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ウサマ・ビン・ラディンの暗殺 2011/05/02

 ウサマ・ビン・ラディン(1957-2011)。2011年5月2日、パキスタンの隠れ家にいたところを米軍により暗殺された。
 ラディンはサウジアラビアの富裕な一族の出身。1979年、アフガニスタンにアフガニスタンの革命政権の要請を受けてソ連が侵攻した。その後、ソ連軍に抵抗するムジャーヒディーン(=ジハードする者:信仰のため日常的に努力する者)と呼ばれる人々のソ連軍への抵抗活動が起きた。ラディンは、ムジャーヒディーンの活動に共鳴し、1986年から本格的にアフガニスタンに入り、ソ連に対するムジャーヒディーンの抵抗運動に加わった。アメリカは当時、対ソ連という意味で、ラディンそしてムジャーヒディーンを支援していた。この活動の中で、1988年にラディンはスンナ派ムスリムを主体に、アルカイーダと呼ばれるテロ組織を作り、アミール(司令官)になった。アルカイーダは、大本とか基地といった意味とされる。
 1989年2月にソ連がアフガニスタンから撤退すると、ラディンもサウジアラビアにもどった。ところが1990年2月にイラクがクウェートを侵攻すると、イラクの軍事的脅威を感じたサウジアラビア王室は、米軍の駐留を望んだ。米政府もこれに答え、米軍は8月8日にサウジに進駐した。これに対しラディンはサウジ王室に対して、異教徒の駐留に反対し、自分たちでサウジを守ることを主張していたが、王室の受け入れるところとならなかった。その後もラディンが米軍駐留批判を続けたことで、サウジ王室とラディンの関係は悪化、王室は1991年にラディンを国外に追放した。
 こうして、サウジさらにアメリカとの関係が悪化する中、ラディンーアルカイーダは、幾つかのを小さなテロを実行した。そして1998年8月7日には、タンザニアとケニアにある米国大使館を同時刻に爆破するという大規模なテロ事件を起こした。死者224人、負傷者5000人以上とされる。アルカイーダの関与が疑われたが、明確な証拠はなかった。当時、ラディンは、アフガニスタンのタリバン政権の庇護のもとにあった。この事件は、米軍のサウジ駐留からちょうど8年のタイミングで、政治的メッセージは明確だった。
 こうした中で2001年9月11日の同時多発テロ事件が起きた。死者2977人、負傷者25000人以上の惨劇であった。今回もまた、アルカイーダの関与が疑われたが、ラディンは9月16日に事件との関係を否定する声明を発表した。それでもタリバン―アルカイーダへの報復に燃えるアメリカは、2001年10月7日、アフガニスタンへの軍事侵攻を開始。11月末にアフガニスタンのタリバン政権は崩壊した。しかしラディンは行方を眩ませた。
 そして2004年10月。ラディンは行方不明のまま、同時多発テロ事件への自らの関与を認める映像を公表した。他方、米国は必死にラディンの行方を調査。所在地を突き止めたとされている。それはパキスタンであった。
 パキスタンとラディンとの間には、ラディンがアフガニスタンでソ連と戦っていた時以来の長い関係がある。そして米国としては、パキスタン領内でラディンを暗殺すれば、パキスタン政府、パキスタンの民衆の反発を引き起こすこともわかっていた。米国は慎重に政治的タイミングを見定め、2011年5月2日、暗殺を決行した。
    ビンラディン殺害は2011年5月2日(現地時間)。ラディンを含め4人が殺害された。4人とも武器を持っていなかったが殺害された。場所はパキスタンの首都イスラマバードの郊外アボタバード。パキスタン領内それも首都近くでの軍事作戦についてアメリカ政府は、パキスタン政府に事前の通知を一切しなかった。事件後、パキスタン政府は不快感を示した。
パキスタン政府 不快感表明 AFP 2011年5月4日
パキスタン政府 米国に不快感示す WSJ 2011年5月4日
パキスタンの情報機関 2003年以来 アボタバードの情報の共有を主張 WSJ 2011年5月5日
武器を持たない4人を殺害 ロイター 2011年5月6日
Death of Osama bin Laden


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福光 寛  中国経済思想摘記 main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp