「家族の肖像」L.ヴィスコンティ監督 1974年公開を観て思ったこと 2026年5月12日
ヴィスコンティ後期の代表作。
「家族の肖像」は、原題「Gruppo di famiglia in un interno 」で、人が寄り集まってできた一つの家族、のイメージだと思う。英語題は「Conversation Peice」
調べてみると、美術史に family portrait というジャンルがあって、中世から近代にかけて流行したようだ。有力者は家族の肖像画に階級、教養、富を描き込み、”私たちは財産と秩序を継承する正当な家系である”ことを表現した。
さて、お話は、自分の殻を破れなかった老知識人の後悔の物語である。
あらすじは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%B6%E6%97%8F%E3%81%AE%E8%82%96%E5%83%8F_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
監督の主題は、個人の環境の変化を描いて、社会の環境の変化を表現することだったと思う。既存の特権階級、家族観の崩壊を描いた。
老教授演じるバート・ランカスターが上手かった。
以下は私が考えたことである。
老教授は自分の殻を破れなかった。つまり未知の世界に踏み出せなかった。未知の世界とは具体的には何か。それは新しい人間関係である。自分とは違う種類の、つまり自分とは違う価値を持った人との関係である。それを作れなかった。なぜ作れなかったのか。不安・不快に耐えられないと思ったからだろう。殻の中は快適空間である。その外部に出ることは不安・不快で怖かった。個体保存の最適化行為として当たり前だと思う。
人間関係による不安・不快とは侵害感のことだ。
この侵害感を読みかえることによって、侵害感をある程度乗り越えられるのではないかと思う。
具体的には、相手が何故そんな行動をとるのか、を相手の気持ちになって考えてみる。こちらには理解不能の行動も、相手の中では秩序だった範囲に当然収まっているはずである。その相手の世界観、相手の気持ちを想像してみるのである。
つまり相手との出会いが未知との遭遇(不安の原因)なのではなく、相手の世界観との出会いが未知との遭遇になるのである。相手は、未知なる世界観の乗り物に過ぎないと考えるのだ。
このことが自分の世界観を広げ、もしかすると楽しい世界の発見につながるのであれば、やってみる価値はあると思う。
