【短編小説】〈隻翼の竜の書〉夏の綺羅星 後編
夏の綺羅星
少年たちの恙ない一日
後編
水辺から遠ざかるように駆ける三人に、魔物は、魔法攻撃をものともせず、大量の水を滴らせながら、執拗に追いすがった。徐々に木々が疎らに生え、土地も傾斜し高くなっていくが、その勢いは止まらない。
「水陸両生蛸かよ!」
フォドルスが喚いた。魔法を使う余裕もなくなっていた。
静かな木立の中、少年たち三人の荒い息遣い、それを追う魔物の触手の、ざわざわと地面を這いずるような音が響く。その中に、不意にシェイスは、別の音を聞き取った。少し離れたところ、さらさらと流れる水音。そして――。
おもむろに、シェイスは、嘲るように声を張り上げた。
「おい、不細工な蛸女。どうした、さっさと捕まえてみろよ」
言うなり、フォドルスとレミスから離れ、別方向に駆けていく。水音の方へと。
「何よ、この……」
魔物は、言葉に詰まった。この、天上の綺羅星のごとき少年に、どんな悪口を浴びせればよいというのか。苦し紛れに、言う。
「殆ど女の子のくせに、生意気な……! たっぷり弄んで、思い知らせてやるわ」
もはや女の眼中には、シェイスしかなかった。夢中で、追いかける。
言い返す余裕はない。追われながら、シェイスは、呪印魔法を行使する。
シェイスの速度が、鈍ってきた。シェイスと魔物の距離が、詰まる。そしてついに、シェイスの足が、動きを止めた。喜悦の笑みが、魔物の大きく裂けた口を歪めた。そのまま、勢いよくシェイス目がけて突進する。
「シェイス――!」
フォドルスが叫んだ。レミスが、はっと息を呑む。
瞬間、シェイスは、大きく横に跳んだ。同時に、魔法を発動させる。
魔物の体から滴り、足代わりに忙しなく動いている触手の表面を伝っている水が、薄く凍っていく。その凍った部分に、地を蹴る圧力と勢いが加わり、魔物は、恐ろしい速度で、前に飛び出した。しまった、と思ったときには、既に遅かった。流れ落ちる水音が、いやに大きく耳朶を打った。触手が、何もない虚空を、空しく掻いた。重力が、一瞬宙に浮いた体を、容赦なく下へと引き寄せる。
水音とも、衝突音ともつかぬ轟音が、少年たちの耳をつんざいた。幾重にも、谺する。
その谺が収まらぬうちに、シェイスは、魔物が落下した辺りに近付き、下を覗き込んだ。
そこは、高さ五十メートル程の、断崖だった。近くに、細い滝が下っていた。その底には――。
びくびくと痙攣するように弱々しく蠢く、触手。胴体部分が、川底の硬い岩盤に穿たれた滝壺にぴたりと嵌まり、身動きが取れなくなっていた。
「あーあ、滝壺に、見事にお嵌まりになっちゃって。いや、滝壺ならぬ、蛸壺か」
シェイスの傍らにやって来たフォドルスが、言った。
「タコ壺?」
レミスも、近くに来ていた。小首を傾げる。
「蛸の漁に使う道具だよ。海に沈めておくと、蛸が入るんだって」
フォドルスの説明に、レミスは眉をひそめた。
「漁……? 捕まえて、どうするんだ。まさか……」
「食べるんだよ」
レミスの目が皿のように見開かれた。
「あの、グロテスクなやつをか? 冗談だろう」
シェイスが真面目に付け加える。
「博物学の書に、一部の地域では食用にされると書いてあった」
信じられない、というように、レミスは呻いた。
それをよそに、フォドルスは、シェイスに感嘆の眼差しを向けた。
「お前、よくここに蛸壺、じゃない、滝壺があるって、わかったな」
「走っていて、思い出したんだ。去年の夏、お前と一緒にここに来たって」
記憶の糸を手繰り、フォドルスは、あっと声を上げた。
「そうだ。あれも、王城の行事のときで、俺たちは、一緒に脱け出したんだ。羊を追っていた子供が滝壺に転落して亡くなる事故があったってんで、そこを見に来たんだ」
その事故以来、この辺りに人が近付くことは禁じられていた。そうして人が寄らなくなったところで、今度は、魔物が棲みついたのだろう。そして、王都近辺、さらには王城付近でまで、見目好い若者や少年を見繕い、襲っていたのだ。
「人が近付かなくなるというのも、考えものだなあ」
フォドルスが嘆息した。
二人とその思い出を共有しておらず、独り取り残された感のレミスが、不機嫌そうに言った。
「そんなことを考えてる場合か。さっさと戻って、あのタコもどきのことを知らせないと。僕らがお叱りを受けることになりかねんぞ」
昨年、シェイスとフォドルスは、こっぴどく叱られた。フォドルスが顔をしかめた。
「それはないぜ」
シェイスは肩を竦めた。
