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舶来人形東洋見聞録(2)―古都編―

 婚家から届いた書きつけにより、妹は祝言の日にお歯黒を施すことになった。それは婚家の意向によるもので、道具一式も婚家が用意するという。家族の胸にはなお複雑な思いが残っていたが、婚礼の支度は進めなければならなかった。

 妹の婚礼道具を婚家へ納める日が決まると、父は、その引き渡しに立ち会う役を兄に任せた。兄は父母の名代として婚家へ挨拶に赴き、そのまま三日後の祝言まで滞在することになっていた。

「お前一人で行かせるん、心配やな」

父の言葉に、息子はすぐさま言い返した。

「洋行はすぐ行かせてくれたのに、なんなん?」

「それとは違うわ。大切な方たちに会うんや。失礼なことせえへんか、心配しとるんやで。疲れたからいうて、だらしない格好したらあかんで」

「大丈夫やって。和装やったら気ぃ抜かれへんけど、洋装で行くわ。長旅でも着崩れせえへんし、楽やから」

「楽やからいうて、くつろぎに行くんやないで」

「分かってるわ。父様は僕をなんやと思ってるん」

 父は、返事をせずに息子の顔を見た。

「……なんで黙るん?」




 婚礼を三日後に控えた吉日、婚礼道具は大阪から川船で伏見へ送られた。兄は船には乗らず、ひと足先に陸路で婚家へ向かった。荷物には実家の者が付き添い、伏見の船着き場で合流する手はずになっていた。

 官営鉄道を降りると、駅からは人力車に乗った。大きな木造の橋を渡る途中、兄は陽を受けてきらめく川を眺めた。水際では、職人たちが白い布を川の水にさらしている。川の上を吹き抜ける風は、汽車の煤煙にまみれた身体に心地よかった。

 橋を渡ると、道は次第に狭くなった。両側には格子を備えた木造の家々が続き、軒先では藍染めの暖簾が揺れている。瓦屋根の向こうには、五重塔が端正な姿を見せていた。

 人力車が賑やかな通りへ入ると、道行く人々が次々と振り返った。西洋仕立ての服を着こなした若い男が、人力車に乗って通ること自体が、まだ珍しかったのである。店先にいた娘たちは、袂で口元を隠しながら、小声で何かを囁き合っていた。兄は人目を集めていることに気づいていたが、得意がる様子もなかった。異国で浴びた好奇の目に比べれば、それはどこか親しみのあるものに思えた。

 やがて人力車が角を曲がると、町の賑わいは急に遠のいた。聞こえるのは、車夫の足音と、車輪が砂利を踏む音だけである。道の先には、瓦を載せた黒い塀が長く続いていた。その上を、電信用の細い線が頼りなく横切っている。
古い町並みのすぐそばまで、新しい時代が入り込んでいた。

 その塀の向こうに、妹の婚家があった。
 結納をはじめ婚礼の取り交わしが進められた頃、兄はまだ洋行中であった。そのため、婚家の人々とは、この日が初対面だった。

 兄は父母の名代として、大旦那様と大奥様に挨拶をした。これまで直接伺えなかったことを詫び、妹を迎えてもらう礼を述べた。

 妹の夫となる青年は、兄と同じ年頃である。兄は挨拶を交わしながら、その人柄を静かに見た。妹から聞いていたとおりの人物か、自分の目で確かめたかったのである。
若旦那は礼儀正しかったが、堅苦しいところはなかった。兄の話をよく聞き、返す言葉にも気負いがない。

 兄は昔から、妹に「兄様と一緒にいると疲れます」と言われてきた。自分の明るさや勢いが、物静かな妹には強すぎることも分かっていた。目の前の青年には、そのような強さはなかった。知性も品格も、ことさらに示すことなく、自然に備わっている。その静かな佇まいに、兄は妹と重なるものを感じた。この二人なら、きっとうまくやっていけるだろう。兄は、ようやく少し安心した。

 挨拶のあと、兄は洋行先から持ち帰った品を差し出した。大旦那様と若旦那には万年筆を、大奥様には、金の蔓に真珠をあしらったブローチを贈った。大旦那様には、うやうやしく品を差し出しながら、こう述べた。

「この万年筆は、巴里でも文人や政に携わる方々が、大切な書付に用いると聞いております。大旦那様の威厳あるお手元にこそふさわしいと思い、買い求めてまいりました」

 続いて若旦那には、少し親しみを込めて言った。

「こちらは、巴里の若い紳士たちが志を立てる折に持つ、いわば立身出世のお守りのようなものやと聞いております」

「これから先、この筆記具がいつもおそばにあり、若旦那様のお志を支えるものとなれば、これほど嬉しいことはございません」

 そして、わずかに笑みを含ませた。

「未熟な妹ではございますが、どうか末永くよろしくお頼み申し上げます」

 若旦那は、照れながらも嬉しそうに礼を述べた。その後、兄は大奥様にも、巴里で選んだブローチを贈った。

「これは、蔦をかたどったものやそうです」

 兄は、真珠の連なるブローチを大奥様の前に差し出した。

「蔦は、寄り添う木と固く結ばれ、年月を経ても青さを失わぬことから、変わらぬ絆を表すのやそうです。妹がこの御家という大樹に寄り添い、その枝葉の一つとして末永く栄えてまいりますように。その願いを込めて選びました」

 そう言って、わずかに頭を下げた。

 大奥様は、掌に載せられたブローチをしばらく無言で眺めていた。細い金の蔓は幾筋にも枝分かれし、その先に、小さな真珠が実のように連なっている。舶来の装身具を和服のどこへ飾るものか、彼女にはまだ見当もつかなかった。けれども、蔦が変わらぬ絆を表すものだという兄の説明を聞くと、その厳しい口元がわずかに和らいだ。

「よう考えて、選んでくれはったのですね」

 そう言って大奥様は、もう一度、真珠の実を指先で確かめた。




 ほどなく、荷船が伏見に着いたとの知らせが入った。兄は若旦那と婚家の者に伴われ、船着き場へ向かった。そこで実家から来た者たちと合流し、目録を受け取った。岸には、箪笥や長持、衣装箱などが次々と運び上げられていた。兄は目録と照らし合わせ、数や封を一つずつ確かめた。妹がこれから使う品々が、本人より先に婚家へ運ばれていく。すべての荷を改めると、兄は婚家側へ正式に引き渡した。荷はそのまま屋敷へ運ばれ、婚礼の日に備えて、それぞれ所定の場所へ納められた。

 兄は父母に代わって祝言に立ち会うため、そのまま婚家に滞在することになっていた。遠方からの客でもある兄には、母屋から少し離れた客間が用意されていた。妹が嫁いでくるまで、あと三日であった。

 大型の婚礼道具は、すでに数日前の荷送りで婚家へ納められていた。嫁入り当日に運ばれるのは、花嫁の身の回りの品と、あの西洋人形だけである。父は娘の長い船旅を案じ、汽船会社との縁を頼って、定期便とは別に川蒸気船を一隻仕立てた。船には、花嫁のほか、年長の女中、若い女中たち、元締め、荷を扱う男衆だけが乗ることになっていた。西洋人形は専用の木箱に納められ、乗船から荷下ろしまで、実家の男衆が管理する。花嫁もまた、船旅で衣装や髪を傷めないよう、華やかな装いではなく、頭巾と煤よけの羽織物を身につけて出立することになっていた。


 祝言の日の早朝、屋敷の門前には、すでに門火が焚かれていた。娘は、まだ祝言のための華やかな姿ではなかった。長い船旅で髪や衣装を傷めないよう、頭には顔を隠す頭巾をかぶり、着物の上には、蒸気船の煤や水しぶきを防ぐための地味な羽織物を重ねていた。嫁入りの日とは思えない、目立たない姿である。

 出立を前に、娘は座敷で両親に別れの挨拶をした。

「父様、母様。行ってまいります」

 娘が深く頭を下げると、母は何度も声をかけようとして、そのたびに言葉をのみ込んだ。父も、いつものように明るく送り出そうとしていたが、うまく笑えてはいなかった。母は娘の手を取り、しばらく離そうとしなかった。

 兄は三日前から婚家に滞在している。両親はこのあと娘とともに船へ乗ることも、婚家で行われる祝言に立ち会うこともなかった。やがて年長の女中が、静かに出立を促した。娘は両親にもう一度頭を下げ、座敷を出た。表へ出ると、門火の白い煙が、早朝の空気の中をゆっくり流れていた。娘は頭巾に顔を隠し、華やかな衣装を見せることもなく、その火の向こうへ歩いていった。

 西洋人形は、木箱の中から周囲の気配を感じていた。娘も、母親も泣いている。あれほど娘を大切にしていた両親が、一緒には来ないという。祝言にも出ないという。娘は美しく着飾ることもなく、顔を隠され、地味な上着を着せられている。そのうえ門には、娘が二度と戻らないように火まで焚かれていた。人形には、その意味が分からなかった。

「パパとママが、式にいないなんて」

「あんなに仲のよい家族なのに、娘をひとりで追い出すというの?」

 人形の胸に、怒りが込み上げた。娘を泣かせ、母親を泣かせ、美しい姿まで隠して、家から出してしまう。

「この国では、結婚すると娘を捨てるの?」

 人形には、日本の婚礼が、ひどく冷酷なものに思えた。




 川蒸気船が伏見に着くと、花嫁の身の回りの品や化粧道具は、先に婚家へ運ばれることになった。西洋人形の木箱も荷車に載せられ、実家の男衆に付き添われて、一足先に屋敷へ向かった。

 婚家では、花嫁のための控えの間が整えられていた。すでに鏡台などの婚礼道具が据えられ、衣装や化粧道具も手際よく配置されている。
西洋人形は木箱から取り出され、丁寧に床の間へ飾られた。
背丈は三尺(約九十センチ)ほどもあり、まるで幼い子がひとり、そこに佇んでいるかのようだった。
 その頃、花嫁は船着き場で駕籠へ移っていた。頭巾と羽織物を身につけたまま、人目を避けて婚家へ向かう。一行は表門へは回らず、内向きの門から屋敷へ入った。花嫁は、まだ婚家の人ではない。控えの間へ通されると、婚家が用意したお歯黒道具を受け取り、祝言の支度を整えることになっていた。一般に見せる輿入れ行列は行わず、その夜、家の内で祝言が執り行われる。

      ◇

 内向きの門まで来ると、婚家の年配の女中が、恭しく一礼した。その傍らでは、二人の女中が、蒔絵を施した道具箱を台に載せて捧げ持っていた。

「これより当家のお嫁御とならはるお方へ、大奥様が腕利きの職人に誂えさせはったお道具どす。どうぞお納めになって、祝言のお支度を整えておくれやす」

 花嫁は駕籠を降り、丁重に礼をした。道具箱は、そのまま控えの間へ運ばれた。

 やがて蓋が開かれると、花嫁は息をのんだ。黒漆の中に、高肉蒔絵の意匠が立体的に浮かび上がっている。一つ一つの道具に、一分の隙もない細工が施されていた。
実家とて、決して格式の低い家ではない。良い品や上等な美術品は、一通り見て育った自負もあった。それでも、目の前のお歯黒道具は、彼女の知る贅沢とは違っていた。美しさを誇るためだけのものではない。幾代も守られてきた家の格式と、この日のために婚家が尽くした手間が、漆の黒と金の中に込められているように見えた。

