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第一三共エンハーツがHER2陽性早期乳がん地図を塗り替える


本記事は公開情報に基づく個人的な整理であり、投資推奨ではありません。


2026年5月、FDAは第一三共・アストラゼネカのエンハーツ(一般名:トラスツズマブ デルクステカン)に対し、HER2陽性早期乳がんで2つの新適応を同時に承認した。

これは、エンハーツがHER2陽性早期乳がんの中でも、術前療法の一部、および術前治療後に残存病変がある患者への術後補助療法という、治癒を目指す重要な治療領域に踏み込んだことを意味する。

ロシュは1998年のハーセプチン発売以来、HER2陽性乳がん市場をリードしてきた。日本では中外製薬を傘下に持ち、ハーセプチン、パージェタ、カドサイラ、フェスゴというHER2フランチャイズで強固な地位を築いてきた。

そこに、第一三共が自社創製のADC(抗体薬物複合体)であるエンハーツで適応拡大を続けている。

特に今回のHER2陽性早期乳がんでの適応はかなり大きな意味を持つ。

この記事では、なぜ今回の承認が重要か、エンハーツがどのマスを取り、ロシュとどう戦ってきたかを見ていきたい。

また、第一三共の概要をお知りになりたい方は、過去記事をご参照ください。


第1部 今回の主戦場は「HER2陽性乳がん」

乳がんにはいくつかのタイプがある。

その分類でよく使われるのが、がん細胞の表面にある「受容体」である。
受容体とは、がん細胞が外からのシグナルを受け取るアンテナのようなものだ。

乳がんで特に重要なのは、次の3つの受容体である。

  • ER:エストロゲン受容体

  • PR:プロゲステロン受容体

  • HER2:増殖シグナルに関わる受容体

ERとPRはまとめて、HR(ホルモン受容体)と呼ばれる。

乳がんは、このHRとHER2が陽性か陰性かによって、大きくタイプ分けされる。
たとえば、HR陽性/HER2陰性、HER2陽性、トリプルネガティブ(TNBC)などである。

今回の主役は、このうち HER2が陽性の乳がん である。

HER2陽性とは、がん細胞の表面に、増殖シグナルを受け取るHER2というアンテナが多く出ている状態である。

HER2陽性乳がんは、乳がん全体の15〜20%程度とされる。
乳がん全体で見れば一部のセグメントだが、抗HER2療法という専用の治療薬が発展してきた重要な市場である。

ハーセプチン、パージェタ、カドサイラ、フェスゴ、そしてエンハーツ。
これらはすべて、HER2陽性乳がんを中心に使われてきた薬である。


第2部 HER2陽性乳がんの中にも「マス」がある

HER2陽性乳がんと一口に言っても、すべてが同じ市場ではない。

大きく分けると、治療ステージによって次のように分かれる。

HER2陽性乳がん

早期乳がん
└─ 手術で取りきることを目指す段階
術前療法・術後補助療法で再発を防ぐ

再発・転移性乳がん
└─ 他の臓器に転移している段階
1次治療 → 2次治療 → 3次治療以降

商業的に大きいのは、早期乳がんと転移性1次治療である。

早期乳がんは患者数が多い。
治癒を目指す段階なので、再発予防に使われる薬のインパクトも大きい。

転移性1次治療は、転移後に最初に使われる治療である。
ここで標準治療になれば、多くの患者に使われる可能性がある。

一方、2次治療や3次治療以降は患者数が少なくなる。
ただし、既存治療でうまくいかなかった患者が対象になるため、新薬が最初に入りやすい領域でもある。

だから新薬は、まず後方ラインで実績を作り、そこから前のラインへ上がっていくことが多い。

エンハーツの拡大ルートは、まさにこの典型例である。

エンハーツは、2019年にHER2陽性転移性乳がんの後方ラインで初承認され、その後、2次治療、1次治療、早期乳がんへと適応を広げてきた。

HER2陽性乳がんにおけるエンハーツの拡大ルート

2019年 転移性3次治療以降

2022年 転移性2次治療

2025年 転移性1次治療:エンハーツ+パージェタ

2026年 早期乳がん:術前療法の一部、術後補助療法の一部

第一三共は、HER2陽性乳がんという一つの領域の中で、治療マスを後ろから前へ、そして早期へと順番に押さえてきた ことになる。


第3部 エンハーツは、どの競合製品を置き換えてきたのか

2019年:まず後方ラインで承認を取る

エンハーツは2019年、HER2陽性転移性乳がんの後方ラインで米国承認を取得した。

これは、すでに複数の治療を受けた患者が対象である。
患者数としては大きなマスではないが、治療選択肢が限られるため、新薬が入りやすい領域でもある。

ここでエンハーツは、まず「HER2陽性乳がんで効くADC」としての足場を作った。

2022年:カドサイラのいた2次治療マスを取る

次の大きな転換点が、HER2陽性転移性乳がんの2次治療である。

ここでの競合は、ロシュの カドサイラ だった。

カドサイラもエンハーツと同じADCであり、HER2陽性乳がんにおける重要な薬だった。
しかし、DESTINY-Breast03試験で、エンハーツはカドサイラに対して進行・死亡リスクを大きく低下させる結果を示した。

