溝の脇に静かに横たわるさくらを抱いて帰って、小さな庭の植え込みの脇に埋めた。
突然の事故死なのに、あの子は自分の死期を悟っていたのだろうか。なぜかその前の晩は珍しくうっとうしく感じるほど、私にベタベタと甘えてきた。なぜあの時もっと優しくしてあげられなかったのだろう。
さくらを拾ったのは四年前の春だった。
おばあちゃんの一周忌の帰り道、どこかで子猫の鳴き声が聞こえた。声のする方に近づいてみると、大きな桜の木の下に段ボールに入れられたグレーの縞々の子猫がいた。
頭上の桜は盛んに花びらを散らし、子猫の頭や背中にも、その薄桃色の片々を落としていた。
私はミウミウ泣いている子猫を抱き上げ、家に連れて帰った。
その、何かに頼らなければ生きることのできない無力の存在に対して、自分が関与しているという事実が私を高揚させた。
そして私は、その子猫にさくらという名前を付けた。
その晩も、次の日も、さくらは怯えて部屋の隅の物陰に隠れていた。三日目の晩、さくらの鳴き声で目を覚ました。
私はベッドの脇にちょこんと座っているさくらを抱き上げ、そっとベッドの上に載せた。その、ふあふあの、小さな柔らかい身体を撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らしながら私の指をぺろぺろ舐めた。そして、おずおずと私の布団の中に入り込んできて、私のわき腹にぴったり寄り添って眠った。
暖かかった。それは久しく感じることの無かった生あるものの温もりだった。何故だか涙が出てきて止まらない。私は泣きながらゴロゴロ喉を鳴らすさくらを撫で続けた。
さくらと暮らした四年間、辛いことの多い現実にも、誰にも頼れない孤独にも、あの子に愛情を注ぐことで耐えることができた。
あの子を亡くした喪失感から、私はまだ立ち直れないでいる。
バスはようやく終着駅に着く。宿泊する温泉宿はここから歩いて直ぐのはずだ。
坂道を降りて行って、小さな川にかかる橋を渡ったところに、その鄙びた温泉宿はあった。
チェックインを済ませて鍵を受け取る。ギシギシと軋む階段を登って部屋に入ると、西日の差す窓から、さっき渡ってきた川が望めた。家族経営のような小さな宿も十七年前と何も変わっていない。
夕食前にお風呂に行く。平日なので宿泊客もまばらのようだ。大きな湯船を独占する。無色透明で微かに硫黄の匂いがする湯につかっていると、身体に溜まった澱のようなものが溶けていく気がする。
そっと乳房を押さえてみる。自分のコンプレックスのひとつでもある小さなこの胸を、あの男は美しいと言ってくれた。
出口の見えない妻子ある男との関係を清算し、会社を辞めたのは年が明けてすぐのことだった。
昭和天皇が崩御し、元号が平成と変わってゴタゴタしていた最中で、業務を放り出すのは心苦しかったが、このまま男のそばにいれば、ずるずると関係を続けてしまいそうな恐れを感じていた。
別にその男に恋愛感情を持っていたわけではなかった。たまたま会社の飲み会の流れで誘われて応えてしまったのだ。自分が不倫の相手をするようになるなんて思ってもいなかったけど、何度が逢瀬を重ねるうちに抵抗感も消えてしまった。
私も、自分の中にあるどうしようも無い欠落感を何かで埋めて欲しかったのだ。
男に心を許していた訳ではない。身体だけの関係を楽しめばいいんだと割り切っていたはずだった。でも、決して外泊すること無く、家族の元に帰っていく男をベッドの上で見送る自分は惨めでしかなかった。
ひとりホテルに置き去りにされる寂寥は、合わせる肌の高揚を凌いだ。
男の住む街を訪ねてみたのは去年の暮れだ。別に会いに行ったわけではない。ちょうど近くに所用があり、その帰りに途中下車してみたのだ。
その街は毎年行われる「住みたい街ランキング」で、上位ランクの常連だったけど、それまで私は一度も訪れたことが無かった。
クリスマスソングが流れる商店街には小洒落た雑貨屋さんやセンスの良さそうな花屋さん、イタリアの国旗を掲げたレストランや素敵なカフェが軒を連ね、近くにある大学の学生たちが闊歩している。
すぐ側には大きな公園があるようで緑も豊かだ。みんなが住みたいと思うのは当然だ。私の住んでいる町とは全然違う。
商店街を抜けて大通りを曲がると、北風に震える裸の街路樹の向こうから幼い子供の声が響いた。
小さな女の子を真ん中にして、その父母らしき三人連れが歩いてくる。女の子は繋いだ両手で持ち上げられながら、その小さな足が着地するたびに、もっと、もっと。とせがんだ。
すれ違いざま、その父親は怒りと恐怖の入り交じった目で私を一瞥した。
夕食後、もう一度風呂に行き、久しぶりにビールを飲んで直ぐに床についた。
