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第10回 クラシック音楽に深入りした後の留意点(後編)

※本記事は連載で、全体の目次はこちら(第0回)になります。第1回から読む方はこちらです。

現代音楽ってなに?

 これまでにご紹介した「開眼するコツ」を駆使しても、理解することが困難なものが多いのが現代音楽です。現代音楽とは、クラシック音楽の流れを受けた前衛的な音楽のことで、年代的にはシェーンベルクという作曲家が調性音楽を脱し無調に入ったあたり(1910年頃)を現代音楽の始まりと捉えることが多いです。CDショップや図書館では、「現代曲」「コンテンポラリー」として分類されていることもあります。
 現代音楽というのは、ざっくり言うと次のようなことも音楽上の制限だと考えて「このような制限を守る意味はあるのか」といった問いかけを行うものです。

  • わかりやすいメロディーやハーモニー、リズムを基本としなければならない。

  • 調性感は守らなければならないし、不協和音も極力使ってはいけない。

  • 楽器の音(楽音)だけを素材としなければならない。

  • 奏者はその場所から動いてはならない。

  • 音楽をどのように演奏するかはあらかじめ決まっていなければならない等々。

 現代音楽は、このように様々な可能性を試して拡大していきます。ただ、このような試みを進めていくと、聴衆はどんどん離れていきました。彼らが音楽上の制限だと思っていたものは、実は人が音楽を愉しむうえで重要な要素だったのです。結果的に、現代音楽は聴衆のために作られたものではなく、純粋に音楽の新たな試みを追求した音楽となり、聴く人も少なくなっていきました。私は、現代音楽を聴いていると、巨大になりすぎて絶滅した恐竜を思い出してしまいます。
 ただし、現代音楽がみんなわかりにくいというわけではありません。例えば、現代音楽のうち原始主義・民族主義(伊福部昭、カール・オルフ、ストラヴィンスキー、バルトーク、ファリャ、清瀬保二など)や新古典主義(伊福部昭、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、コープランド、オネゲルなど)とされるものは音楽の三大要素がそれほど逸脱していないため、わかりやすいものが多いです。これらの作曲家が影響を受けた人、与えた人をたどっていくと愉しみやすい作品に巡り合うことができるでしょう。

自分の耳や感性を大事にすること

 クラシック音楽を愉しむうえで重要なことは「自分の耳や感性を大事にすること」だと私は考えています。具体的には、評論家や音楽雑誌の評価に流されずに、自分がどう思ったかを大事にすること、自分の耳で確かめることが重要だということです。このような習慣を付けていると、本に書かれていることの間違いに気づけるようになったり、「もっと評価されるべき」と思える作曲家や演奏家、楽曲ができてきたりするなど、クラシック音楽に対する自分なりの考えが形成されるようになるでしょう(ちなみに私が「もっと評価されるべき」と考えている作曲家は伊福部昭、和田薫、指揮者は藤岡幸夫、バッティストーニです)。
 
 自分がどう思ったかを大事にすること、自分の耳で確かめることに関連して、私のリマスタリングに関わるエピソードをご紹介したいと思います。
 ムック『新時代の名曲名盤500+100 “いま”を反映する必聴ディスクはこれだ!』などを見ながらCDを買っていったときに「この演奏って評価が高いけど、実際に聴いてみるとイマイチなんだよな」と思うことが時折あったのです。よくよく、そのCDの情報(CD番号やメーカー)を確認してみると、自分が聴いたものと同じ演奏の音源なのですが、リマスタリングが違っていて音作りがかなり異なったものだったということがありました。具体的には、タワーレコードやESOTERIC、ビクターが最新のリマスタリング技術を採用したCDやSACDを出しているにも関わらず、それとは別のものを買って聴いていたということがあったのです。
 また、デノンという会社はUHQCDという高品質CDで過去の名盤をリリースすることがあるのですが、多くの場合リマスタリングをやり直しています。私は最初、「最新のリマスタリングの方が、音がいいに決まっている」と思い込んでいましたが、UHQCDのリマスタリングよりも、当初リリースされたCDのリマスタリングの音作りの方が好きだということに気がついて、これまで揃えてきたCDを見直した、ということもありました。このように自分の耳を信じて違和感を大事にすると、本当に満足できる演奏に出会うことができるようになるでしょう。
 
 「自分の感性を大事にすること」については、クラシック音楽の世界で正統とされている価値観に反することであっても大事にする必要があると考えています。アンドレ・ジイドというフランスの文豪の名言を引いてみましょう。

定評のあるもの、または、既に吟味され尽くしたものより外、美を認めようとしない人を、私は軽蔑する。

 言い換えれば、クラシック音楽の世界で正統とされている価値観や美学のような「定評のあるもの、または、既に吟味され尽くしたもの」以外の美にも心を開いておくことが大事だということです。例えば、クラシック音楽の世界では、演奏家は原則としてきれいな音を出して、アンサンブルも整っていることを要求されます。ですが、歪んだ音やかすれた音の方が味があると思えるときもあると思います。具体的には、苦悩や絶望、狂気などを表現している場面については、きれいで整ったアンサンブルよりも、苦しそうな音色や不揃いのアンサンブルで演奏する方が説得力がある場合もあるのではないでしょうか。上手な演奏でなかったり、録音状態が良くなかったりするもののなかに、逆に心を打つ引き込まれるような演奏があるのは、このためだと思います。
 