この結果を受けて、エンハーツは2022年に米国でHER2陽性転移性乳がんの2次治療として承認された。

つまりこのマスでは、エンハーツがカドサイラを置き換える構図 が明確になった。

2025年:1次治療でTHP療法に挑む

次に狙ったのが、転移性1次治療である。

ここは、ロシュのHER2フランチャイズが長く強さを持ってきた領域だった。
標準療法は、ハーセプチン+パージェタ+タキサン、いわゆるTHP療法である。

第一三共はDESTINY-Breast09試験で、エンハーツ+パージェタをTHP療法と比較した。

結果は、エンハーツ+パージェタがTHP療法に対し、進行・死亡リスクを44%低下させるというものだった。

これを受けて、米国では2025年12月、エンハーツ+パージェタがHER2陽性の切除不能または転移性乳がんの1次治療として承認された。

ここで興味深いのは、エンハーツがロシュ製品をすべて置き換えるわけではない点である。

1次治療では、エンハーツはパージェタと併用される。
パージェタは、エンハーツと役割が完全に重なる薬ではない。
エンハーツはHER2を目印に抗がん剤を届けるADCであり、パージェタはHER2の増殖シグナルを抑える抗体薬であるため、1次治療では併用薬として残った。

このあたりが、単純な「第一三共 vs ロシュ」では読めない面白さである。

2026年:早期乳がんで、再びカドサイラに挑む

そして今回のニュースである。

2026年5月、FDAはエンハーツをHER2陽性早期乳がんで2つの適応に承認した。

1つ目:手術の前に使う場面(術前療法)
対象は、ある程度進行したHER2陽性の早期乳がん患者である。
ここでは、手術前にエンハーツを使い、その後にTHP療法を行ってから手術する。
目的は、手術前にがんをできるだけ小さくし、手術で取り出した組織にがん細胞が残っていない状態、つまり病理学的完全奏効を目指すことにある。
従来のアンスラサイクリン系化学療法を含む術前治療の一部に、エンハーツを組み込む選択肢が出てきたと見る方が近い。

2つ目:手術の後に使う場面(術後補助療法)
対象は、手術前に治療を行ったが、手術で取り出したがん組織にまだがん細胞が残っていた患者である。再発リスクが高いため、追加の治療が必要になる。
この2つ目の場面は、エンハーツがカドサイラに対して再発・死亡リスクを53%低下させた。

つまりエンハーツは、転移性2次治療に続き、早期乳がんの術後補助療法でも カドサイラからの置き換えが進む可能性 を高めたことになる。


第4部 なぜ早期乳がんへの進出が大きいのか

乳がんは多くが転移前の段階で見つかるため、HER2陽性乳がんでも早期マスは大きい。
一方、初診時から転移性として見つかる患者は限られる。

転移性乳がんの後方ラインは、治療ニーズが高く、新薬が入りやすい。
しかし、患者数は限られる。

一方、早期乳がんは、より多くの患者が対象になりうる。
ここで標準治療に入ると、売上へのインパクトは大きい。

ただし、早期で使われるようになると、別の論点も出てくる。

たとえば、早期でエンハーツを使った患者が再発した場合、再発後にもう一度エンハーツを使えるのか。
あるいは、早期での使用が広がることで、転移性での使用機会が一部減るのか。

このようなカニバリゼーションの論点はある。
それでも、早期マスの大きさを考えると、全体としては売上拡大に効くと考えられる。


第5部 ロシュにとって何が問題なのか

ロシュは、HER2陽性乳がんの長年の王者だった。

ハーセプチンで市場を作り、パージェタで1次治療を強化し、カドサイラで後方ラインや術後補助療法を押さえ、フェスゴで投与利便性を高めてきた。

ただし、ハーセプチンは特許切れ後、バイオシミラーとの競争にさらされ、かつてのような収益源ではなくなっていた。

つまりロシュのHER2+の収益基盤は特許製品3本(パージェタ、カドサイラとフェスゴ)に集約されていた。
そこに、第一三共のエンハーツが入ってきた。

2次治療では、カドサイラを置き換えた。
1次治療では、従来のTHP療法に対し、エンハーツ+パージェタという新しい選択肢が入ってきた。
早期乳がんでは、再びカドサイラからの置き換えが見えてきた。

