問いを、問いのままで終わらせない
第6話では、
市民として外から声をあげ、
できることはすべてやってみた結果、
それでも変わらなかった現実について書きました。
その体験、経験は、
私にとって大きな学びでした。
同時に、ひとつの感覚と、拭いきれないモヤモヤを、
はっきりと残しました。
「(自分だけではない)たくさんの
声をあげても、変わらないことがある」
そして、
「代弁者である議員は、本当に、
“自分=市民”の代弁者なのだろうか」
さらに、もうひとつ。
「それでも、
疑問は、疑問のままにしておけない」
これらが、
私の中で、同時に存在し続けていたのです。
私は、
批判すること自体が悪いとは思っていません。
むしろ、
誰かや何かをよりよくするための批判、
物事を前に進めるための批判は、
社会にとって必要なものだと想っています。
ただ、
自分自身の経験から、
よく分かっていることもありました。
どれだけ正しいことでも、
伝え方を間違えれば、
それは「批判」ではなく
「非難」や「否定」として受け取られてしまう。
相手の立場を知らないまま。
信頼関係がないまま。

そんな状態で投げた言葉は、
たとえ善意から出たものであっても、
届かないことがある。
私は、子どもの頃から、
その歯がゆさを何度も繰り返してきました。
選挙公報の活動でも、
同じ感覚がありました。
誰かを責めたかったわけではない。
誰かを論破したかったわけでもない。
ただ、
「このままでいいのだろうか」
その問いを、投げかけたかっただけでした。
それでも、
問いは、ときに
「批判」として受け取られ、
その先へ進めなくなる。
そのとき、
私は自分に問い直すようになりました。
私は、
外から問い続ける立場に
とどまり続けるのか。
それとも、
問いを向けられる側に立つ覚悟を
引き受けるのか。
外から声をあげることは、
とても大切です。
でも、
外からでは動かない仕組みがある。
外からでは届かない、
最後の壁がある。
その現実を、
私は、自分の体感として知りました。
それでも、不思議と、
問いだけは、
私の中から消えませんでした。
「声をあげる」
「声をカタチにして届ける」だけでは
足りない場所があるのだとしたら、
私は、どこに立てばいいのだろう。
問いを投げるだけでなく、
その問いの行方を、
自分自身で引き受けるとしたら。
この問いが、
少しずつ、静かに、
私の進む方向を変えていきました。
次回は、
この問いが、どのように
「市民」と「議員」の間で揺れていたのか。
を書いてみようと想います 🌱