 これを、たった一日のために。祝言が終われば落としてしまうお歯黒のために、婚家はこれほどの品を誂えて待っていた。自分は、伝統というものを、あまりに軽く考えていたのかもしれない。そう思うと同時に、背筋に冷たいものが走った。この家へ嫁ぐということは、ただ古いしきたりに従うことではない。幾代もの歴史の中へ、自分もまた入っていくことなのだ。

 女中が差し出した一つの道具を受け取ると、漆の冷たさと重みが掌に伝わった。先ほどまで抱いていた、お歯黒への恥じらいは薄れていた。その代わりに、逃げ場のないほどの緊張が、静かに胸を満たしていた。




 控えの間には、衣桁に白無垢の打掛が掛けられていた。西洋人形は、その長い裾を見上げた。

 「なんて豪華なの。純白のシルクでできた、重厚なオーバーローブだわ」

 初めて見る日本の花嫁衣装に、西洋人形はすっかり心を奪われていた。やがて花嫁が控えの間へ通され、祝言の支度が始まった。

 西洋人形は花嫁の支度を眺めていた。熟練の女髪結が手際よく鬢付け油を使って日本髪(文金高島田)を結い上げ、その後、カミソリが取り出された。

 人形は刃物を見てドキッとした。髪結は丁寧に顔剃りをし、なんと眉まで剃り落とした。西洋人形は思わず叫んだ。

「あっ! やっちゃった?」

 その後、着ていた襦袢の襟を大きく開き、手際よくペンキ塗りのように白粉をうなじから首のうしろ深く、胸元までを一体化するように塗っていった。胸元や両肩、うなじまで白く塗られた顔はまるで、大理石の彫像のようだった。その無機質で完璧な白に、ふしぎな神秘性を感じた。

 真っ白い顔に、髪結は眉墨を使って、おでこの高い位置にぽつぽつとした上品な公家風の眉を描き入れた。
西洋人形は
「なんて巨大な付けボクロなの?」
と、かつてのフランスの貴族文化を思い出した。かつての宮廷の『付けボクロ』の流行を、おでこで再現したかのようだと思った。

 その後、部屋にお歯黒専用の道具一式が運び込まれ、準備が整うと、仲人婦人が筆親として「立派な奥方となられますように」と言葉をかけながら、花嫁の上の前歯にサッと最初の一筆を入れた。その儀式が済むと、髪結が代わり、鉄漿水(かねみず)と五倍子粉(ふしのこ)を交互に、歯へ幾度も塗り重ねていった。塗っては乾かし、また塗り重ねるうちに、歯はむらなく深い漆黒に染まっていく。やがて、白い肌、黒い作り眉、黒い歯がそろったのを確かめると、髪結が鮮やかな口紅を唇にさした。下唇にはしっかり、上唇は小さく塗られた。下唇にこってりと塗られた紅は、光の加減で玉虫色にきらめいた。
その顔は、千年以上前の平安の絵巻物に描かれた姫君を彷彿とさせる、高貴なものだった。

 西洋人形はここまでは、大理石のように白塗りした巨大なロココ調の付けボクロと、芸術的な唇の、ふしぎな姿を自分なりに納得しようとして眺めていたが、口元に黒い歯がのぞいたとき、芸術を通り越して面白く感じた。

「何? あの醜いメイク、肌を白く塗るのは分かるけど、この口はひどいわ! まるで病気で歯がすべて腐ってしまった悪魔のようだわ。こんな顔で人前に出るなんて信じられない。今まで可愛らしい女の子と思っていたのに台なしよ!」

 と、初めて見る東洋の奇妙なメイクに驚き、笑いもこみ上げてきたのだった。
「だから、実家で『おはぐろ』の話が出ていたとき、様子がおかしかったんだわ」
と納得した。

 しかし、花嫁は覚悟を決めた佇まいで、現在の自分の姿に誇りすら持っている気持ちが伝わってきた。それが西洋人形には理解できなかった。人形がその姿の意味を理解できないまま、花嫁は祝言の席へ向かった。




 作法をひとつでも間違えてはならない。重い婚礼衣装と、高く結い上げられた髪に引かれる首の痛み、そして緊張に耐えながら、祝言の儀式は滞りなく終わった。
祝宴の支度が始まる中、花嫁は女中たちに促されて静かに席を立ち、控えの間へ戻った。
重い白装束──生家の娘としての白を脱ぎ、漆黒の黒縮緬の紋付振袖をまとった。

 花嫁が戻るころには、祝宴はすでに始まっていた。静かに席についた花嫁は、ただ俯き、ほとんど食事に手を付けることもできず、新郎の横に人形のように座っていた。格式高い本膳料理が並び、漆器の触れ合うかすかな音、静かに立ち働く女中たちの衣擦れ、声を低く抑えた挨拶だけが響いていた。

 その静けさの中で、ふいに実家で過ごした楽しい日々が蘇り、花嫁の目頭が熱くなった。
──いけない。おしろいが。
この場で花嫁が涙を見せるなど、あってはならないことだった。

 そのとき、近くからすすり泣くような音が、かすかに聞こえた。顔を上げると、兄が目に涙をためていた。

──お兄様……! 
花嫁は驚き、かえって涙が引いてしまった。

 花嫁方の代表である兄がこの席で涙を見せれば、婚家への不満か、花嫁を嫁がせることへの抗議と受け取る者がいてもおかしくない。文学好きで、人一倍感受性が強い兄は、不覚にも涙をこらえきれなかったようだ。