ただし、ロシュのHER2フランチャイズが一気に消えるわけではない。

パージェタ、フェスゴは引き続き重要である。

一方で、パージェタはエンハーツとの併用でも使われる余地があり、フェスゴは、パージェタ+ハーセプチンを皮下注で投与できる製品であり、早期乳がんや転移性1次治療で、従来の抗HER2抗体治療の利便性を支える役割として残る。

その意味では、ロシュ製品の一部は置き換えられ、一部はエンハーツ時代にも残っていく。


第6部 第一三共のリスク

第一三共の強さは、エンハーツという1つの薬で、HER2陽性乳がんの複数マスを取りに行ける点にある。

一方で、リスクもある。

第一三共にとって、エンハーツへの依存度は高い。
売上の多くを1つの薬に頼る構造になるほど、その薬の安全性、競合、特許、製造、価格の影響は大きくなる。

また、HER2-ADCの競争はこれで終わりではない。

BioNTech/Duality Biologicsの次世代HER2-ADCや、中国勢のHER2-ADCなど、次の競合も出てきている。
これらの中に、エンハーツ既存治療患者を対象とした試験を組んでいるものもあり、エンハーツ耐性後のマスを狙っている可能性もある。
医薬品業界では、先行者が永遠に勝ち続けるとは限らない。


おわりに

今回のエンハーツ早期乳がん承認は、単なる適応追加ではない。

第一三共が、HER2陽性乳がんという市場の中で、治療マスを後ろから前へ、そして早期へと順番に押さえてきた流れの一部である。
エンハーツの成長は単なる売上拡大ではなく、HER2陽性乳がんの治療地図を塗り替えていくプロセスそのものだとわかる。

一方で、ロシュもすべてを失うわけではない。
パージェタのようにエンハーツと併用される薬もあり、フェスゴのように利便性で役割を持つ薬もある。

つまりこれは、単純な「第一三共が勝ち、ロシュが負ける」という話ではない。

HER2陽性乳がんという大きな市場の中で、どのマスを誰が取り、どの薬が残り、どの薬が置き換えられるのか。
そこを読むことが、今回のニュースを理解するうえで一番大事なポイントだと思う。

また、第一三共のADC戦略はエンハーツだけではない。

2026年5月には、Datrowayが米国で、PD-1/PD-L1阻害薬の候補にならない切除不能または転移性トリプルネガティブ乳がん患者の初回治療としてFDA承認された。
エンハーツがHER2陽性乳がんの治療地図を塗り替えてきたように、Datrowayも別の乳がん領域でADCの存在感を広げ始めている。

さらに乳がんの中でも、HER2が強く出ている「HER2陽性」だけでなく、HER2低発現(HER2-low)や超低発現(HER2-ultralow)にも対象を広げてきた。
エンハーツ自体も、乳がん以外では胃がん、肺がん、HER2陽性固形がんなどへ適応を広げている。

ただし、今回のニュースを読むうえでの中核は、HER2陽性乳がんの主要マスをどこまで押さえられるかにある。
そのうえで、DatrowayやHER2-low、他がん種への展開は、第一三共のADC戦略全体の成長余地を広げる論点として見ておきたい。

引き続き、HER2-ADC市場、そして第一三共のADCポートフォリオの動きを追っていきたい。


なお、「新薬はどう生まれ、どう承認され、どう売られるのか」を体系的に解説する業界解説シリーズを現在連載中。合わせてご確認ください。


参考資料

  • FDA, “FDA approves two separate indications for fam-trastuzumab deruxtecan-nxki in HER2-positive early-stage breast cancer,” May 15, 2026.

  • FDA, “FDA approves fam-trastuzumab deruxtecan-nxki with pertuzumab for unresectable or metastatic HER2-positive breast cancer,” December 15, 2025.

  • FDA, “FDA grants regular approval to fam-trastuzumab deruxtecan-nxki for breast cancer,” May 4, 2022.

  • FDA, “FDA grants accelerated approval to fam-trastuzumab deruxtecan-nxki for unresectable or metastatic HER2-positive solid tumors,” April 5, 2024.

  • 第一三共, “FY2025 Financial Results and 5-Year Business Plan Presentation & Discussion (FY2026-FY2030),” May 2026.

  • Daiichi Sankyo / AstraZeneca, ENHERTU関連プレスリリース・決算説明資料.

  • Roche / Genentech, HER2 franchise関連資料.

  • ClinicalTrials.gov, DESTINY-Breast03, DESTINY-Breast05, DESTINY-Breast09, DESTINY-Breast11.

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