藤田嗣治
藤田嗣治(レオナール・フジタ)といえば?
おかっぱ頭と丸眼鏡にちょび髭?
それとも、猫??
いや!素晴らしき乳白色の下地と繊細な線!
簡単に語ることはできない男、藤田嗣治。
【藤田 嗣治(レオナール・フジタ)】
1886(明治19)年11月27日‐1968(昭和43)年1月29日没(享年81歳)。東京生まれ、熊本育ち。四人姉弟の末っ子(次男)。5歳の時に実母が亡くなり、継母と馴染めず、12歳で長姉の嫁ぎ先である東京へ。27歳でフランス・パリへ渡り、1920年代の「狂乱の時代」エコール・ド・パリを代表する画家となる。それは、当時の日本人洋画家にとって、歴史的快挙だった。
乳白色の下地と繊細な墨の描線
真面目な優等生
14歳の頃、すでに画家になる決心を固め、父(軍医)にその志を手紙で告白し、許しを得る。フランスへ行くことを夢見て、17歳から夜間学校でフランス語を学んでいた(フランス語を話せないのに、勢いに任せて渡仏した佐伯祐三とは違うなあ…)。19歳で東京美術学校(西洋画科)へ進学し、黒田清輝の指導を受ける。ただ、卒業制作の自画像は、黒田に酷評されたらしい。
卒業後は、展覧会への出品を行いながら、東京美術学校教授であった和田英作のもとで帝国劇場の壁画や背景の制作を手伝っていた。すでに、この頃から壁画を描いていたんだ。
絵画というものはかくも自由なものなのだ
1913年にフランスへ渡る(27歳)。日本画壇とは全く異なる最先端の芸術に触れ、驚く。ピカソやザッキンらと知り合い、キュビスムなど最先端の傾向も学ぶ。自由な表現に衝撃を受けながら、自分が目指すべき新たな表現を模索し始める。
人と違うことをしなければならない。
ルーブル美術館で模写をして古代美術を熱心に研究したり、洞窟壁画にも関心を寄せていた。パリで出会った画家、川島理一郎とギリシアダンスを学んだり、ギリシア風の衣装を手作りして身にまとったりもした。
画家として名を成すためには、独自性が必要だと知った藤田は、日本画を意識した線描と平面性を作品に取り入れる。
お調子者?いや、真面目な画家です!
多種多様な人種の集まるパリという街にも、積極的に馴染もうとした。モンマルトルの盛り場やパーティーに頻繁に現れ、目立った振る舞いをする一方で、アルコールは呑まず、深夜に帰宅してからは絵画制作に没頭していた。
静物画や自画像には、愛用品(面相筆、墨、硯、針など)が描かれていて、藤田の日常を感じられる。自画像に、自分の作品を描きこんだり、使用している道具を描くのは、今で言えば、バナー広告みたいなものだったのかな。藤田嗣治という画家に興味を持ってもらう為の作戦だ。
トレードマークともいえる、おかっぱ頭に丸眼鏡という独自のスタイルを確立し、見た目のビジュアルや、社交的な振る舞いなど、巧みに自分をプロデュースした。自らを作品化して存在感をアピールした結果、個性的であると好評価をもたらし、藤田自体が注目された。
作戦、大成功!!
ちなみに、藤田のサインが「FOUJITA」なのは、フランス語でお調子者という意味の「FouFou(フーフー)」から付けたのではなく、フランス語では「FU=フュ」と発音されてしまう為、「フ」に近い発音になる「FOU」と表記したそうです。
「Grand fond blanc(素晴らしき乳白色の地)」
1919年、第一次世界大戦が終結し、美術市場に活気が戻る。1918年から1929年までのフランスは、レ・ザネ・フォル、狂乱の時代と呼ばれ、戦争が終わった開放感と戦後好景気で浮かれた空気の時代だった。
この時代に、藤田を一躍時代の寵児に押し上げた「Grand fond blanc(素晴らしき乳白色の地)」と称えられる斬新なスタイルを生み出し、藤田の黄金期が始まる。
1921年、陶磁器の肌を想わせる白く滑らかで艶やかな下地をつくり、日本の面相筆と墨を使用して、正確で繊細な輪郭線を引く。そのオリジナルな技法で、1920年代のパリで脚光を浴びる。
フランスに行ったばかりの頃は、風景画や静物画で自分の表現や技法を模索していた。藤田は「裸体画は7年間手に触れなかった」と話し、満を持して発表した独自の技法による乳白色の下地の裸婦は、パリで絶賛され、藤田の代名詞となった。
藤田は生前、その手法を秘密にしていたので、どうやって描かれたのか(解明されつつあるけれど)謎に包まれたまま。どうやって描いたのか分からない作品の修復作業を担当した方たちの仕事は称賛に値する。素晴らしい!