 花嫁が驚いている間に、新郎はすぐに仲人へ目配せした。仲人は控えていた年嵩(としかさ)の女中に耳打ちした。すると女中たちは、酌をするふうを装って兄の周りに寄り、他の客からその姿を隠した。仲人は周囲の親族にも聞こえる声で、朗らかに言った。

「おやおや、お兄様。こちらのお家自慢の古酒を、少々急にお勧めしすぎたようですな。長旅とお役目のお疲れも出たのでしょう。……これ、女中たち。お兄様を控えの間へお連れして、少し風に当たっていただきなされ」

 誰にも恥をかかせず、その場を乱すこともない差配だった。花嫁は隣に座る新郎を、初めて頼もしいと思った。




 兄は控えの間に通され、ひとりになってしばらく呆然としていた。花嫁が緊張の中落ち着いているのに、実家を代表する身として自分が情けなくなった。気を取り直して目の腫れがおさまるのを待って、女中に案内を頼み、座敷の出入り口で膝をつき、上座の方向へ軽く一礼し、静かに宴席に戻った。その時、大奥様と一瞬だけ目が合った。大奥様は何もおっしゃらず、わずかにうなずかれた。大奥様は気付かぬふりをしてくれているようだった。

 落ち着いたところで、兄は全然手をつけていなかった御膳をいただいた。周囲は膳もあらかた進み、宴席にはようやく低い話し声が交わされるようになってきた。兄は箸を置き、上座へ向き直った。

「大奥様。先ほどより申し上げようと思っておりましたが、その帯飾り、まことによくお似合いでございます」

 黒地の上に、二色の金でかたどられた蔓が細く伸び、そのところどころに真珠の実が浮かんでいる。巴里から持ち帰り、先般自ら贈ったブローチだった。古い家のしきたりを何より重んじる大奥様が、その舶来の飾りを身につけている。

 その言葉を待っていたかのように、座敷の女たちの間に小さなどよめきが起こった。
皆、とうに気づいていたようだが、初めて伝統とは違う大奥様の装いについて、自分から口にすることは憚られ、ただ目の端で、見慣れぬ金の蔓が気になっていたのだった。

 仲人婦人が、ためらいがちに身を乗り出した。

「まあ……ほんに、美しゅうございますねえ」

 間近に見る舶来の宝飾品に、その目がうっとりと細められる。

「金の葉に、真珠の実やなんて。ほんに、蔓がそのまま伸びてるようやこと」

 大奥様は帯の脇へわずかに目を落とした。

「今日だけどすえ」

 きっぱりとした口調でおっしゃった。

「せっかく遠いところから、よい意味を持つ品を選んでくれはったのやさかい」

 それだけ言うと、大奥様は兄に向かって、ごく浅く頭を下げた。その礼が、贈り物だけに向けられたものではないことを、兄は悟った。




 式が終わり、女中の手伝いで重い着物を少し緩めた花嫁のもとへ、女中を一人伴って大奥様が部屋をたずねてこられた。女中たちは席を外した。
大奥様は、今までの厳格な儀式の顔とは違う、柔らかな微笑みを浮かべていた。

「……今日一日は、さぞお疲れになったことやろ。不慣れなお姿で、長いお式をよう勤めてくれはりました。今の若いお嫁さんは、こういう古いしきたりにはさぞお抵抗がおありやろ、と事前に書付けを届けた時から、ずっと案じておりましたえ。直前にお声もかけられず、心細い思いをさせましたな。けれどな、うちといたしましては、お前様にこの上ない礼を尽くして、お迎えしたかったんどす。……ほんの、今日一日だけのことどす。我が家に何代も続いてまいりました、一番格式の高い婚儀の姿で、お前様を皆に、ご先祖様にお披露目したうてな」

 大奥様は、花嫁を気遣いながら美しい箱から祇園の眉墨を取り出した。

「明日からは、この黛を使っておくれやす。祇園のお姉さん方もこぞって求めはる、品のよいお品どすさかい、お前様の美しいお顔によう映えると思います。
あのお歯黒道具はな、お前様を、うちの大事なお人として迎えたい──その一心で誂えたものどす。これを済ませたら、お前様はもう、よそのお方やあらしまへん。うちの身内どす。これからは、何もかも一人で抱えて、気を張らんでもよろし。うちが大事にします。どうぞ、うちの『おかいらしいお人』になっておくれやすね。明日の朝から、さっそくお寺さんやお社、ご親戚へのご挨拶回りに出かけますえ。明後日はご近所へのお披露目もありますし、ここからが、うちの主婦としてのお務めどす。今夜はようお休みなさいませ」

 と、それだけ伝えると静かに戻っていった。

      ◇

 翌々日には、近隣へのお披露目が予定されていた。
その始まりは、兄が婚礼道具を届けに訪れた折、嫁入りの日に婚礼道具の一つとして運び込まれる、海を渡ってきた舶来人形の話をしたことだった。大奥様は、それほど珍しく貴重な調度であるなら、家の内だけにしまっておくには惜しい、広く人の目に触れさせるだけの値打ちがあると考えたのだろう。

 兄の訪れから幾日も経たぬうちに、花嫁のお披露目も兼ねて屋敷の離れを開き、人形を披露することが決まった。家人たちはただちに支度に取りかかり、その知らせも近隣一帯へ広く触れられていた。当日は、身分の別なく、この日に限って広く門を開き、訪れた者にはもれなく祝いの餅や菓子を振る舞う手はずまで整えられていた。
花嫁を迎えた家の慶びを、近隣の者たちとも分かち合おうという計らいだった。




 祝言から三日目、離れでは舶来人形のお披露目が行われた。海を渡ってきた珍しい人形の噂は、すでに近隣一帯へ広まっていた。当日は老若男女を問わず、近在の者はもちろん、噂を聞きつけた遠方の人々まで、大勢が庭を訪れた。