明日のために早く寝てしまおうと思ったのに、夜中に悪夢を見て目覚めてしまった。多くの人が濁流に飲まれて流されていく。その中に私もいる。息ができない。必死に川面から顔をあげようとするのだが、誰かが私を掴んで水中に沈めようとする。自分の呼吸を確保するために。
子供の頃から何度も同じ夢を見て、寝汗にまみれて目覚めると、いつもそれきり眠ることができなくなる。
私は窓際のソファーに座って、夜が明けるのをじっと待った。
うねうねした山道を登っていく。
あの峠を越えて、山の向こうの小さな町の鉄道の駅まで歩く予定だ。途中、何度も休憩して約三時間、ようやく頂上に着くと、急に視界が開けた。麓の街並みや、遠くに富士山も望める。
頂上には公園のように整備されている一角があって、なんだか訳のわからないモニュメントや、飲み物やお菓子の自動販売機が並んでいる。
あの日はここのベンチに座ってお弁当を食べたんだ。今日は宿に頼んで作ってもらったおにぎりをほおばる。
乾いた風が汗を乾かしていく。山々は常緑樹の濃い緑、新緑の浅黄、その中に山桜の薄紅が春のアイコンのように点在している。直ぐそばで鶯が鳴き出した。そこの梢にいるはずなのに、探しても姿は見えない。
花も樹木も鳥たちも、春の歓びに包まれて再生している。私も私を取り巻く様々なものをリセットするんだ。私自身をイニシャライズするんだ。
稜線を超えて、山の反対側の斜面を降りる。
あの日、私ははしゃいで駆け下りて転んだんだ。膝を擦りむいてべそをかく私をパパがおんぶしてくれた。お腹いっぱいだった私はパパの大きな背中で眠ってしまった。大好きだったパパ。
パパとママが死んじゃったのはそれから五年後のことだった。
家族で食事に行った帰り道、パパの運転する車に、カーブを曲がりきれず対向車線をはみ出した暴走車が衝突。何故か私だけが助かった。
私はおばあちゃんに引き取られた。
夫に先立たれ、ずっとひとり暮らしだったおばあちゃんは、大事に私を育ててくれた。でも、それから7年後に病を得て亡くなった。
おばあちゃんにはママの他に子供がいなかったので、遺産は全て私が相続した。銀行預金の数十万円と小さな家を。
緩い斜面を降りていくと登山道が二手に分かれている。
どっちだろう。どちらへ行ってもそれほど変わらず麓に降りられるような気がする。わたしは右に行く道を選んだ。
森の中の道をしばらく行くと急に視界が開けた。そこは野の花が群生する草原で、黄色い小さな花々が風に揺れていた。何という花だろう。植物に詳しくない私は花の名前を知らない。こっちの道に来て正解だった。私は少し傾きかけた陽を浴びながら草原を突っ切る小さな道を進んだ。
草原を抜けて森の中をしばらく進むと、道は道とは言えないものになってきた。多くの人が通ったという痕跡がない。これ以上行くのは危険かもしれない。戻ろう。
この森に入って直ぐのところで左に曲がる道があった。たぶんその道を行けば、最初の分岐点で迷ったもう一つの道に出られるはずだ。私は来た道を引き返し、分岐を右に曲がった。
急な勾配を降りていくと、水音が聞こえてきた。道はその川で行き止まりだった。
完全に道に迷ってしまった。でもそうだ、この川を下っていけば麓に出るはずだ。最初の分岐点まで戻るのはどう考えても億劫だ。
とりあえず私は大きな岩の上に座って休憩をとった。
河原に降りていって、そっと手を流れに浸してみる。目を閉じると、その冷たく、清冽な流れが私の手から全身に浸みていくような気がする。
ふと、このままこの美しい自然の中で朽ちてしまってもいいと思った。だって、もう私を待っている人は誰もいない。私を必要としていた猫も、もういない。
この流れにたゆたう私を魚たちがついばみ、微生物に分解され、そしてやがて海に溶け込んでいける。
そんなことを考えながら私は砂礫の河原を川下に歩いて行った。風が冷たくなってきた。
次第に傾斜がきつくなり、流れは速くなってくる。
更にしばらく行くと、ごうごうと激しい水音が聞こえてくる。いやな予感。やはり滝になっている。私は滝の上の岩に登って下を覗いてみた。そんなに高くない。二メートルちょっとだろうか。ちょうど足場に都合良く岩が配置されている。大丈夫、降りられそうだ。私は背負っていたリュックをそっと下の河原に落とした。
岩の突起に手をかけながら慎重に足を次の岩に移していく。
二つ目の岩、大丈夫。三つ目の岩に体重をかけたとたん、右足はグリップを失った。
身体が宙に浮いた。青い空が見えた。そして滝壺に落ちた。
私は命の底から噴き出る恐怖に飲まれてパニックになった。息ができない。誰かが私を引きずり込む。水の中へ抑え込まれる。助けて、死にたくない。
さっきの思いとは裏腹に、それは身体中の全細胞ひとつひとつが叫ぶ生への渇望だった。
思いっきり水を飲んだ。苦しい。意識が遠くなる。暗い水底に沈んでいく。
その時、強い力で引き揚げられた。太陽のもとに。
