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島左近(清興)―関ヶ原に散った智将の真実

はじめに

「三成に過ぎたるもの二つあり 島の左近と佐和山の城」

この有名な落首をご存知でしょうか。関ヶ原の戦いで石田三成とともに敗れた武将、島左近清興。彼の名は、江戸時代の軍記物や講談によって「鬼神のごとき智将」として語り継がれてきました。

しかし、この英雄譚の多くは、実は史実ではなく後世の創作だったのです。では、本当の島左近とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。

近年、新史料の発見や、地方史料の再検証により、島左近の実像が少しずつ明らかになってきています。
本稿では、確実な同時代史料に基づき、伝説と史実を峻別しながら、戦国時代を生き抜いた一人の武将の真実の姿に迫ります。



目次

  1. 島左近とは何者か

  2. 大和の在地領主としての出発

  3. 筒井家での重臣時代

  4. 浪人という選択

  5. 石田三成との運命的な出会い

  6. 佐和山での活躍

  7. 関ヶ原前夜ー杭瀬川の奇襲

  8. 関ヶ原本戦での奮闘

  9. 謎に包まれた最期

  10. 史実と伝説の狭間で

  11. 後世への影響

1. 島左近とは何者か

島左近、本名は島清興(きよおき)。戦国時代末期から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。
大和国平群郡(現在の奈良県生駒郡平群町周辺)を本拠とする国人領主・島氏の出身とされています。

生年については、天文9年(1540年)5月5日とする説がありますが、これを裏付ける一次史料は存在しません。
確実な記録として残る最古のものは、天正5年(1577年)4月22日に春日大社へ奉納した石造灯籠です。
この灯籠には「春日社奉寄進 嶋左近丞清興」と刻まれており、現在も現物が確認できます。

「清興」という諱(いみな)が確認できる最古かつ最も確実な物証として、この灯籠は極めて重要な史料となっています。

2. 大和の在地領主としての出発

島氏は、平群谷一帯で数百年にわたり活動してきた在地領主でした。
鎌倉時代末期の嘉暦4年(1329年)には既に文献上に登場しており、大和国において一定の勢力を持っていたことが分かります。

平群町安養寺に残る位牌には「天文18年(1549年)9月15日 嶋佐近頭内儀」と刻まれており、これは左近の母のものと推定されています。
また、法隆寺に残る永禄3年(1560年)3月3日付の売買契約書には「嶋豊前守清國」の署名があり、これが左近の父と考えられています。
通字「清」が左近の諱「清興」に継承されていることも、この推定を裏付ける根拠となっています。

大和国は興福寺の勢力が強く、守護大名が存在しない特異な統治構造を持つ「神国」でした。
この中で島氏は、在地領主としての自律性を維持しながら、有力者との関係を築いていったのです。

3. 筒井家での重臣時代

左近が歴史の表舞台に登場するのは、大和国の戦国大名・筒井順慶に仕えてからです。

筒井家臣としての確実な初見は、天正11年(1583年)5月10日の『多聞院日記』の記事です。
この日、伊賀において筒井氏陣所が夜討ちに遭い、負傷者リストの中に「嶋左近」の名が記録されています。
天正伊賀の乱への従軍中の出来事でした。

翌天正12年(1584年)8月11日、筒井順慶の葬送が行われた際、左近は「五番 幡嶋左近殿」として行列に参加しました。
同じ目録には「松蔵右近」(松倉重信)の名も見え、後世に「筒井の右近左近」として語り継がれる両者が同時に登場する唯一の同時代史料となっています。

興味深いことに、天正7年(1579年)には春日大社若宮祭の願主人を務めた記録もあり、この時期には筒井家中で相応の地位を築いていたことが窺えます。

ただし、注目すべき点があります。天正11年(1583年)12月に筒井順慶が選定した「大名成」11名のリストに、左近の名が含まれていないのです。
これは、左近が筒井家の最上位重臣層には属していなかった可能性を示唆しており、後世の軍記物が描く「筆頭家老」像とは異なる実態が浮かび上がります。

4. 浪人という選択

天正12年(1584年)に順慶が没すると、養嗣子の筒井定次が家督を継ぎました。
しかし、左近は天正16年(1588年)2月に筒井家を離反し、奈良興福寺の塔頭・持宝院に身を寄せることになります。

