泥だらけで帰ってきた猫に、夫だけが感動していた話
十月末の夕方。
チャイムが鳴ったので玄関を開けると、
向かいの雑貨屋さんのおばあさんが立っていた。
「この猫をもらってくれんかの。」
おばあさんの腕の中にいたのは、
一匹のおじいちゃん猫だった。
お店をたたんで娘さんの家へ引っ越すおばあさんだったが、
そこには猫アレルギーの孫がいて、
この子だけは連れて行けないという。
おばあさんはもともと二匹の猫を飼っていて、
引っ越しの少し前、そのうちの一匹を亡くしていた。
その子はうちで飼っていたメス猫にそっくりで、
向かいの店の窓とうちの窓で、双子みたいに外を眺めている
――というのが、ご近所でちょっとした話題になっていた。
そんな縁があっての、「もらってくれんかの」だった。
そんな経緯で我が家にやってきたおじいちゃん猫だったが、
最初の三日間は、洗濯機の裏からまったく出てこなかった。

大好きだったおばあさんと離れてしまったことへの、
無言の抵抗だったのかもしれない。
それでも四日目になると、
リビングのクッションの上で眠るようになった。
それから一か月もすると、
まるで最初からこの家の主だったかのような大きな顔をして、
人の膝の上で気持ちよさそうに眠るようになっていた。
うちでもともと飼っていた猫は、
箱入り娘ならぬ「箱入り猫」。
かわいいだけが取り柄の、
おっとりしたメス猫だった。
それに対して、
おじいちゃん猫はとにかく賢かった。
引き戸は自分で開けるし、
ドアノブもレバー式なら難なく下げる。
おやつの隠し場所はすぐに見つけるし、
鰹節の袋まで器用に破って食べてしまう。
つまり、飼い主に「やってほしくないこと」を、
ことごとくやってのける猫だった。
中でも一番困ったのは、外へ出たがることだった。
おばあさんの家にいた頃から脱走の常習犯だったらしく、
我が家に来てからも、
リビングの大きな窓を開けて外へ出ようと何度も挑戦していた。
だから私たちは、
おじいちゃん猫を外へ出さないよう、
いつも気を付けていた。
そんなおじいちゃん猫が我が家に来て、
最初の春。
近所の田んぼでは耕起(荒起こし)が始まり、
トラクターが冬の間に固くなった土を掘り返していた。
春の土の匂いが、家の庭いっぱいに広がっている。
私はリビングの窓を開け、
気持ちのいい風を部屋に通していた。
もちろん、おじいちゃん猫が外へ出ないよう気を付けながら。
……でも、そのときだった。
ふっと、猫の気配が消えた。
慌てて窓を見る。
網戸は閉まっている。
開けられないように外側から固定してある。
それなのに、猫がいない。
正確には、箱入り猫はいつものようにリビングで寝ていた。
いないのは、おじいちゃん猫だけだった。
「まさか……」
近づいてみると、網戸にぽっかり穴が開いていた。
破られていたのだ。
私は名前を呼びながら近所を探し回った。
でも、どこにもいない。
ひょっとして、
大好きだったおばあさんに会いたくなって、
お向かいの雑貨屋さんへ戻っているのかもしれない。
そう思い、まだ空き家だった雑貨店の周りを一周するが
姿はない。
そんな日に限って、娘を駅まで迎えに行く時間が迫っていた。
このまま家を空けるしかない。
窓も開けっぱなしにはできない。
後ろ髪を引かれる思いで玄関の鍵を閉め、駅へ向かった。
車の中で事情を話すと、娘も
「車にひかれてないかな。」
「誰かに連れていかれてないかな。」
と、不安そうな顔をしていた。
そして家に戻り、車を止めて玄関へ回ると――
いた。
おじいちゃん猫は、
自分で破った網戸の前にちょこんと座り、
こちらを見ると、
「にゃあ。」
「にゃあ。」
と鳴き始めた。
まるで、
「ごめんって。入れてよ。」
「開けてよ。もう帰ってきたから。」
と言っているようだった。
しかも待ちきれなかったのか、
窓を開けてもらおうとして、
破った網戸をさらにバリバリ引っかき、穴を広げていた。

「どこいってたの!
もう入れてあげないよ!
なんで勝手にでていくの!」
私が怒鳴っている間に、
娘がおじいちゃん猫をひょいと抱き上げた。
そして私の方へ向き直ると、一言。
「足、真っ黒。」
本当に、四本とも見事に真っ黒だった。
耕起したばかりの田んぼを、
思う存分走り回ってきたらしい。
私はぷりぷり怒りながら、
おじいちゃん猫をお風呂へ入れた。
泥だらけの足を洗い、
ドライヤーをかける頃には、
さすがに観念したのか、
おじいちゃん猫は熱風に毛をなびかせながら、
ぐったりとしていた。
その日の出来事を夫に話すと、
夫は驚いた顔をして言った。
「えっ!
向かいに今まで住んでいた家があるのに、
こっちに帰ってきてくれたの?」
そして、少しうれしそうに続けた。
「もう、この子の『我が家』は、うちになったんだなぁ。
うれしいなぁ。」
……そこ?
近所を走り回って猫を探し、
気が気ではないまま娘を迎えに行き、
帰宅してから泥だらけの猫をお風呂に入れた私の苦労は、
どうやら夫にはまったく伝わっていなかったらしい。
夫は
「我が家って思ってくれたんだなぁ」
と何度もつぶやきながら、
おじいちゃん猫の頭をうれしそうに撫でていた。
……まあ、いいけど。
今度の休みは、破られた網戸を張り替えてもらおう。
もちろん、夫に。
私は、ひそかにそう心に決めた。
網戸の穴には、すぐに気づけた。
でも、「気づく」ことがそのまま命を左右した夜のことも、うちにはある。
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