「今回は、不可抗力だ。あの魔物が悪い」
ともかくも王城へ戻ろうと、三人は、星空の下、崖に背を向けた。
瞬間。何かがしゅっと鋭く空を切った。長い、紐状のものが、シェイスの脚に巻き付く。いくつもの吸盤で、ぴたりと吸い付く。シェイスの瞳が、見開かれた。フォドルスの叫び声が上がる。
「シェイス!」
崖下から伸びた、細い、触手。そのままシェイスを、引き寄せんとし――。
古代竜語の速い詠唱、じゅうじゅうとものの焼ける音。
焼き切れ、抵抗を失った触手が、未練がましく尾を引くように、滝壺へと戻っていった。
数瞬の、息詰まる緊迫。それはやがて、木立ちの密やかな葉擦れの音、小川と滝の流れる涼しげな水音の中、解けていった。どうやら、今のが、あの蛸様の魔物の、最期の一撃だったと思われた。
ふん、とレミスが鼻を鳴らす音が、沈黙の帳を破った。
「油断するな」
触手を焼き切ったのは、レミスの魔法だった。
「ありがとう、レミス殿」
異口同音に、シェイスとフォドルスが言った。
「一緒にいるときに何かあったら、疑われかねんからな」
ここで、意趣返しか。レミスの返事に、フォドルスは、天を仰いだ。シェイスはしかし、ふと笑んだ。答えたレミスの口調は、ぶっきらぼうだったが、どこかこそばゆげな響きがあったのだ。
「それでも、ありがとう」
シェイスの、星の瞬きのような仄かな笑みに、覚えず魅入られそうになった己に気付き、レミスは、拗ねたように、ぷいと顔を背けた。
そのとき、斜面の下、蛸様の魔物がいた水辺の辺りから、いくつもの明かりと、多くの声が近付いてきた。王城から、助けが来たのだ。
ヴァーナは、蛸様の魔物に憑かれていた。彼女を通し、魔物はシェイスら三人を見つけ、連れ去ったのだった。しかし、ともにいた妹ララナが逸早く異変を王城の人々に知らせたため、魔物の魔法の痕跡を辿り、人々は、迅速に三人の救出に向かうことができたのだ。魔物が倒されたことで、ヴァーナも、魔物から解放されていた。
魔物のいた水辺には、岸辺から少し離れて、小さな島があった。そこが魔物の巣だった。そこには、犠牲者たちの、見るも無惨な遺骸が積み重ねられていた。もしシェイスらが魔物に捕らわれていたならば、彼らも、そこに加わることになっていただろう。
王城へと連れ戻された三人は、着替えて、祝宴の席にあった。大目玉を食らうかと思いきや、見事に魔物を倒したとして、国王から褒章を賜ったのだった。その上、王城の行事に続くようにして、祝いの宴が催され、三人は、未成年ながらも、飲酒を認められた。
「ただし」
と、フォドルスの父、魔法戦士団団長フォーデイスが釘を刺した。
「葡萄酒だけだぞ。蒸留酒は飲むんじゃないぞ」
言って、三人を卓に残し、立ち去った。
シェイスとフォドルスは、揃って、僅かに目を瞠っていた。ある春の日のことが、二人の脳裏に蘇った。二人で、部屋でこっそり蒸留酒を飲んで、前後不覚に陥り、寝てしまった。朝、目が覚めたときには、酒瓶が消えていた。
「ひょっとして、あの夜、酒瓶が消えたのは、父上だったのか?」
「どうも、そうらしいな。どうして叱らなかったんだろう」
厳しく灸を据えられて、然るべきところだったのに。
またしても蚊帳の外になり、憮然とするレミスだった。
そこへ、一人の少女が、駆けてきた。
「なんだ、はしたないぞ! お前はもう下がれ」
レミスに叱られ、一瞬、小動物のように身を竦めた少女は、ララナだった。
「これは、ララナ姫」
「お助けくださり、お礼申し上げます」
シェイスとフォドルスが立ち上がり、丁重に一礼した。が、ララナは、二人には軽く礼を返したのみで、すぐさまレミスの方を向いた。少し下がり気味の優しげな目許が、今にも零れそうな涙で、潤んでいる。
「レミスお従兄様、ご無事で、本当によかった……!」
とうとう、大粒の涙が、柔らかな頬を伝った。
「ああ、ほら、泣くな」
困ったように言いながら、それでも、涙を拭ってやるレミスの手つきは、思いがけず、優しかった。
そうして夜も更け、宴会はお開きとなり、人々は寝静まった。空には綺羅星たちの奏でる静かな光の世界が広がっていた。そして地上では、ジディアの至宝たる三つの綺羅星が、健やかな眠りの旋律を奏でながら、寝んでいた。
こうして、あわや一大事かと思われた、少年たちの夏の一日も、どうやら恙なく幕を下ろしたのだった。
了
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