面相筆に針?
乳白色の下地はとても美しい。だけど、私が驚いたのは、線だ。均一で細い線を、面相筆で描いたなんて。まるで、極細ペンで描いたようだった。初めて作品を見た時の驚きは、忘れられない。
面相筆に針を仕込んでいたという説もあるみたいだけど、真相は不明だ。針を仕込んで描いたと言われても納得してしまう線ではある。それだけ技術力が高いんだ。
服を作る藤田の事だから、針は身近にあっただろうけれど、筆に仕込むなんて面倒なことをせずに、ペンで描けばいいのに。日本画や水墨画で使われる面相筆を使用して描いている、というイメージ戦略が重要だったのかな。
ド近眼(強度近視)だった藤田。トレードマークの丸眼鏡は、伊達メガネではない。細かい作業は大変だったはず。それとも、逆に、自分の世界に集中できたのかな?
次の挑戦へ
フランスやベルギーに作品を買い上げられ、勲章を受章するなど、名実ともに芸術家として成功し、日本でも話題の人となる。1929年に日本に帰国した際は、報道陣の熱烈な出迎えを受け、帝展出品や各地での個展を精力的に開催した。
「素晴らしき乳白色」の成功に安住せず、1920年代後半、群像による大構図の作品《構図》や《争闘》などに取り組み始める。それは、システィーナ礼拝堂でミケランジェロの天井画や壁画に衝撃を受けた影響もあるけれど、裸婦像の藤田というイメージを越えようとする試みでもあった。日々、進化する藤田!
1929年10月24日に世界大恐慌が起き、狂乱の時代は終わり、パリの美術業界も低迷する。1930年代に入ると、藤田の画風は、乳白色から豊かな色彩へ変容し、リアルな表現を追求するようになる。
中南米を巡る
1931年に20年間住み慣れたパリを旅立ち、約2年間、中南米・北米を巡り、1933年11月に日本に帰国する。中南米へ旅立ったのは、3人目の妻との破局の影響もあるけれど…
珍しい文化や未知の文明、特に先住民族に深い関心があったみたい。旅先で顔貌のデッサンを数多く描いた。現地の人々の写真を撮って、写真から特徴的なポーズや衣服を抜き出し、組み合わせて描いたりもした。
日本の古き良き文化も、中南米の文化も。藤田は民俗学に関心があったのかもしれない。岡本太郎さんみたいだ。
1934年、東京の戸塚にメキシコ風のアトリエを構える。《吾が画室(1936年)》には愛蔵品に満ちたアトリエの様子が描かれている。
壁画
藤田は、数多くの壁画を制作している。二度目に帰国した1933年~1939年の間に数多くの壁画を制作した。最晩年には、礼拝堂の壁画を描いている。
画家が、いたづらに名門富豪の個人的愛玩のみに奉仕すること無く、大衆のための奉仕も考へなければならないと思ふ。國民全部に、美術愛好と鑑賞の機会を、開放することに努力しなければならぬ。
メキシコに滞在中に、民族運動とあいまった壁画運動に感銘を受けていたことも影響して、美術をいろんな人に楽しんでもらいたいと考えていた。
ブラジル珈琲店の約18メートルの大壁画《大地(1934年)》や《銀座コロンバンの天井画(1935年)》など、他にも数多く描いている。
《秋田の行事(秋田年中行事太平山三吉神社祭礼の図)》は、20メートルにも及ぶ大壁画にも関わらず、わずか15日間という驚異的なスピードで制作した(1937年)。1936年に妻・マドレーヌを亡くし、鎮魂の美術館を作ろうと秋田の富豪・平野政吉に提案され、その美術館建設計画を受けて、この壁画を作成した。
《眠れる女(1931年)》は、パリで描かれた乳白色時代の最後を飾る作品で、マドレーヌをモデルとした裸婦と猫が描かれている。マドレーヌが急死した後、この作品は藤田自らの手によって平野政吉の元に運ばれた。
壁画の群像表現やダイナミックな構図は、のちの戦争画や晩年の宗教画にも活かされている。
壁画というと、壁に直接描くイメージがあるけれど、日本で描かれた壁画は、壁に直接描くのではなく、キャンバスに油彩で描き、設置場所に掛けられていた。それは、以下の理由。
併し湿気の多い雨の多い日本國では、直接壁の上に描いては不愉快な黴(かび)を生ずる憂がある。水分は變色を原因する。耐震の豫防として壁画に金網又は布地をぬり込む方法もあるが、地震國の日本としては壁は私は不適當としてカンバスを尤も理想的なものと考へて居る
日本の気候や天災に配慮していた事が分かる。画家はただ絵を描くだけでなく、いろいろな事に配慮しているんだ。
パートナーを求めたのは、母を失った欠乏感?それとも?
藤田嗣治には、ほぼ途切れることなくパートナーがいた。
1人目:鴇田とみ(登美子)
当時は珍しい恋愛結婚。女子美術学校の裁縫科出身で、高等女学校の教師。1909年夏に知り合い、1910年10月に結納を交わす(ただ、入籍は許されなかった)。1911年夏に新婚生活を開始したけれど、一緒に暮らしたのは2年間だけ。1913年6月に藤田だけフランスに行き、遠距離生活に。藤田は、とみにフランスに来てほしかったけれど、計画していたとみの渡航は、とみの体調不良や第一次世界大戦が起きたことで困難に。およそ180通もの手紙を送り続けたけれど、渡仏から3年経った1916年に、二人は一度も再会することなく、第三者を通じて離婚する(藤田30歳)。離婚後も、とみは藤田の手紙を大切に保管していた。なんだか、せつないね。
2人目:フェルナンド・バレー
フランスの画家・美術モデル。1917年に出会い、3月に結婚。性的に開放的なフェルナンドの行動(別の日本人との浮気)を藤田が許せず、1924年に別居。1929年に離婚。
3人目:ユキ(本名リュシー・バドゥー)
1922年に出会い、1924年に同棲、1929年に結婚。ユキの愛称は、透き通るように白い肌に魅せられた藤田がつけたもの。ユキの心変わり(相手はシュルレアリスム詩人:ロベール・デスノス)により1931年秋に離別。藤田は夜逃げ同然に、4人目のパートナーであるマドレーヌと中南米へ。ただ、破局後も離婚はしておらず、離婚が成立するのは23年後の1954年。
4人目:マドレーヌ・ルクー
1931年10月、モンマルトルで出会って間もないマドレーヌと中南米への大旅行を決行。藤田との年齢差は約20歳。マドレーヌはアルコール依存と薬物依存があったみたい。1936年6月29日、マドレーヌは日本滞在中に急逝(享年27or29歳?)する。
5人目:堀内君代
マドレーヌが亡くなる前年である1935年に出会い、1936年に同棲開始。二人の年齢差は25歳。1938年9月に日本で入籍(藤田51歳、君代26歳)する。フランスでは先々妻ユキとの離婚成立後、1954年に入籍。ちなみに、君代さんは茨城県出身。2009年4月2日に永眠(享年98歳)。藤田と共に礼拝堂に埋葬されている。
恋愛事情は、他人が口を出す事じゃないけれど。ちょっとモヤモヤする。ほぼ毎回、別れる前に、次のパートナーと交際を開始している…。幼い時に実母を亡くした欠乏感から、常に女性を求めたのかな。それとも、若い女性が好きだっただけ?成功者の栄光(名誉やお金)に女性側が引き寄せられたのかな。いや、藤田が魅力的な人だったんだよ、きっと…。晩年の藤田と君代さんの写真は、にこやかで穏やかで、素敵な夫婦だ。それが救いだ。
ひとりぼっちは、さびしいもんね。
猫
「サイン代わりに猫を描く事もある」と語るほど、藤田にとって猫は特別な存在。1920年のはじめにパリで野良猫を拾ったのが、猫を飼い始めるきっかけだった。
盛り場から夜遅くパリの石だたみを歩いての帰りみち、フト足にからみつく猫があって、不憫に思って家に連れて来て飼った
野良猫が不憫だったのもあるだろうけれど、異国の地で、藤田自身も寂しかったのかもしれない。藤田は猫について、以下のように話している。
ひどく温柔かな一面、あべこべに猛々しいところがあり、二通りの性格に描ける
猫は野獣性と家畜性との二つの性格を持っているので、そこが面白い
猫の愛玩性と獣性の二面性に着目している。
1936年に日本画の《猫》を描いているけれど、1940年にも油彩画の《猫》を描いている。どちらも猫たちが入り乱れる絵だ。だけど1940年の《猫》は、第二次世界大戦の戦火がパリにも迫る当時の緊迫した状況が投影されているのかもしれない。
戦争記録画
私は日本人画家です