『多聞院日記』は天正15年(1587年)頃から「伊賀国替一定、沈思々々」と記しており、筒井家内部で早くから軋轢が生じていたことが分かります。

離反の理由については諸説ありますが、より具体的な要因として天正14年(1586年)の水利争い事件が指摘されています。
島領と中坊秀祐領の農民間で用水をめぐる争いが発生した際、定次は中坊秀祐に有利な裁定を下しました。
これが左近離反の直接的な契機となった可能性があります。

浪人期間中の動向については断片的な記録しか残っていません。
『多聞院日記』天正18年(1590年)5月の記事は、左近の妻が伊勢亀山にいたことを伝えており、蒲生氏郷の与力・関一政を頼った可能性が示唆されています。

5. 石田三成との運命的な出会い

石田三成への仕官を示す最古の同時代史料は、天正18年(1590年)5月25日付の「石田三成書状」です。
佐竹義宣の家臣・東義久宛のこの書状には、義宣が豊臣秀吉に謁見する際の心構えが記され、使者として島左近の名が登場します。
この時点で左近は三成の重臣として外交交渉を担当していたことが確認できます。

2016年に東京大学史料編纂所によって発見された島左近自筆書状(天正18年7月付)は、左近の実像に迫る画期的な史料となりました。
小田原征伐後、佐竹義宣家臣の小貫頼久・東義久に宛てたこの書状では、常陸国の大掾清幹の帰属問題について交渉を行っています。
署名は「嶋」であり、三成の下で対外交渉の要職を担っていたことが明らかとなりました。

さらに『多聞院日記』天正20年(1592年)4月の記事は、左近の妻が「今江州サホノ城(=佐和山城)ニアリ」と記しています。
これは石田三成への仕官を裏付ける決定的な同時代記録です。

6. 佐和山での活躍

平成20年(2008年)に発見された石田三成判物も重要な史料です。
慶長元年から3年(1596-1598年)頃のものと推定されるこの文書は、年貢収納にあたり「島左近・山田上野・四岡帯刀」に命じたと記載しており、左近が軍事面のみならず内政実務にも携わっていたことを示しています。

地方史料によれば、1595年の検地では三成領内の総検地役を務め、琵琶湖湖畔に長さ約540メートル、幅約5メートルの木橋「百間橋」を架けて佐和山と膳所を結びました。
この大規模な橋は水運を掌握し、三成領の防衛と経済発展を支える重要なインフラとなったのです。

ここで、有名な逸話について触れなければなりません。
「治部少(三成)に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」という俗謡、そして三成が4万石の知行のうち半分の2万石を左近に与えて召し抱えたという「君臣禄を分かつ」の逸話です。

しかし、これらは同時代史料には一切確認されません。
文献上の初出は『古今武家盛衰記』(宝暦年間/1751-1764年成立)であり、関ヶ原の戦いから約150年後に成立した逸話集なのです。
同様に、禄高の逸話も『常山紀談』(1739-1770年成立)が主要な出典であり、同時代史料では確認されていません。

これらは、劉備と諸葛亮の「三顧の礼」を彷彿とさせる文学的脚色である可能性が指摘されています。
ただし、天正18年の時点で外交使節を務めるほどの重臣であったこと、年貢収納を任されていたことは確実であり、左近が三成の信頼厚い側近であったことは間違いありません。

7. 関ヶ原前夜ー杭瀬川の奇襲

慶長5年(1600年)9月14日、関ヶ原の前日に歴史的な前哨戦が行われました。杭瀬川の戦いです。

徳川家康が美濃赤坂に到着して西軍に動揺が広がる中、島左近が士気回復のため奇襲攻撃を進言したとされています。
左近は蒲生郷舎らとともに約500人の兵を率い、杭瀬川に伏兵を配置しました。

まず一部の部隊を囮として東軍の中村一栄隊・有馬豊氏隊を挑発します。稲を刈るなどして攻撃を誘い、わざと退却して東岸へ誘い込みました。
川を渡って深追いしてきた敵部隊に対し、伏兵を用いて側面・背後から急襲する「疑兵の計」を展開したのです。

