妹には、まだ話していない ─ 命懸けの走馬灯のあとで知った、ママという世界
姪っ子は、夏休みに実家へ遊びに来ると、帰り際泣いた。
「まだ帰りたくない」
日帰りでも、一週間泊まったときでも、必ず泣いた。
祖父母である父と母は、そんな姪っ子の姿が可愛くて仕方なかった。
そりゃそうだ。
自分たちと離れたくないと泣かれるなんて、
祖父母冥利に尽きるというものである。
姪っ子は私にもよく懐いてくれた。
「おばちゃんの子になりたい」
そんなことまで言ってくれた。
まだ子どもがいなかった私は、その言葉が嬉しくてたまらなかった。
姪っ子は本当に可愛くて、会うたびに抱きしめたくなる存在だった。
けれど、姪っ子の母親である妹にとっては、少し複雑だったらしい。
家に帰りたくないのだろうか。
両親よりも祖父母の方が好きなのだろうか。
私より、お姉ちゃんの方が好きなのだろうか。
何か不満があるのだろうか。
私の愛情が足りないのだろうか。
そんな思いが、ずっと心のどこかにつきまとっていたという。
ある初春の日、私たちは親族みんなでお伊勢参りに出かけた。
風はまだ少し冷たかったが、歩くにはちょうど良い陽気だった。
当時五歳になっていた姪っ子と私は手をつなぎ、
みんなより少し前を歩いていた。
後ろを歩く妹夫婦との距離が、だんだん開いていく。
その時だった。
姪っ子が突然、私の手を振りほどいた。
そして振り返ると、後ろにいる妹に向かって全速力で走り出したのである。
慌てて私は追いかけた。
けれど、姪っ子はどんどん加速していく。
その先には大きな道路があった。
目の端に、右側から近づいてくる乗用車が見えた。
まずい。
今、追いつかなければ。
そう思っても、足が追いつかない。
姪っ子との距離は縮まらない。
もうだめだ。
もう間に合わない。
そうパニックになった瞬間だった。
なぜか、今までの姪っ子との思い出が走馬灯のようによぎった。
私の人生が終わるわけでもないのに。
大雪の日に生まれてきた時の真っ赤な顔。
父が歌う「高校三年生」を子守歌代わりに、
毎回すやすや眠ってしまったこと。
姪っ子のために作ったお人形。
「絶対に着ない!」と言い張っていたのに、
最後にはちゃんと着物を着てくれた七五三。
そんな記憶が、一瞬で頭の中を駆け巡った。
その場違いな走馬灯が流れた次の瞬間、
「そうはさせるか!」
と、全身に力が入った。
私は最後の一歩を踏み込み、
すんでのところで姪っ子の首根っこをつかんだ。
次の瞬間、目の前を車が通り過ぎた。
本当に、本当に危機一髪だった。
運転手の驚愕した表情まで見えるほど、車はすぐそばを走り抜けていった。
膝が震えた。
心臓は壊れそうなくらい鳴っていた。
しばらく息もできなかった。

そんな私の横で、妹は姪っ子に向かって言った。
「もう、急に走ったらダメでしょ」
そののんきな声に、さっきまで張り詰めていた緊張が一気にほどけた。
姪っ子は何も答えなかった。
ただ、近づいてきた妹の手をぎゅっと握った。
その小さな手は、離すまいとするように強く握られていた。
その姿を見た瞬間、私は痛烈に理解した。
ああ。
この子は、ママが大好きなんだ。
祖父母も好き。
おばちゃんも好き。
でも、それとはまったく別の場所に、ママがいる。
大好きなおばさんや祖父母には目もくれず、
走ってくる車にも気づかないほど。
ただただ、今この瞬間、ママのところへ行きたかったのだ。
「まだ帰りたくない」は、「まだ」帰りたくないだけ。
「おばちゃんの子になりたい」は、
いつでも帰れる自分の家がちゃんとあるから言えるだけ。
安心して甘えられる場所があるからこそ、
その外の世界も思い切り楽しめる。
結局、最後に求めるのはママなのだ。
こどもにとっての母親という存在は、
誰かと比べて勝ったり負けたりするものではない。
祖父母とも、おばちゃんとも、友達とも違う。
代わりのいない、たった一人の存在なのだ。
きっと、こどもにとって母親とは世界そのものなのだろう。
私は震える膝を押さえながら、そのことを頭ではなく、体で理解した。
その後も姪っ子は、実家から帰るたびにしくしく泣いた。
妹の悩みは、姪っ子が小学校に上がる頃まで続いた。
ただ、私はこの「気づき」を妹に伝えなかった。
だって悔しかったからだ。
あれほど懐いてくれていた姪っ子の愛情が、
実は最終的に全部ママへ向かっていたなんて。
あんなに全力で手を振り払ってママに走っていったなんて。
おばちゃんとしては、なかなか認めがたい事実だったのである。
だから私は黙っていた。
妹が悩むたび、
「そうかなあ」
とか、
「考えすぎじゃない?」
とか、
実に役に立たない相づちを打ちながら。
本当は知っていたのに。
姪っ子が求めていたのは、ずっとママだということを。
まあ、そのうち話してあげてもいい。
もっともっと妹が何かで落ち込んだ時とか。
自信をなくしてしまった時とか。
「そういえばね」
と、いかにも今思い出したような顔で教えてあげようと思う。
あの日、車に轢かれそうになりながら私が知ったことを。
あなたはちゃんと、
姪っ子にとって世界で一番好きな人だよ、と。
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