1936年の《自画像》は、日本帰国後に描かれた。日本っぽいものに囲まれた藤田。日本人画家であるという意思表示でもあるし、日本で生き延びる為の作戦のひとつだったはず。
先ず第一に日本画とか西洋画とか区別して、日本人の描く画を取扱う事がすでに疑問であり、私は私の画を、単に藤田の画と称している。ただ材料の如何によって、それが西洋画ともなり、日本画とも見らるるに過ぎないと思っている
1935年9月から国際観光映画「現代日本」の監督に抜擢され、制作を開始。日本各地で撮影し、映画は完成したけれど、試写会で不評となり、輸出は中止となる(1937年)。古き良き日本の文化や風景は、当時の日本が世界に発信したい日本像ではなかったのだ。素敵なのにね。
陸軍の軍医だった父・藤田嗣章を尊敬する藤田は、武士と軍人の父の血を受け継ぎ、日本人としての誇りを感じ、日本の画家として生きようとしていた。
藤田が中国を訪れた時期の日中関係はどういうものだったのだろう(1934~1935年)。すでに戦時体制下だったけれど、沖縄も訪れている(1938年)。戦争が壊し、傷つけた土地。人々の暮らしは、どんなものだったのだろう。
1937年7月、日中戦争が勃発。日本軍から戦争記録画の依頼を受け、1938年秋に他の従軍画家たちとともに日中戦争下の中国での作戦に同行する。1939年にパリに戻るけれど、1939年9月にドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発し、1940年に帰国を決意。
日本国民として、従軍画家として、戦争記録画を描く。
もうこうなつて今更足を洗ふわけにもいきません(途中省略)私は喜んで部隊長でやりましょう
1940年8月、27年間トレードマークだったおかっぱ頭を丸刈りに。日本軍に従軍し、1943年まで戦争記録画を描く。
西洋絵画の伝統に学んだ群像を大画面に収める構図や、日本の絵巻物のように時間の流れをひとつの画面に描く(画面左から右へ時間の経過を伴う場面展開)という高度な技量を示す。
戦争記録画は、聖戦美術展や大東亜戦争美術展、国民総力決戦美術展などに出品されている。戦時中の美術展名が生々しい。
《哈爾哈(はるは)河畔之戦闘(1941年)》
《哈爾哈(はるは)河畔之戦闘(1941年)》は、4mを越える大作。1939年7月にモンゴルと旧満州の国境をめぐって日本軍とソ連軍が衝突した「ノモンハン事件」を描いている。青空の下、奮闘する日本兵の姿が描かれている。この絵だけみたら、日本が優勢のように見える。だけど、実際はロシアも日本も多大な犠牲を払う悲惨な戦いだった。こうした事実は、当時の国民には知らされなかった。
この作品は、予備役中将の荻洲立兵が発注し、ノモンハンで戦死した部下の鎮魂の為に制作を依頼された。それもあって、事実とは異なる作品となったのかもしれない。荻洲の手元には、別バージョンの《哈爾哈(はるは)河畔之戦闘》があったという証言も残っている。そこには、日本兵の死体が転がる凄惨な光景が描かれていたらしい。
《アッツ島玉砕(1943年)》
1943年5月29日にアリューシャン列島のアッツ島で、アメリカ軍の攻撃により日本の守備隊が全滅した出来事を描く。アッツ島玉砕は負け戦にも関わらず、「くじけず一層力を尽くそう」というメッセージを伴って大々的に報道された。この作品も、国民総力決戦美術展覧会に出品されて、大きな話題を呼んだ。
報道、軍歌、そして、戦争記録画。複数の媒体を組み合わせて宣伝効果を高める(メディア・ミックス)。藤田の戦争記録画は、戦争を正当化する道具のひとつだった。
戦争記録画は、見ていて辛い。私は、とても不快だ。これらの作品を見た当時の日本人は、どんな感情を抱いたのだろう。戦意を鼓舞された?それとも、戦争を批判すれば自分に危険が及ぶ恐怖に脅えていた?戦争という暴力は、外にも内にも恐怖を与える。その道具のひとつとして、美術作品が使われたことは、悲しい。
日本国民のひとりとして、国の為に描く。それが、美徳とされた戦時下の日本の空気。藤田自身も感じていた「やむを得ない」という諦めの集団心理や同調圧力。「それって、変だよね」「もう、止めようよ」という普通の感覚を発言できなくなると、軌道修正できず、集団は失敗しやすくなる。
戦地に従軍した藤田が見た情景は、どんなものだったのだろう。フランスに住み、多様な人種と交流していた藤田だからこそ、日本軍の価値観に違和感を感じ、同調しすぎることなく、心理的な距離を保てただろうか。それとも、お国の為に描くという一種の高揚感を感じていただろうか。
次第に、戦争記録画から色数が減り、全体的に茶色く暗い画面が描かれる。悲惨な戦争の状況が反映されているのだと思う。私は、高揚感というよりも、こびりついて離れない悪夢のような記憶を描いているように感じる。
戦地では、見たくないものも、嗅ぎたくないものも、聞きたくないものも、たくさんあったはずだ。生死の危機を感じる体験は、心的外傷になる。
戦争を体験した当時の日本国民は、体験の差はあっても、みんなストレスを受けた。藤田自身も、ひとりの人間として、強いストレスを受けたはず。
そんな状態で、さらに、強いストレスを受ける出来事が起こる。
戦争責任を問われる
1945年に第二次世界大戦が終わる。疎開先で終戦を迎え、戦争記録画はアメリカへ移送されることになり、説明のために連合国総司令部嘱託となる。
戦争は人の人生を狂わせる。
藤田は、戦争画家として主導的な立場にあった為に、戦争記録画を描いた戦争責任を問われる。国策協力者として激しく非難され、ひとり戦争記録画の責任を負う立場となっていた。さらに、美術界における戦争責任が問題となり、藤田自身を追及する声も上がっていたそう。従軍画家は他にもいたのにね。
結果的に、1947年2月にGHQが公開した戦争犯罪者リストに藤田の名前は含まれておらず、戦犯容疑は正式に晴れる。けれど、その頃には、もはや藤田に日本への未練はなかった。この約1年半の藤田の状況を思うと、いたたまれない。
GHQの民政官フランク・シャーマンや在米の日系人画家らの助けで、アメリカへ渡り、フランスへ。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の本「知られざる日本の面影(1894年)」で、藤田を知っていたアメリカ人のシャーマン。藤田を「エコール・ド・パリのボヘミアンの王様フジタ」として敬愛し、アメリカ軍の権力を使う事なく、交流を深め、藤田夫妻のアメリカ行きを手伝ってくれた。
ただ、1946年にフランス領事館に入国査証を申請したけれど、なかなか認められなかった。アメリカの入国査証を申請して、ほどなく許可が下りた為、まずは1949年にアメリカへ旅立つ。約10ヶ月ニューヨークに滞在し、翌年1950年にようやくフランスの入国査証が認められて念願のパリに戻る(64歳)。手続きに4年もかかったなんて、待ち遠しかっただろうな。
この時期に《私の夢(1947年)》が描かれた。亡くなったマドレーヌをモデルとした裸婦と、着衣の動物たち。藤田に批判的な人々やフランス行きが叶わぬ厳しい状況を暗示していると考えられている。画面中央左下に、藤田の自画像に何度も登場している一本牙の猫でさえ、よそよそしげに立ち去ろうとしている。親しかった人や、心を許していた人達が投影されているのかもしれないと想像したら、とても胸が苦しくなった。悲しい…
私が日本を捨てたのではない、日本が私を捨てたのだ
藤田が日本の地を踏むことは、二度となかった。
レオナール・フジタ