この戦闘で西軍は中村家老・野一色頼母を討ち取り、東軍を撃退しました。この小規模ながら明確な勝利は、数で劣ると見られていた西軍全体に「家康軍、恐るるに足らず」という自信を植え付ける心理的効果をもたらしました。

8. 関ヶ原本戦での奮闘

慶長5年(1600年)9月15日、運命の関ヶ原本戦が始まりました。

石田三成の本陣は笹尾山に置かれ、島左近はその前面に堅固な陣地を構築して布陣しました。
拒馬(馬防柵)と竹矢来を二重三重に巡らせた陣地で、最前線に立ったのです。

左近は黒田長政、田中吉政、細川忠興といった東軍の主力部隊を一手に引き受ける役割を担いました。
『黒田家譜』は「要地をとり、旗正々として少しも撓まず…大音をあげて下知しける声、雷霆のごとく陣中に響き」と左近の奮戦を記録しています。

開戦直後から、左近の隊は東軍の猛攻に晒されましたが、巧みな指揮により敵の突撃を幾度も跳ね返しました。
防御施設を利用して敵の運動エネルギーを殺し、鉄砲と長槍を連携させた集団戦法で、一時的には東軍の攻勢を完全に膠着させたのです。

しかし、戦闘開始から約90分後、戦局を左右する事態が発生します。
黒田長政隊の鉄砲隊による斉射を受け、左近が負傷したのです。
彼は銃弾を身に受け(胸や肘など諸説あり)、落馬したと伝えられています。

「鬼左近が倒れた」という情報は、瞬く間に戦場を駆け巡りました。
これまで左近の武勇に依存していた西軍の兵卒たちの心理的支柱が折れた瞬間でした。

9. 謎に包まれた最期

正午過ぎ、小早川秀秋の裏切りにより大谷吉継隊が壊滅し、西軍の崩壊が決定的となります。
この敗色濃厚な最終局面における左近の行動について、史料は明確な答えを示していません。

同時代に最も近い『慶長年中卜斎記』(徳川家康侍医・板坂卜斎の随行記)は「島左近、行方不知。子供、打ち死に候なり」と記録しています。
息子の島信勝は藤堂玄蕃と組み打ちの末に討死しましたが、左近本人の遺体・首級は発見されなかったのです。

後世の史料は諸説を伝えています。
戦死説として『戸川家伝承』は戸川達安が討ち取ったとし、久能山東照宮には「伝・島左近の兜」が奉納されています。

一方、生存説として『石田軍記』『古今武家衰退記』は関ヶ原後に京都に潜伏し、寛永9年(1632年)に没したとしています。
京都・立本寺教法院には左近の位牌・過去帳があり、「寛永9年6月26日没」と記載されています。2024年6月には京都芸術大学による発掘調査が実施され、成人のほぼ全身の骨と歯が出土しましたが、左近本人かの確定には至っていません。

「三成を逃がすために自ら盾となって突撃した」という逸話は、同時代史料では確認されません。
小早川秀秋の裏切り後に再出陣して突撃したという記述は『常山紀談』にありますが、「三成を逃がすため」という動機付けは後世の小説・創作物による脚色と考えられています。

10. 史実と伝説の狭間で

島左近の英雄像は、主として江戸時代中期以降の軍記物・逸話集によって形成されました。成立時期順に整理すると、『関原始末記』(1656年)が最も早く、続いて『武功雑記』(1696年頃)、『関原軍記大成』(1713年)、『落穂集』(1727年)、『常山紀談』(1739-1770年)と編纂が続きました。

これらは関ヶ原から50年以上経過した時期のものであり、参戦者の体験談を採録したとしても、脚色や誇張を含む可能性があります。

特に『関原軍記大成』は45巻という大部で詳細を極めますが、大名家からの依頼による書入れや、偽作者からの資料採用が判明しており、信頼性には疑問が呈されています。
『常山紀談』は「史料的価値は低い」とブリタニカ国際大百科事典でも評価されています。

比較的信頼性が高いとされるのは『武功雑記』(松浦鎮信著)です。
平戸藩が召し抱えた大坂浪人200人以上からの聞書きに基づいており、『国史大辞典』も「信憑性の高い書物」と評価しています。
ただし、それでも関ヶ原から約100年後の成立です。

