【遠回りの人生】遠回りこそが、僕の最短距離だったのかもしれない
「もし、あのとき別の道を選んでいたら…」そう思ったことはありませんか? 私も長いあいだ後悔と共に生きてきました。けれど今では、遠回りがあったからこそ辿り着けたものがあると気づきます。これはそんな人生の記録です。
はじめに
後悔、という言葉がある。 「もし、あの時ああしていれば」。人生の黄昏時に差し掛かった人間ならば、誰しも一度ならず、この問いに心を苛まれたことがあるだろう。
僕もまた、その一人だ。 あんなことに時間を浪費しなければ、もっと早くこの道に進んでいれば。ノーベル賞とは言わないまでも、歴史に名を残すほどの学者にだってなれたかもしれない。そんな傲慢な考えが、ふと心をよぎっては、今の自分をちっぽけなものに感じさせる。
だが、最近、こうも思うのだ。 人生における「無駄な時間」とは、本当に存在するのだろうか。一見、寄り道や回り道に思えたその時間こそが、今の自分を形作る上で、絶対に欠かすことのできない、最も重要な道のりだったのではないか、と。
これは、僕という人間の「器」が、その形をゆっくりと変えながら、本当に注がれるべきものを見つけるまでの、長い長い旅の物語である。
図書館と柴犬のポチだけが友達だった少年時代
僕の少年時代は、孤独という二文字で要約できる。 運動はからきしダメで、お世辞にも活発とは言えない。友達の作り方も分からず、僕にとって唯一の話し相手は、本の中にいる偉人や英雄たちだった。
小学校から中学校にかけての僕の日常は、学校と、帰り道にある市立図書館と、家とを結ぶ、三角形の中で完結していた。図書館の少し埃っぽい匂い、静寂の中に響く紙をめくる音。あの空間だけが、僕が心から安らげる場所だった。
歴史の本が好きだった。過去の英雄たちの人生に、自分の孤独な心を重ねていたのかもしれない。その一方で、スウェーデンの作家アストリッド・リンドグレーンの『やかまし村』シリーズが描く、子どもたちの賑やかで温かい日常に、自分が決して手に入れられない眩しい光を見ていた。中学に上がると、石森延男さんの『コタンの口笛』や住井すゑさんの『橋のない川』などを夢中で読んだ。社会の片隅で、逆境に抗いながら、懸命に、そして誇り高く生きる人々の姿に、心を揺さぶられた。
僕の血肉は、あの頃に出会った物語たちで出来ている。それを、今でもはっきりと自覚している。
高校は、地域のトップクラスの進学校に進んだ。そこは、僕にとってさらに孤独を深める場所だった。一流大学を目指して猛然と勉強しながら、スポーツも恋愛も器用にこなす、輝かしい同級生たちの輪に、僕はどうしても溶け込めなかった。
放課後はやはり、図書館か、街の大きな書店が僕の居場所だった。立ち読みで何時間も過ごし、小遣いを貯めては一冊の本を買って、宝物のように抱えて家に帰る。
当時の家は、そんなに安らげる場所ではなかった。父が長い闘病生活の末に亡くなったのは、高校三年の夏だった。母は愛情深く、献身的な人だったが、余命幾ばくもない父のことを思うと、家族の心は沈んでいた。
重苦しい空気が支配する家の中で、僕の心を唯一温めてくれたのは、柴犬のポチだった。僕が学校から帰ると、ポチは全身で喜びを表現し、僕の足元にじゃれついてきた。彼の体の温もりだけが、僕の救いだった。
不思議なことに、あれほど僕に懐いていたポチは、僕が大学に合格し、親元を離れて下宿を始めた途端、まるで僕の新しい門出を見届けたかのように、ふっと姿を消すように死んでいった。僕の人生において、犬はいつも、孤独な魂に寄り添ってくれる、かけがえのないパートナーであり続けている。