1950年2月に三度目の渡仏(64歳)。戦争記録画を描いた事に対する批判や日本画壇との確執から逃れるように、日本を出国し、アメリカを経由して、パリに辿り着く。還暦を過ぎても、個展を開いたり、公募展に参加し、積極的に美術界へ復帰する。
1955年にフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消。二度と日本に戻る事はなかった。1959年10月に、ランス大聖堂で夫婦でカトリックの洗礼を受け、藤田嗣治からレオナール・フジタと改名する。レオナールの名は、敬愛するレオナルド・ダ・ヴィンチにちなんで授けられた。
1961年にパリを離れて、郊外に住む(75歳)。それは、社交よりも作品制作に集中する為だった。より良い絵画を描く事。最後の命を絵画制作に注ぐ。終の棲家となった自宅兼アトリエは、メゾン=アトリエ・フジタとして一般公開されている。
「シャペル・ノートル=ダム=ド=ラ=ペ(平和の聖母礼拝堂)」
ものづくり男子
小柄だった藤田は、洋服を自作していた。手先が器用で、1940年前後からは額も作成。他にも陶芸や、木箱作りなど、身の回りの様々なものを手作りしていた。晩年は、記念日ごとに、何日も前から作品を制作して、妻・君代へ贈っていた。君代宛の作品が沢山ある。
最終的には、自分で設計・デザインを手がけた最後の作品ともいえる礼拝堂「ノートル=ダム=ド=ラ=ペ(平和の聖母)」まで作る。
藤田は何かを手作りする時、忍耐強く材料と向き合い、あらゆる綿密な作業を厭わなかった。この制作態度は作品にも共通している。藤田はいかなる事にも妥協せず、正確に再現することに執着した。アトリエや教会の模型が残されていて、そこには、イーゼルや木製のストーブ、細かい細工が施された装飾棚、布を張ったアンティーク調の椅子、絵の具のついた上着やズボンまで、現実の空間を何一つ欠かすことなく正確に縮小した小さな世界が再現されている。
描く。作る。生み出す。
自分だけの世界をつくる。
藤田がやりたかったことは、きっとそういうこと。
1965年、ランスに礼拝堂を建てる計画に着手する。建築家モーリス・クロジエと書簡を交わしながら綿密な打ち合わせを重ね、ロマネスク様式で作られた礼拝堂内をフレスコ画で埋め尽くし、ステントグラス、浮き彫り、庭の彫刻まで全てを藤田が手掛けた。
1966年6月6日、最後の仕事に取り掛かる。それは2年近く構想を温めてきた礼拝堂の装飾だった。
フレスコ画
礼拝堂の壁画は、フレスコ画という伝統的な技法を採用している。フレスコ技法は、壁に塗った漆喰が乾かないうちに水性絵具で絵を描いていく為、素早く描く技術が要求される。絵具の顔料が漆喰に染みこんで混ざり合う事で完成する。素早く筆を運ぶテクニックが必要なことはもちろん、途中の加筆や訂正がいっさいできないため、瞬時の判断と確実な技術が要求される難しい技法。
藤田は、礼拝堂の壁画を描く為に、新たにフレスコの技法を習得した。1日も休まずに制作を続け、わずか4ヶ月で制作した。毎日12時間、約90日。80歳のおじいちゃんのやる事じゃない。高齢にも関わらず、描き上げた藤田の体力と精神力が凄い。実は、病(膀胱がん/前立腺腫瘍)を押しての制作だった。命がけだ。
1966年8月31日に礼拝堂完成。1966年10月18日に落成式。その約1ヶ月後、パリの病院に入院。翌年の秋にはスイスの病院に転院したけれど、1968年1月29日に享年81歳の生涯を閉じた。
現在は、自分でつくりあげた礼拝堂で、最後の妻である君代さんとともに眠っている。戦前、戦中、戦後を生きた藤田。どうぞ安らかに。
「藤田嗣治 絵画と写真」展
裸婦像の共演
茨城会場の目玉は、裸婦像の共演。
戦前と戦後の裸婦像が並ぶのは、茨城会場のみ!
