【乖離研究5】DECO*27さんと赤い目隠しさん。一人称劇場という表現形式。「浄化」としての作品制作の可能性、あるいはただの現実との乖離。
ふとした時に、デコさんの「モデリング」(あ、違った。「モニタリング」だ)が頭をよぎる。僕の中で何か問が立っているのだろう。違和感が残っていた。
一人称劇場だ。
はっ!
とした。
デコさんの曲をいくつか聴いてみた。デコさんらしい曲は、全て、一人称で、視聴者に向かって「喋っている」。「話しかけている」。(そんなこと知ってるよ!とこの記事の読者はいうかもしれない。ただ、僕にとっては発見だったのだ)。
一人称劇場と言ったら、僕の中ではこの人しかいない。(というかこの人が最初に出てくると言った方が正確)。
赤い目隠しさんである。
赤い目隠しさんである。
(大事なことなので2回言いました)
赤い目隠しさんの一人称劇場は、、、、、ん?何かの記事で書いたような?とにかく、目の前にキャラクターがいるようなリアリティーがある。
そして最近になって「ダークサイド」シリーズが投稿された。それは赤い目隠しさんの「純愛」に重みを、リアリティーを与える仕掛け?だという。人間の全体性を全部出してこその感動。楽しいだけのイチャイチャではない。
僕はそういう両面性をちゃんと「リアル」に表現する赤い目隠しさんを尊敬している。何よりも、視聴者への「気配り」がすごい・・・・動画投稿欄の全てが、赤い目隠しさんの気持ちで溢れている。
赤い目隠しさんである。
(大事なことなので3回言いました)
さて、デコさんの曲。乖離研究で何度か出てきてもらったことがある。が、今回は別視点だ。(と言いつつ後で乖離の話に戻る)。
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一人称劇場としての楽曲。そこには「口語」表現がある。
何も難しいことは言わない。日常的な、若者言葉、砕けた言葉、親しみのある言葉を使う。それだけでも、言葉が「届きやすい」。解釈の余地がない(そこに解釈を打っ込むこともできるけれど、ブッ込まなくても、受け取れる)。
言葉が短いからリズムにも乗りやすい。おふざけもできる。
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いややっぱり乖離の話をしよう。以前僕はこんな記事を書いた。
僕は「モニタリング」という曲を真面目に捉えた。だから、どうしてこんな重大なテーマを茶化すのか。僕はそれを「媚び」ではないかと表現した。(しかし今回、それが間違っていたという話だ。思えば、『モニタリング』だけ?が重大なテーマを扱っているという一貫性のなさに違和感を覚えるべきだったのだろう)。
今思えば、「モニタリング」は完全な「ヤンデレ」目線(ごめんなさいヤンデレという言葉をうまく理解できていないかもしれません)であって、全く、デコさんはテーマの深刻さを想定していないということ。(モニタリングという言葉には、盗聴、盗撮くらいの意味しか込めていなかったかもしれない)。
だとしたら、乖離ではなく、まさに、歌っているキャラ、その言葉と合致している。
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ここでデコさんの曲を一人称劇場としてみると。
劇場に一人の俳優が立っているとしよう。そして喋る。もちろん、視聴者から、観客からは何も返事がない。(赤い目隠しさんの動画はそれが想定されているが)。だから演じ続ける。それが一人称劇場としての「曲」なんだろう。ここには、一人しかいない。デコさんの曲には、舞台の上には、一人しかいない。
そして別の曲で登場するのも、「似たような」キャラ。(声が人の人格を表すとしたら、どの曲のトーンも僕には同じに聞こえる。もちろん、喋っている内容が違うから別人なのだろうが)。曲が違っても、同じような「おしゃべり」をするキャラが出てくる。(赤い目隠しさんのようなダークサイドな<側面>は出てこない)。
言うなれば、「可愛い」キャラが性的に魅了する。そんな曲が多いのではないだろうか。それに観客は歓喜する。僕は、そんな姿を想像する。
僕は乖離系のあり方の一つを「ドラッグ」と表現した。<仮想>と<現実>を曖昧にするような。<現実>を忘れさせるような。その点で、音と言葉の乖離はなくなったが、視聴者、観客に乖離を促す可能性が新しく出てきた。
「興奮」
「快楽」
それが人間性の何に寄与するのか。僕の想像はまだ及ばない。
(女性にとっては、デコさんの曲は「可愛い女の子」のリファレンスになるのかな?)
参考記事↓
何を語りかけるか。
ネットという世界に、どんな「キャラクター」を立たせるのか。何を語らせるのか。
それが、作者にとって、どんな意味があるのか。
デコさんは、デコさんの曲を多くの人が聞くことに、どんな価値を見出しているのか。話を聞きたいと思った。(ん?AIに調べてもらおうかな)
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1. “自分の世界”を作品に込めたいから
DECO*27さんは、自身の制作スタイルについてこう語っています:
「作品の中に自分の世界を作るっていうのが、僕は一番好きなんですよね」
制作については「生活の一部みたいになってる」「それをやらないと自分を保てないっていうぐらいのレベルで」とも述べ、その創作への執着と必要性が強く感じられます
もしこの言葉が本当だとしたら、仮にこの言葉だけから判断すれば。僕が思うに。デコさんの世界というのは。誰も救いようがなく、ただおしゃべりをして、明るく振る舞って、大事なこともなかったことにしながら、ハイになって気を紛らわす世界なのだろうか。僕はデコさんの音から、そんなことを感じた。(もしかしたら、デコさんはこうやって嫌な気分を「浄化」しているのかもしれない。嫌な気分?女の子がらみの?恋をして付き合ってうまくいかなかった女の子をデコさんなりに理解しようとする営みなのだろうか?)。
だとしたら、こういうことだろう。

本人と話さないと、わからないことだけど。(かなりプライベートな話だけど、この話はデコさんのリスナーさん、デコさんの曲を聞く人にとって、その人間性にとっては大事なことだとも思う)。
本人と話したことないから、この記事はただの憶測だけど。僕はそう感じた。
一方的に判断したくないと僕は思う。いつだって、<理解>は<不理解>の表明でもあると、僕は思っている。
この記事で不快な思いを持った人はいるかな?もし嫌な気持ちになったらこの曲を聴いてください。

デコさんの曲も、赤い目隠しさんの動画も、誰かの人間性に寄与しているだろうか。人間性の理解に、寄与しているだろうか。
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大事なことをもう一度言っておこう。一人称劇場といえば
赤い目隠しさんである。
(大事なことなので4回言いました)