結論として、島左近の実像は同時代史料によって断片的にのみ確認されるのです。
天正5年から慶長5年にかけて、大和の在地領主から筒井家臣、そして石田三成の重臣へと転身した人物として、その存在は確かです。
しかし「三成に過ぎたるもの」「鬼左近」という評価や、劇的な最期の場面は、江戸時代の軍記物による後世の創作であり、史実と伝説を峻別することが学術的に求められています。

11. 後世への影響

左近の直系(男系嫡流)は断絶したとされますが、その血脈は意外な形で継承されました。

『多聞院日記』等の周辺情報によれば、左近の娘の一人は、徳川家の兵法指南役となる柳生兵庫助利厳(柳生宗矩の甥)の側室となりました。
二人の間に生まれた柳生連也斎厳包は、尾張柳生家の天才剣士として名を馳せることになります。

また、左近の娘の子と伝えられる島道悦忠次は、江戸時代初期に治水家として活躍し、中津川(淀川水系)の治水事業に多大な功績を残しました。
大阪の教興寺には彼の墓とともに「島左近之墓」と刻まれた供養塔が存在します。

これは武勇一辺倒ではなく、算術や土木に通じた左近の実務的能力が、形を変えて子孫に受け継がれたことを示唆しています。

おわりに

島左近清興。
その名は「三成に過ぎたるもの」という落首とともに、関ヶ原の敗者として歴史に刻まれています。

しかし、確実な史料から浮かび上がる彼の姿は、単なる「忠義の武士」という枠に収まるものではありません。
在地領主として生まれ、筒井家で重臣となり、主君に見切りをつけて浪人となり、自身の価値を最大化できる新たな雇用主を選び取る。
そして石田三成という、極めて優秀だが軍事的正当性を欠くテクノクラートに対し、「武名のブランド」と「実戦指揮能力」を提供しました。

天正18年の外交使節としての活動、年貢収納などの内政実務、そして関ヶ原での前衛指揮官としての役割。
これらの断片的な史料は、左近が単なる武人ではなく、高度な政治・行政能力を併せ持つ「軍事エグゼクティブ」であったことを物語っています。

杭瀬川での勝利は、劣勢の西軍に束の間の希望をもたらしました。
関ヶ原本戦での奮闘は、最後まで西軍の前衛を支えました。
そして「行方不知」という記録は、彼の最期を永遠の謎としました。

検証可能な史実の断片においては「敗軍の将」に過ぎません。
しかし、その断片を繋ぎ合わせ、当時の文脈に照らして解釈することで、激動の時代を戦略的かつ情熱的に生き抜いた、稀代の智将の姿が浮かび上がるのです。

史実と伝説の狭間で、島左近は今も私たちに問いかけています。
「真実とは何か」「英雄とは何か」と。

参考文献

一次史料

  • 春日大社奉納灯籠銘文(1577年)

  • 『多聞院日記』興福寺多聞院僧侶(1478-1618年)国立国会図書館蔵

  • 順慶陽舜房法印葬送次第目録(1584年)大和郡山市関連史料

  • 石田三成書状(東義久宛、1590年5月25日)秋田藩家蔵文書

  • 島左近自筆書状2通(1590年7月)東京大学史料編纂所(2016年発見)

  • 石田三成判物(1596-1598年頃)2008年発見

  • 『慶長年中卜斎記』板坂卜斎(1644年以前)国立公文書館

二次史料

  • 『常山紀談』湯浅常山(1770年完成)国立国会図書館デジタルコレクション

  • 『関原軍記大成』宮川忍斎(1713年)

  • 『古今武家盛衰記』(1751-1764年頃)

  • 『名将言行録』

  • 『武功雑記』松浦鎮信(1696年頃)

研究書・論文

  • 花ヶ前盛明『島左近のすべて』新人物往来社(2001年)

  • 東京大学史料編纂所研究報告(2016年)

その他

  • 平群町観光協会公式サイト

  • 滋賀県公式サイト「石田三成の人物紹介」

  • 岐阜県観光公式サイト「杭瀬川古戦場」

  • 京都市内史跡案内(立本寺関連)

  • 大阪市淀川区観光案内

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