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第9回 クラシック音楽に深入りした後の留意点(前編)

※本記事は連載で、全体の目次はこちら(第0回)になります。第1回から読む方はこちらです。

 クラシック音楽の数々の名演奏に出会い、その魅力の虜になったあとに留意すべき点をいくつか紹介したいと思います。

どうしても良さがわからない楽曲があるときは

 クラシック音楽に夢中になって、様々な作曲家に手を拡げてみると、何度聴いてみても、どこがいいのか、なにがしたいのかピンとこない曲に出会うことでしょう。そういう曲があったら無理して理解しなくても良いと思います。
 ただ、…わかります。自分が好きになった指揮者や演奏家、評論家がその楽曲のことがすごく好きみたいなので、できれば愉しめるようになりたいということですよね。
 そもそもクラシック音楽には、ある程度聴き慣れないと良さがわからないものが結構あります。それがある日、何かのきっかけで急にわかるようになる、愉しめるようになることを「開眼する」といいます。急にというほどではないものの、聴いているうちに好きな箇所が徐々に増えていくものもあります。私もブルックナー、マーラー、ドビュッシー、ショスタコーヴィチなどを理解するのに苦労しましたが、今ではすっかり開眼できて愉しめるようになりました。ここでは私の経験などを踏まえ、開眼するコツをご紹介したいと思います。開眼するコツとしては、次の3つのものがあると考えています。
 
①    演奏を変えて聴いてみる。
②    愉しめる曲を見つけて親しむ。
③    気分(モード)を変えて聴いてみる。

 
 これらのコツを何人かの作曲家を例にして紹介していきましょう。
 最初は、現代のクラシック音楽界で高い人気を誇るブルックナーについて紹介しますが、はっきりいってこの作曲家の交響曲を初めて聴いてみてすぐに良さがわかる日本人はほとんどいないのではないかと考えてます。というのも、音楽を聴くプロ中のプロともいえる日本を代表するような二人の音楽評論家が口を揃えて、ブルックナーが理解できなかったと回想しているのです。
 一人目は、日本における音楽評論を確立した吉田秀和です。この方は書籍のなかで、ブルックナーの《交響曲第7番》(クナッパーツブッシュ指揮、ウィーン・フィル演奏)を聴いたときのことについて次のように書いています。

ところが私は、その演奏を聴きながら、ぐうぐう眠ってしまった。(中略)要するに、私には何にもわからなかったのだ。

『吉田秀和作曲家論集〈1〉ブルックナー、マーラー』92ページ

 その後、彼はブルックナーを理解し、好んで聴くようになったうえで、次のように振り返っています。

ブルックナーを聴くには忍耐がいる。(中略)はじめっから好きなものだけが、本当にその人の好きなものとは限らない。

前掲書93ページ

 二人目は、現代においてクラシック音楽や現代音楽、日本人作曲家について総合的に論じることにかけては右に出る人がいない(と私が個人的に思っている)片山杜秀教授です。この方も書籍のなかで「そのころ、高校生だった私には、ブルックナーは現代音楽より難解だった」(音盤考現学202ページ)と回想されていて、ギュンター・ヴァントとNHK交響楽団によるブルックナーの《交響曲第5番》の演奏を聴いてようやく開眼できたと語っています(現代音楽については、次の節でご説明しますが、クラシック音楽よりもさらにとっつきにくい音楽です)。この場合は先ほどお話しした「①演奏を変えて聴いてみる」ことで開眼できた例だということになります。
 日本人だけでなく、本場のヨーロッパでもブルックナーは当初受け入れられませんでした。例えば、《交響曲第2番》の初演を行う予定だったウィーン・フィルは、リハーサル途中で露骨にいやがり、初演を中止しています。《交響曲第3番》にいたっては当初、初演を拒絶されていました。
 かくいう私もブルックナーの交響曲を初めて聴いてみたときの印象は「金管楽器の音がやかましく美しいとは思わない。ウィーン・フィルが初演を拒否したのも頷ける」というものでした。ですが、クラシック音楽ファンの間でも結構人気があることから、もう少し聴き込んでみたところ、交響曲のうちスケルツォ楽章がリズミカルで親しみやすく、当時好きだった映画『マトリックス・レヴォリューション』の最終決戦のときに流れる劇中曲《Neodammerung》になんとなく雰囲気が似ててかっこええなぁと思えるようになりました。それ以来、スケルツォ楽章だけを繰り返し聴いて楽しんでいたところ、いつの間にか他の楽章の良さもわかるようになってきたのです。こちらは先ほどお話した「②愉しめる曲を見つけて親しむ」ことで開眼できた例に相当するでしょう。
 