 かくいう私もクラシック音楽の価値観に反する感性を持っています。クラシック音楽はマイクのような拡声技術が無かった時代に作られたために、歌うときには無理やり張り上げたような裏声(ベルカント)を出します。実は、私は正直、このような歌い方よりも自然に歌ったときの声の方が美しいと思うのです。それにこのように自然に歌うポップスやロック、アニソン、演歌のほうが歌の技法や歌唱法が多彩であるような気もしています。具体的には、地声と裏声の混合、ウィスパーボイス、デス声、しゃがれ声、ハスキー声、だみ声、こぶし、気だるく力が抜けた声、甘ったるい声、エッジボイス、ブレス(息継ぎ)表現などの多彩な表現がこれらの音楽で見られます(現代音楽まで含めれば、クラシック音楽にも多彩な声表現があると思いますが、前衛的な目的でつくられたものが多いので、ここでは考慮に入れていません)。
 さらに、前にもお話しましたが、ベルカント発声は裏声なので、地声の持つ個性を平滑化し、声質を均質にする傾向があると思います。そのような発声法はハーモニーを形作るのには向いているかもしれませんが、やはりそれぞれの歌手が持っている個性も薄まってしまうと思います。
 もっと言うと、私はオペラのような歌い方よりも民族音楽的な発声の方が美しいとも感じています。具体的には、ブルガリアン・ヴォイスや日本民謡などの声質がとても好きなのですが、たとえばブルガリアン・ヴォイスではTVゲーム『ゼノギアス』の劇中歌《最先と最後》を、日本民謡ではアニメ映画『イノセンス』の劇中歌《傀儡謡 新世に神集ひて》を聴いていただければ、その得もいわれぬ神秘的な声の魅力に触れることができます。
 
 私と同じような感性を持っている人が他にもたくさんいらっしゃるのであれば、それは今後のクラシック音楽の作曲(厳密には現代音楽ということになると思いますが)に新たな方向性を示すことになると思います。というのも自然に歌ったときの歌声や民族音楽的な発声、電子楽器(エレキギターやシンセサイザーなど)、ドラムセット、人間以外の生き物が発する音とオーケストラの組み合わせについては、まだまだ可能性が洗われていないと考えているからです。今後このような編成の優れた楽曲が新しく作られ、その中から古典となる傑作が生まれることを期待しています。

どの演奏がオールタイム・ベストかという論争

 クラシック音楽の世界にいると人それぞれどの演奏を良いと感じるかで意見が分かれることがよくあります。一体、誰の評価が正しいのでしょうか。
 よくある考え方として、楽譜通りに演奏しているものが正しく良い演奏であるというものがあります。ですが、いろいろな演奏を聴いていると楽譜にないような演奏をしている方が説得力があると感じることが多々あります。例えば、楽譜にないアクセントを付けたり、クレッシェンド(音をどんどん大きくすること)をかけてみたり、テンポを大胆に変えてみたりすることなどです。また、現代の楽器やビブラートをかける習慣がなかった時代の曲に対して現代的な演奏をした方が説得力があるときもあります。他にも、ベートーヴェンの楽曲にはテンポ指定があったりするのですが、大半の演奏がこれを全く無視しています。
 それに、楽譜自体に手を加えることもよくあります。マーラーはベートーヴェンの交響曲を編曲していますし、シューマンの交響曲もマーラーやセル、稲垣宏樹氏によって手を加えられています。このような編曲について作曲家がどう思うかについては、もはや聞いてみることはできませんが、ラフマニノフについては実際にそのようなやりとりがありました。彼のピアノ協奏曲をホロヴィッツというピアニストに弾いてもらったところ、ピアノ協奏曲で自由に演奏してもよいパート(カデンツァ)について、ラフマニノフから「あなたが演奏したカデンツァは私が作曲したものよりも良かった」という趣旨のことを言われているのです。
 そもそも、20世紀後半以前は、指揮者が原曲にいろいろな味付けを施して演奏するのが常識でした。例えば、カラヤンなどがベートーヴェンの交響曲第9番《合唱》の第2楽章で第2主題をホルンで吹かせたりしており、それが指揮者の「解釈」として認められていました。
 これらのことからもわかるように楽譜や作曲家をあまり神格化せずに、楽譜に手を加えることも含めて柔軟に考えることができると考えています。
 
 どの演奏を良いと感じるかについては美学や形而上学の話なので、答えるのが難しく人によって意見が割れるのは当然でしょう。先ほどの「歪んだ音やかすれた音、きれいに揃っていないアンサンブルの方が説得力がある場合もある」という話も私個人の意見ですので、人によって十人十色です。様々な演奏を聴いてみて評論家の評価も参考にしつつ、どの演奏がオールタイム・ベストなのかをあれこれ考えてみること、それはクラシック音楽の大きな醍醐味のひとつでもあります。

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