 広く人々の目に披露されるのは、あくまで舶来人形だった。若奥様は、見物に訪れた人々の前へ出続けることはなく、母屋の奥座敷に控えていた。この日は人形のお披露目とともに、御当家へ新しい嫁が入ったことを近隣へ知らせる日でもあった。親戚や近隣の有力者、日頃から屋敷と付き合いのある商家の者など、家として挨拶を交わすべき客だけが奥へ通され、若奥様に祝いの言葉を述べた。若奥様はその都度、丁寧に頭を下げ、婚家の嫁として挨拶を返した。けれど、子どもや物見遊山に訪れた者たちまで、若奥様の姿を見に行くことはない。

 庭と離れでは、珍しい舶来人形をひと目見ようと集まった人々の声が絶えず、奥座敷では、若奥様が静かに客を迎えていた。人形の華やかさと、奥に控える若奥様の慎ましい佇まい。その二つは、同じ屋敷の中にありながら、まるで異なる美しさを見せていた。

 呉服屋のおかみさんがうっとりした様子で言った。

「西洋のお召しはひだが多いさかい、絹の玉虫色の照りがほんによう映えて、きれいやこと」

 呉服屋の旦那さんが人形からたなびくレースを真剣に眺めていた。

「あの『紋紗(もんしゃ)』という生地はどのように織られているのか、どんな刺繍なのか、またじっくり見せていただきたいのお」

 未知の西洋素材を、自分が知る日本の織物である「紋紗」に当てはめて理解しようとしていた。


東京帰りの役場勤めの旦那さんが言った。

「あれは織物ではありませんよ。レースという透かし模様の生地で、絽や紗と違って糸が細く軽いので、身体の線に沿って流れるように纏えるのですよ。東京でも洋装の御婦人を多く見かけるようになりましたが、これほど本格的な装いはまだ見たことがありませんな」

 お茶屋のおかみさんが不思議そうに言った。

「あらまあ、お瞳に瑠璃色のぎやまんが嵌め込まれてはるけど、ほんに不思議やねえ。異人さんはこんな宝石のようなお瞳で景色がどんな色に見えてはるんやろか」


 近辺の裕福な人たちは、またお屋敷を訪ねることも出来る余裕から、長居をせずに次へ場所を譲っていった。周囲の立派な身なりの大人たちに圧倒され、遠慮して遠くから眺めていた子どもたちも、

「ほれ、もっと近くで見ておいで、なかなか見られへんで」

 と、気のついた大人たちに縁側の近くまで導いてもらった。

 その子どもたちの中に、赤ん坊を背負って、弟であろう、小さな男の子の手をつないで呆然と立ち尽くしている裸足の幼い娘がいた。人形のあまりの美しさに魅了され、ただじっと見惚れることしかできないようだった。初めて見る金髪碧眼の西洋人形が、人の姿をかたどったものとは思えない、この世のものとは思えぬもの──天女様のように思えた。ベールがまるで伝説の羽衣のように見えていた。その布は柔らかく光を受け、見たことのない異国の花模様が浮かび上がっていた。そして、青いびいどろの瞳に魅入っていた。

 時間を忘れてじっとしていたので、手を繋いでいた弟がぐずり始めた。弟が退屈そうにしているのを見て、ある美しい婦人が、

「これお食べ」

 と、巾着から干し葡萄をいくつか、弟の手に乗せ、残りは懐紙に包み、

「少ししかあらへんけどお食べ。喉に詰めんよう、よう噛んでね」

 と、娘にも手渡した。娘は、白檀の香りの漂う美しい婦人に緊張し、

「お、お、おきに……おおきに」

 と、深くお辞儀をし、背中の赤ん坊がずり落ちそうになった。

 遠くから子守の娘の様子を見ていた女中が、心配して、いろいろ聞いた。年齢は九歳で、手を繋いでいる弟は三歳とのことだった。

「おやまあ、裸足で痛うないのかえ?」

 子守の娘はそれなりに礼儀正しく言った。

「草鞋が減るからいつも裸足です」

 と、カチカチの足の裏をチラッと見せた。でも、連れていた弟の足には、古い草鞋の底をシュロ縄でぐるぐるに巻き付けてあった。

 聞けば、隣村から二里(約八キロメートル)、きょうだいである赤ん坊と弟を連れて歩いてきたそう。親にはお屋敷でのお披露目に行くことは言ってあり、子守さえしていればどこに行ってきてもいいとの事だった。

 女中は驚き、

「ちっちゃい子が、ちっちゃい子連れて、まあ……ぐずらはらへん?」

 娘は弟の頭を撫でながら答えた。

「はい、休み休み来ました」

 女中は、そんな大変な中でも健気に来てくれた子供がいることに感激し、若奥様に伝えに行った。

「若奥様、あのお人形に、皆様、えらい感激したはりますえ。……ご覧やす。あの子守の子、なんときょうだいを連れて、隣村から二里も歩いてきはったそうどす。お人形のベールのことを、天女の羽衣のようやと、見たことのない美しい布やと、言うたはりましたえ」

 若奥様は女中に促され、奥の間から外の様子を見に行った。周りの身なりの立派な人々の中、子守の娘は明らかに浮いているみすぼらしい身なりで、赤ん坊を背負い、小さな男の子の手を繋ぎ、それでも幸せそうな顔で、うっとりと西洋人形を眺めていた。