 お次は、現代のクラシック音楽界で最も人気がある作曲家の一人、マーラーです。この人の交響曲も理解するのが難しいものが多く、例えばマーラーの《交響曲第1番》の初演の際には、当時の聴衆の耳にはかなり前衛的なものだったこともあって大失敗に終わりました。また、マーラーが自作の交響詩《葬礼》(のちに交響曲第2番第1楽章になる曲)を、ベルリン・フィルの首席指揮者だったハンス・フォン・ビューローにピアノで弾いてみせたところ、ビューローは両手で耳を押さえて拒否反応を示したうえで、「これが音楽だとしたら、私は音楽がわからないことになる」と述べたという逸話も残されています。
 私もマーラーの交響曲のうち9番を最初に聴いてみたのですが、正直単なる「どんちゃん騒ぎ」にしか聴こえなかったことを覚えています。その後、1番と4番が親しみやすいということを知って、この2つの交響曲に親しんでいたところ、ベートーヴェンなどの交響曲と比べてオーケストラが随分と複雑なことをしているように思えてきたのです。「もしかして、マーラーって思ってた以上に奥が深くて凄いのでは」と思うようになってきて、他の交響曲も積極的に聴くようになってからは、人生に無くてはならないものになりました(というより、マーラーの曲は音が豊富で、一度このような音世界に慣れてしまうとベートーヴェンの交響曲などが若干物足りなくなるほどです)。これも先ほどお話した「②愉しめる曲を見つけて親しむ」ことで他の曲も愉しめるようになった例に相当するでしょう。
 
 次に、「③気分(モード)を変えて聴いてみる」の例を二つ紹介します。
 最初はフランスの作曲家、ドビュッシーです。構成のがっちりしたドイツのクラシック音楽と比べて、フランスのものは軽快で浮遊感のあるものが多く、私からすると何となくとっつきにくいという印象がありました。なかでもドビュッシーはその傾向が強く、曲の掴みどころがよくわからなかったのです。
 そんなある日、うたたね気分でまどろみながらドビュッシーを聴いてみたところ、その時の気分とぴったりマッチすることに気がつきました。つまり、心境が違うときに聴くことで開眼できるようになったということです。専門的な用語を使って言えば、うたたね気分のような副交感神経優位なモードのときにドビュッシーがハマるということでしょう。
 
 最後はロシアの作曲家、ショスタコーヴィチです。彼の交響曲は5番がメロディアスでポピュラーなのですが、それ以外の交響曲は長いことどこがいいのか掴めませんでした。その理由を簡単にまとめると次のとおりです。

  • ほとんどリズムを刻んでいるだけのようなフレーズが延々と続くことが多い。

  • 前記と関係するが、魅力的なメロディーがあまりない(むしろ調子外れのようなメロディーが多い)。

  • マーラーやホルスト、メシアンと比べるとオーケストラの音が多彩でなく、モノトーン(白黒)のよう。ショスタコーヴィチの《交響曲第7番》なんて、二つのオーケストラが合同にならないと演奏できないくらい大編成なのに、この程度の音世界しか作れないのか。伊福部昭が作曲した《土俗的三連画》なんか、室内楽のような小編成で多彩な音色を実現できているというのに。

  • 《交響曲第10番》で、自分の名前のイニシャル(DSCH)をモチーフにしているという話を聞いて「なんか音楽でくだらないダジャレみたいなことをしているなぁ」という印象があった。

 そもそもショスタコーヴィチは、ロシア語圏以外の指揮者はあまり取り上げていないので、交響曲第5番以外は無理して理解しようとしなくてもいいかも、と当初は考えていました。ところが、ショスタコーヴィチが好きな人(宇野功芳、井上道義氏など)はむしろ5番を評価しておらず、それ以外の交響曲、特に4番や8番、15番が傑作だ、と言ってたりするので、余計にわけがわかりません。
そんなとき、私が仕事に忙殺される時期が到来し、心がすっかりすさむようになってきました。そのようなストレスがかかった状態の心にショスタコーヴィチの音楽がしみることに気がついたのです。それを機会に、5番以外も積極的に聴くようになったところ、リズムがおもしろいフレーズが多いということに気がつくようになりました。つまり、ショスタコーヴィチはペシミズムな気分(モード)に寄り添ってくれる音楽だと言えるかもしれません。
 実際に、心の病(双極性障害)を抱え、精神疾患をもつ母との葛藤を背負ったBBCの音楽番組プロデューサーであるスティーブン・ジョンソンが、ショスタコーヴィチの特番製作の過程で回復していったという実体験を本にまとめています。『音楽は絶望に寄り添う ショスタコーヴィチはなぜ人の心を救うのか(河出書房新社)』という書籍で、ショスタコーヴィチの音楽に孤独に沈む人を癒し回復へと導く力があると説いています。


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