《舞踏会の前(1925年)》は戦前の作品。「乳白色の下地」で絶頂期を迎えていた時期の作品。
《優美神(1946‐48年)》は、戦後の作品。早描きの藤田にしては3年の歳月をかけて描いた珍しい作品。戦後ふたたびフランスに渡るまでの間に描かれた。シャーマンの回想によれば、最初は暗い色で表現されていたけれど、時間をかけて描くうちに鮮やかな色が足され、軽やかで優美な作品へと変わっていたそう。それを知ると、戦争の傷を癒し、平和の祈りを込めた作品のようにも感じる。
藤田が映る写真には、その時期に制作していた数々の作品も写っていて、《優美神》の変遷も見る事ができる。草花や雪山が描かれていない段階の《優美神》が写真に残っている。細かく描き加えられた草花のひとつひとつが祈りなのかもしれない。描く事で癒され、描写が変化していったのだろうか。絵を描くことは、セラピーだ。
写真
藤田は生涯にわたり複数のカメラを所持し、写真を撮り続けた。写真を絵画制作の資料にも使用しており、今回の展覧会では、好みの部分をコラージュのように組み合わせて描いていた事がよく分かった。
モノクロ写真を撮っていた写真家たちは、カラー写真の登場に困惑したらしいけれど、藤田には関係なかったそう。絵を描くのも、写真を撮るのも、藤田にとっては同じことだったんだろうな。
そして、撮るだけでなく、撮られる側でもあった。
藤田という存在は、被写体としても人気だった。モデル顔負けのポージングや表情が撮影されている。カラー写真を撮られる時は、赤い帽子をかぶるなど、色彩の効果も熟知していた。撮られる側であっても、作品(写真)のテーマに合った構図や雰囲気、色のバランスを、明確にイメージしていたのかもしれない。自分を俯瞰して見る力が、洗練されている。
撮る時も、撮られる時も。流石、一流の画家!
家族の肖像
自画像に、君代さんと実父を描いた《家族の肖像(1954年)》。1954年は、先々妻と離婚でき、日本とフランスの両国で君代さんが妻となった年。家族の記憶が、実父が、妻が、現在の自分を生かしているという意味が込められているのかな。実際、トラウマを癒すのは、安全な環境と安心できる人間関係だ。藤田の戦争のトラウマを癒したのは、妻と信仰、そして心の支えとなる実父の記憶だったのかもしれない。
新発見!
東京、名古屋と巡回してきた今回の展覧会。東京会場で新たな発見があった。撮影者が分からなかった写真の撮影者がペルーの写真家マルティン・チャンビだと分かったのだ。水戸会場では、その情報が展示されている。
日々、新たな発見があるのだ。資料を読んでいても、情報の違いがあるのは、そういう事なのだ。情報は日々、更新される。おもしろい!
特別書き下ろし「2Pマンガでたどる藤田嗣治の足跡」
茨城会場では、特別書き下ろし漫画が展示されていた。これが、とっても分かりやすい!



「藤田嗣治 絵画と写真」
茨城会場は、2026年4月12日(日)まで。
次は、札幌へ!
【茨城会場:茨城県近代美術館】
【札幌会場:札幌芸術の森美術館】
【参考文献】
「藤田嗣治 絵画と写真(2025年)」
「藤田嗣治 心の旅路をたどるー手紙と手しごとを手がかりに(アサヒグループ大山山荘美術館/2023年)」
「師・黒田清輝 妻・鴇田とみ 藤田嗣治 東京美術学校から渡仏へ(秋田県立美術館/2019年)」
「MOMATコレクション 特集:藤田嗣治、全所蔵作品展示。(東京国立近代美術館/2015年)」
「藤田嗣治 どうぶつものがたり 猫と裸婦と画家(秋田県立美術館・公益財団法人平野政吉美術財団/2014年)」
「レオナール・フジタ展 よみがえる幻の壁画たち(2009年)」
おわり