 若奥様はまず、娘が裸足であることに衝撃を受けた。そして小さな体で赤ん坊を背負い、弟まで連れている。その慣れた様子から、その姿が日常的なものとわかる。あの子は学校で教育を受けられているのだろうか? 自分は裸足で外を歩いたことはないのに。使用人に世話してもらって、女学校にも行かしてもらった……自分の境遇に引き比べて、初めて出会う農村の子供の現実を目の当たりにしたのだった。

 周りの大人たちは、今日は地域に開かれた、めでたいお披露目の場なので、子供の身なりを気にすることはなかった。しかし子守の娘は、羽衣をまとった天女のような西洋人形や、初めての香りのする婦人に出会い、美しいものに出会えた感激が胸に満ちるほど、急に自分の姿が恥ずかしくなった。


 子守の娘は、ゆっくり帰りかけていた。若奥様は、女中のそばで、

「おむすびでも、食べさせてあげたいなあ」

 と、意識せずつぶやいた。女中は、口実を得たように、

「へえ、すぐご用意してまいりますえ」

 と、屋敷のかまどに残されていた白いご飯で俵形のおむすびを手際よくこしらえ、賄いに置いてあった干し芋も一緒に手ぬぐいにくるんで、娘を追いかけた。
とぼとぼと歩いていた娘を呼び止め、

「若奥様が、お食べやて。お腹すいてるやろ? ほれ、この子には干し芋、持たしとき」

「内緒え」

 と言って、すぐ戻って行った。娘は、

「おおきにー」

 と、大きな声でお礼を言った。




 二年後の晩秋、若奥様の部屋の近くで、使用人たちが噂をしていた。昨年から不作が続いていた。

「あの、隣村の子守の子お、覚えてはる?」

「えらい遠くから来とった子やろ、うちの親戚が近くに居るからよう知っとるわ。あんな小さい子ら連れてなあ。大人でもよう来られへんと思ったわ。ちゃんと帰れたんか心配しとったんよ。それが、どないしたん?」

「あの娘、売られるらしいで」

「へえ……まだ子どもやないの。かわいそうに。親は何してはるん」

「不作がつづいて、去年はどないかして持ちこたえたみたいやけど、もうあかんくなってもうたらしいわ」

「そないか、どうしようもないんやろな……」

 噂話にしては、声がはっきりとしていた。もしかすると彼女たちは、その話を若奥様に聞いてほしかったのかもしれない。自分たちの力ではどうにもできない現実を前に、わずかな希望を託して。

 若奥様は、その言葉を聞いて心を痛めた。だが、自分に何ができるのかは分からなかった。ただ一度、遠くから見かけただけの子どもだった。それなのに、何かの折には、なぜかあの姿を思い出した。赤子を背負い、幼い弟の手を引きながら、遠い村から西洋人形を見に来た、まだ幼い子守の娘。美しいものを見つめる瞳は、あれほど輝いていたのに。生まれ落ちた場所が違っただけで、あの姿は自分だったのかもしれない、と思うことがあった。

 そして若奥様は、「売られる」という言葉の先にあるものを、知らぬではなかった。どこぞの旦那衆が、どこぞから女を身請けしたという噂。囲い者を置いたという話。自ら経験したことこそなかったが、娘時代から人づてにさまざまな話を耳にしており、世間のことにまるで疎いというわけではなかった。苦界に身を沈めるということの意味も、おぼろげながらも知っていた。まだ子どもである娘が、そのような場所へ売られるかもしれない。そう思うだけで、胸が張り裂けそうになった。

 そのころ、若奥様は身ごもっていた。西洋人形は、これほどつらそうな若奥様を見るのは初めてだった。

 屋敷の中では若奥様として大切に扱われ、皆に支えられていた。けれど実際には、家の中のことを決める権限を、まだ何ひとつ持ってはいなかった。家政を預かっているのは大奥様だった。若奥様は何日も思い悩んだ。つわりも重くなり、食事も進まず、顔色も優れない。理由もないのに涙がこぼれることもあった。周囲の者にも、その不調が隠せなくなっていた。つわりにしては症状が重いので、大奥様が医者を呼ぼうとした時、若奥様はようやく決心した。

「差し出がましいとは存じますが、お願いがございます」

 一言、また一言と、慎重に言葉を選んだ。

「しきたりに反する願いであることは、承知しております。ですが、どうかお聞き届けいただけませんでしょうか」

 若奥様は、あの村娘を屋敷の小間使いとして置いてほしいと願い出た。読み書きも、屋敷での作法も、自分が責任を持って教える。仕事も一つずつ覚えさせ、決して周囲に迷惑をかけさせない。そう約束した。

 本来この屋敷では、十分な教育を受けていない者や、まだ幼い子どもを使用人として入れることはなかった。人手に困っていたわけでもない。大奥様は、しばらく何も言わなかった。若奥様が日頃から嫁としてよく務めていることも、その願いが一時の気まぐれではないことも、分かっていた。何より、身重の身体で思い詰めていることを案じた。
やがて大奥様は、その願いを許した。ただし、静かにこう言い添えた。

「このたびのことは、特別どすえ」

「お家には、お家のご格式というものがございます。世間さまへのお立場もございましょう。人には皆、それぞれに守るべき分というものがおす。情を持つことは大切なこと。けど、その情に引かれて、道を見誤ってはなりまへんえ」

 西洋人形には、分からなかった。

「人助けは、いいことじゃないの?」

「家の格式って何よ。一人の女の子を助けようとしたことの、何がそんなにいけないの?」

 目の前に救える子どもがいる。若奥様は、その子を救いたいと願っている。それだけのことが、なぜこれほど難しいのか。

 けれど大奥様の言葉は、若奥様を責めるためのものではなかった。家名と伝統を預かる者には、守らなければならないものがある。時には、目の前の一人を思う心だけでは決められないこともある。残酷に見える判断を、自ら引き受けなければならない時もある。大奥様は、その重みを若奥様に伝えたかったのだった。