歴史研究部に所属し、仲間と過ごした時間は、暗い高校生活の中の数少ない光だった。高二の夏、部活の旅行で巡った横手から平泉、そして仙台への二泊三日の旅は、今でも鮮明に思い出せる。まさか数十年後、自分が陸前高田の復興支援に関わり、平泉の近くの一関を何度も訪れることになるとは、当時は夢にも思わなかった。人生の不思議な縁というものを感じる。
歴史学者になりたい、という淡い夢は、いつしか経済学への強い興味に取って代わられていた。そして、経済学には数学が必要だ、という単純な発想で、僕は理系への進路変更を決めた。
松本での日々、そして恩師との出会い
ろくに受験勉強をしてこなかったツケは、見事に結果として表れた。受けた国立も私立も、ことごとく不合格。ちなみに、どうせ受かるはずがないと、早稲田の理工学部数学科は受験すらしなかった。まさか自分が、その早稲田の教壇に三十年間も立つことになるとは、人生とは分からないものだ。
浪人はしたくなかった。受験勉強というものに、心底うんざりしていたからだ。最後に受けた信州大学理学部数学科に合格が決まった時、高校の担任は「そんな地方大学に行くくらいなら浪人しろ」と諭したが、僕の心は決まっていた。
そして、信州・松本での生活が始まった。それは、僕の人生における、最初の、そして最大の「解放」の日々だった。生まれて初めて親元を離れ、しがらみから解き放たれた毎日の、あの輝かしいほどの幸福感を、僕は生涯忘れないだろう。
数学科は、学年の定員がわずか35人。僕たちは、四年間ずっと、クラスのみんなで濃密な時間を過ごした。冬はスキーをして、夏は北アルプスの山々に登り、互いの下宿を行き来しながら語り明かした夜は数え切れない。孤独だった僕は、そこで初めて、心から信頼できる仲間を得た。
研究室で出会った浅田先生は、僕の人生の恩師だ。優れた数学者でありながら、文学、経済学、歴史などへの造詣が恐ろしいほど深い、本物の知の巨人だった。先生のゼミで、後に僕の大学院での指導教官となる二階堂副包先生の『現代経済学の数学的方法』を読み、森嶋通夫さんの『マルクスの経済学』に感銘を受けた。先生の勧めで、超準解析という、新しい数の体系を構築するという常識を覆すような数学の世界にも触れた。
大学院で経済学を学ぶことを決意し、僕は大学に5年間在籍した。もし人生をやり直せるなら、僕は迷わず、あの松本での日々に帰りたいと願うだろう。高校時代には、金輪際戻りたくはないが。
ロチェスターから大学教員への道
一橋大学の大学院、そして指導教官の二階堂先生の勧めで渡米したロチェスター大学での日々は、僕を研究者として大きく成長させてくれた。後にノーベル賞を受賞するポール・ローマーを主指導教官に、ゲーム理論の大家ウィリアム・トムソンを副指導教官に持つという幸運にも恵まれた。
博士号を取得し、名古屋市立大学で教員としてのキャリアをスタートさせた。まだ三十代だったから、学生たちとの距離も近かった。ゼミの後には香嵐渓に紅葉を見に行ったりもした。あの活気あふれる日々は、今も大切な思い出だ。
そして1993年、早稲田大学に移った。思いの外に居心地の良い大学で、気づけば定年までの三十年という長い歳月を、そこで過ごすことになった。大蔵省(現財務省)への出向や、テキサスのライス大学での在外研究など、様々な経験もさせてもらった。
フィレンツェで受けた衝撃、そして人生における「器」の意味
僕の人生における第二の、そして精神的な意味では最大の転機が訪れたのは、そのライス大学にいた頃だ。何度か訪れたヨーロッパ、とりわけイタリアの、底知れないほどの歴史と芸術の深みに、僕は完全に打ちのめされた。
フィレンツェのウフィッツィ美術館。そして、サンマルコ美術館で見た、フラ・アンジェリコの「受胎告知」の、静謐で、それでいながら新しい時代への希望を感じさせるような世界。天使から懐妊を告げられるマリアの恥じらうような表情。ルネサンスという時代に「人間」が爆発的に開花した、その圧倒的なエネルギーの奔流に、僕はただ立ち尽くすしかなかった。