 若奥様は深く頭を下げた。

「心得ております。決して、このご恩を軽んじることはいたしません」

 こうして、あの村娘は屋敷へ迎えられることになった。それは若奥様が初めて、自らの意思で、誰かの人生を引き受けた出来事だった。




 村娘が屋敷へ迎え入れられた日。娘は、おそるおそる敷居をまたいだ。そこまではよかった。しかし、部屋へ通された途端、何も知らずに畳の縁を踏んだ。

「あっ」

 若奥様は、思わず声を上げてしまった。娘はびくりと足を止め、何か取り返しのつかない粗相をしたのかと、不安そうに若奥様を見た。娘の生家には畳がなかった。家の中は板敷きで、畳の縁を踏んではならないことなど、知る由もなかったのである。若奥様は、すぐに自分の驚きを収めた。

「大丈夫。叱ってるんやないのよ」

 そう言って、畳の上での歩き方を一つずつ教えた。娘は、こくこくとうなずいた。

 屋敷の者として身につけなければならないことは、あまりに多かった。敷居のまたぎ方。畳の縁を踏まないこと。襖の開け閉め。座る場所。頭の下げ方。人を呼ぶ時の言葉。廊下ですれ違う時の身の引き方。文字も、ほとんど読めなかった。若奥様は、娘の教養のなさに、最初こそ戸惑った。どこから教えればよいのかさえ、分からないほどだった。

 それでも、娘をなるべく自分のそばに置いた。娘が屋敷へ迎えられてから、若奥様が出産するまでには、七か月ほどの月日があった。身重の身体を休める時には、娘も近くへ座らせた。紙に文字を書いて見せ、声に出して読ませた。屋敷の作法も、一度に多くを求めず、一つずつ教えていった。

 娘もまた、若奥様から教わるだけではなく、ほかの女中たちについて屋敷の仕事を覚えていった。初めは畳の縁さえ知らなかった娘が、廊下の歩き方を覚え、襖を静かに開け、言いつけられた品を間違えずに運ぶようになった。掃除や水仕事、衣類を畳むことなど、できる仕事も少しずつ増えていった。

 娘は、教えたことを懸命に覚えた。乾いた畑が雨水を吸い込むように、教えれば教えただけ、娘は新しいことを身につけていった。一度間違えたことは、次には繰り返さない。分からないことがあれば、恥ずかしそうにしながらも自分から尋ねた。物覚えのよさに、若奥様の方が驚かされることもあった。七か月が過ぎる頃には、まだ一人前とはいかなくとも、ほかの女中たちと一緒に、屋敷の仕事を務められるようになっていた。

 屋敷の中で大切に扱われながらも、若奥様は、自分の居場所や役目をまだ十分には見つけられずにいた。家のことを決める権限はなく、古くからのしきたりは、すでに大奥様と長年仕える者たちによって滞りなく守られている。自分がいなくても、この家は何ひとつ困らないように思える時があった。

 けれど、娘にものを教えている間だけは違った。娘は若奥様の言葉を待ち、教えられたことを喜び、できるようになるたびに顔を輝かせた。若奥様にとっても、その時間は楽しいものになっていった。自分の知っていることが、誰かの明日を少しずつ変えていく。それは若奥様がこの屋敷へ来てから初めて見つけた、自分の手で果たせる役目だった。

 西洋人形は、二人の様子を近くから見ていた。畳の縁さえ知らなかった娘が、日に日に屋敷の中で身の置き方を覚えていく。そして娘が何かを覚えるたび、若奥様の表情も少しずつ明るくなっていった。



 月が満ちて若奥様は、無事に男児を産んだ。
 待ち望まれていた跡取りの誕生に、屋敷中が喜びに包まれた。


 小間使いとなった娘は、産後の慌ただしい屋敷でも、よく働いた。若奥様の使いに走り、産着を運び、湯の加減を確かめる女中たちの間を、小さな体で行き来した。

 用事の合間、娘は人形の飾られた部屋へ、はたきと箒を持って入ってきた。棚や鴨居の埃をそっと払いながら、ぽつりぽつりと話しかけた。

「今日は、坊ちゃんがお笑いになりました」

「若奥様が、私の縫うた雑巾を、上手になったと褒めてくださいました」

 返事のない相手に、娘は律儀に頭を下げて出ていく。
 人形は、それが少し、嬉しかった。

「いいのよ。あんたの話、聞いててあげる。あたし、暇だから」

 跡取りを産んだことで、若奥様はようやく、この家に自分の居場所ができたように感じたのかもしれない。けれど本当は、その居場所は少し前から生まれ始めていた。何も知らなかった村娘に文字や作法を教え、その成長を喜び、自分の知ることが誰かの役に立つと知った時から。
 母となったことと、人を導く喜びを知ったこと。その二つが重なって、若奥様はようやく、自分もこの家を支える一人なのだと思えるようになった。

 若奥様は、その頃流行りの紫の着物をよく着た。
 濃い紫、藤色、灰の混じった紫。文机に向かい、静かに筆を運ぶ。 

 着物というものについて、人形には、かねてから言いたいことがあった。

「せっかくのシルクなのに、紙を巻きつけてるみたいなんだもの。この国の人たち、女性の曲線美というものを分かってないのよね」

 肩をあらわし、胸元を飾り、コルセットで腰を絞って、シャンデリアの下で回ってみせる。人形の知る美しさは、見せる美しさだった。

 ある日、文机の若奥様が筆を取った。
 反対の手が、そっと袂を押さえる。
 その袖口から、白い手首が、わずかにのぞいた。

「……何あれ!」
 人形は、思わず心の声を上げた。
「手首がちょっと見えただけなのに、何だかずるいわ。あたしたち、コルセットで一生懸命締め上げて頑張ってるのに、あれだけでセクシーに見えるなんて!」

 誰に見せるためでもない、何気ない所作だった。
 湯呑みへ手を伸ばすときも、襖を引くときも、若奥様の手は同じように袂を押さえる。
 磨かれて何も置かれない床の間や、一輪だけの花の美しさは、人形にはまだ分からない。
 けれど、袂を押さえるあの手の美しさだけは、その日、分かってしまった。
「べ、別に、憧れてるわけじゃないんだから。ただ、あの紫と、あの手つきが、ちょっといいと思うだけよ」

 人形の手入れは、いつも若奥様が自らなさった。
 柔らかな布で頬を拭い、巻き毛をくしけずり、ドレスの襞を整える。海を渡ってきた婚礼道具を、若奥様は今も、丁寧に扱った。

 人形は、不思議に思っていた。
「お屋敷の若奥様なら、お手入れくらい使用人に任せたらいいのに。……あたしを独り占めしたいのかしら。ふふ、仕方ないわね」

 ある日、女中たちが座敷の掃除に来た。年嵩の女中が、学校を出て行儀見習いに上がったばかりの娘に、座敷の手入れを教えているようだった。
 行儀見習いの娘が、人形へはたきを向けかけた時、年嵩の女中が落ち着いた口調で止めた。

「そのお人形は、あきまへんえ。若奥様がご自分でお手入れなさいますさかい、わたしどもは触れたらあかんことになってますのや。たいそう繊細なお品やさかい、もし壊しでもしたら、えらいことになります」

「お披露目のお片づけの折にな、ベールを衣桁に引っかけて、糸を引きつらせてしもうた者がおりましてねえ。顔を真っ青にしてましたわ。若奥様は、お咎めなしにしてくださいましたけど」

「それからは、わたしどもに責めを負わせんようにと、ご自分でお手入れなさることにしはったんです」

 年嵩の女中は、行儀見習いの娘の目を見て、静かに言い添えた。

「お嬢さんも、いずれお嫁に行かはったら、奉公人にも心を配ってやらはるようになさいませ。若奥様のように」

 どうやら人形の扱いは、女中たちの申し送りになっているらしかった。
 ──独り占め、じゃなかったのね。
 人形は、少し黙った。
 壊した者を咎めず、壊させないように、自分の手間を増やす。
 この国の優しさは、飾らないところに置いてあるらしい。

 冬が来た。
 小間使いの娘の様子が、おかしくなった。
 部屋へは来る。埃も払う。挨拶もする。
 けれど、独り言を言わなくなった。
 俯いたまま手だけを動かして、来た時よりも静かに出ていく。目の縁が、赤い日もあった。
「……なにかあったのかしら」
 人形は、聞くことができない。尋ねることも、慰めることもできない。
 ただ、いつもの話し声がないだけで、部屋がこんなに寒く感じられることを、人形は初めて知った。

 その冬のうちに、人形は離れへ移されることになった。
 跡取りが立って歩くようになり、目に入るものへ何にでも手を伸ばすためだった。繊細な人形は、当面、幼子の粗相の届かぬ場所で預かられることになったのである。
「ちょっと。あたし、追い出されるの?」
 抗議は、誰にも聞こえなかった。

 離れの座敷は、静かだった。
 磨き込まれた畳。何も置かれない床の間。障子を透かして、雪明かりだけが座敷に届く。
 ──ああ、これが、この国の「何もない」なのね。
 飾らないのではなく、光と影に場所を譲っているのだ。
 巴里を出て五年、人形は、少しだけそれが分かるようになっていた。
 それでも、ふとした拍子に思い出すのは、悲しそうな顔をしていたあの娘のことだった。
「……あの子、もう元気になったかしら」
 理由を知らないまま、人形は離れへ来てしまった。
 尋ねられないままの問いだけが、人形の中に残った。

 離れへ移っても、若奥様は変わらず、人形の手入れに通ってきた。
 渡り廊下を、足袋の音を忍ばせて。雪の日も、休まなかった。
 その日も若奥様は、人形の前へ膝をつき、そっと埃を払った。
 ふと、人形は気がついた。
 帯のあたりが、ほんの少し、ふっくらとしている。
 立ち上がる時、腰を庇うような、あの仕草。
 ──間違いないわ。
「もう五ヶ月ってところかしらね。和服だと、あまりわからないわね」
 若奥様は何も語らず、人形の巻き毛を整え終えると、静かに微笑んで座敷を出ていった。
 障子の向こうは、音のない雪だった。
 悲しみの理由も、新しい命のことも、この座敷にはまだ、誰も告げに来ない。
 それでも人形は、待つことにした。聞くことしか、できないのだから。


▷次話:舶来人形東洋見聞録(3)―回生編―



あとがき

 この明治時代の嫁入りをめぐる物語を書こうと思ったきっかけは、私事になりますが、今月上旬に迎えた実母の一周忌でした。
 親族で集まり、それぞれに母との思い出を語るうち、私自身の幼い頃の記憶も、次々と蘇ってきました。
 母は昭和の専業主婦で、大勢の子どもを育てる傍ら、朝ドラなどを楽しみに観ていました。小学生だった私には、当時、何がそれほど面白いのか理解できませんでしたが、再放送されていた『あかんたれ』の志垣太郎さんの美しさだけは、今も不思議なほど印象に残っています。
 家や家族の中で懸命に生きる人々を描いた物語を、母はどのような思いで観ていたのでしょう。
 この物語も、そんな母に読んでもらうような気持ちで綴りました。


全4話 収録マガジン


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