その頃から、塩野七生さんの著作を貪るように読んだ。彼女があるエッセイの中で、大学を出てすぐにイタリアに渡り、若き日にルネサンス芸術に触れて受けた衝撃について語っているのを読んだ時、僕は激しい羨望に襲われた。
僕が体験したのと同じ衝撃を、彼女は20代で体験していた。もし僕も、あの頃アメリカではなくフィレンツェに行っていたら、彼女のように、もっと早く、もっと意味のある人生を歩めたのではないか? 本当にやりたい学問を見つけられたのではないか? 経済的な制約でそれが叶わなかった自分の境遇と、若くしてそれを実現した彼女の環境を比べ、嫉妬に近い感情を覚えた。
だが、今は違う。 その考えが、いかに浅はかなものであったかに、僕は気づいたのだ。
人間には、それぞれ固有の「器」がある。そして、その器の形によって、受け入れられるものは自ずと決まってくる。20代の僕の器は、数理経済学という、硬質で、極めて論理的なものを受け入れる形にはなっていた。だが、ミケランジェロの感性や、マキャベリの冷徹な知性を受け止めるだけの、複雑で、懐の深い形には、まだなっていなかったのだ。
一方、20代の塩野さんには、それを受け止めることのできる器があった。それは、優劣の問題ではない。ただ、器の形が違った、というだけのことなのだ。
そして、器は、人生の経験と共に、その形をゆっくりと変えていく。僕の器もまた、研究や論文執筆、学生との対話、そして組織人としての経験という、様々な刺激を受けながら、少しずつ、少しずつ、形を変えていったのだろう。
五十歳を前にして、ようやく僕の器は、若き日の塩野さんの器と同じように、ルネサンスを受け止められるだけの形に、成熟したのだ。 そう考えると、「もし若い頃に…」という後悔は、意味をなさなくなる。全ての経験は、僕の器を形作るための、必要不可欠なプロセスだったのだ。


新たな航海の始まり
大学でのキャリア後半、僕は研究科長などの管理職を務める機会も得た。周囲は、僕を「世事に疎い研究者」と見ていたようだが、意外にも、組織の調整役や人の説得といった仕事は、うまくこなすことができた。それは、僕にとってある種の「面白いゲーム」のようでもあった。
だが、ある時、強烈な焦燥感に襲われた。 「こんなことに、自分の残り少ない貴重な時間を費やして、本当に良いのだろうか?」
それは、僕の心の叫びだった。僕は、早期退職を決意し、長年属した組織を離れて、再び一人で船出することを選んだ。
そして今、この歳になって、僕はようやく、自分が本当に生涯を賭けて探求したい学問の姿が見えてきた。それは、書斎に閉じこもって理論をこねくり回す「書斎の学問」ではない。組織や様々な場で、人間の喜びや悲しみ、愚かさや賢さを肌で感じてきた自分だからこそ語れる、血の通った知恵。それが醸し出す学問だ。
僕の人生は、遠回りだったのかもしれない。だが、その遠回りがあったからこそ、僕は今、ここにいる。孤独な少年時代に本から得た物語の力、松本で得た解放感と友情、研究者として培った厳格な論理、そして組織人として学んだ人間と現実の複雑さ。その全てが、今の僕の器を形作っている。
後悔が、完全に消えたわけではない。もっと若くしてこの道に気づいた友人を、羨ましくも、妬ましく思うこともある。
だが、僕には僕だけの航路があった。そして、僕の船は今、ようやく羅針盤を手に入れ、追い風を受け始めたところだ。この船が、これからどんな大陸に辿り着くのか。僕自身にも、まだ分からない。
しかし、一つだけ確かなことがある。 遠回りこそが、僕にとっての、唯一の最短距離だったのだ。この物語を、僕はこれから、ゆっくりと紡いでいきたいと思っている。
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