【乖離研究1.5】自己治癒としての音楽、あるいはモニタリングの臨床心理学的考察(DECO*27さん)、もしくは媚。

乖離研究シリーズとしてのこの記事20250819加筆

この記事の位置付けがよくわからなかった。ある意味で僕の曲『おままごと』のライナーノートであるが。

今日こんなことを思いついた。

デコさんのモニタリングって、どうして乖離しているんだろう。

乖離によって軽くなる。けどテーマは重たい。
テーマは重たい。
けど、音は軽い。
乖離している。

その乖離感が曲の中で構造として意味を持つ(開き直るとかいう意味)ならまだしも。この曲はただ単に「おしゃべり」にしている乖離だと僕は感じている。

そのせいで。

そのせいで!この曲、というか動画がただの「考察動画」になって喜ばれているのではないか。と僕は思う。

いろんな人に聴いてもらうための工夫。と言ってもいいだろう。ドラッグが欲しい人にも受け取ってもらえる、けれどもちゃんとメッセージがある。両方、バランスを取る工夫。とも言える。

けれども僕は、乖離のせいでメッセージが伝わっていない可能性を想像している。

「乖離させるべきではなかったのではないか」。

大衆に向ける。大衆に迎入れられる。そのために削ぎ落とした<現実>は大きい。

と、思った。

結局、子どもたちを喜ばせるために、大事な<音>と<言葉>を、バラバラにしてしまった。それをなんとかくっつける工夫を凝らす。

それは、音楽家のやることではない。アーティストのやることではない。

と、痛烈に言っておこう。(僕はアートという言葉に、音楽という言葉に、強い意味を込めている。)。ただ、音楽家だけが曲を作るわけではない。音楽屋も、曲を作れる。

と強烈に言ってしまいたいくらい、僕は、この乖離という現象の社会的な意義を想像している。(みんなで、ハイになろうぜ!)

メッセージがある。臨床心理学的な意味がある。ただ、その表現方法が、あまりにも、媚びている。大衆に。(そんなことはない。デコさんは元々こういう人で、媚びているわけじゃなくて、最初から、こうなのだ。としたら、媚びていない)。

社会的意義なんて言葉、自由主義経済の前では、意味をなさないのだけれど。

「なぜ曲を作るのか」

私は私自身への理解と不理解を、そしてあなたの理解と不理解を表明します。

「なぜ曲を作るのか」

それは僕が曲ではなく作者に向ける大きな問いであり、曲を作るという1人の人間の営みが、僕にはどうしても大事なことのように思える。そこで、言葉にする。音をつける。僕は、本居宣長の歌論に僕が曲を作る動機を、言葉にはしたものの不確実ではある心の形を持っている。(あれ?変な日本語になったな)。

ここで一つ例を出そう。臨床心理学の事例の一つ。とある子供が、集団で連れ去られ、監禁された。彼ら彼女らは助かったが、心的外傷を負っていた。彼らは、お人形遊びで、自分たちが受けた「残虐な」仕打ちを、もしくはそれ以上に再現した。そのプロセスが、彼らの「心」を整える行為であった。忘れようとしても思い出す、もう意識に上らないようになっているが無意識の領域ではまだ消えていない残像。「忘れられない」その出来事を脳のどこかにしまっておくために、彼らは「経験」を再現した。脳は、繰り返すことで、次第にその意味づけ、評価をきちんと行うことができるようになっているのだろうか。(それにしても僕は失敗をよく繰り返す。そろそろ、どうにかしてくれ、僕の脳よ。脳のせいにしてごめんなさい)。


ーーー

言葉と音が乖離した曲の「理解」も進んだ気がする。それはもしかしたら、「音」が掴めない、つながらない、つなげるには心もとない、まだ繋ぐために十分な何かが足りない。「言葉」を音に乗せるだけでも精一杯だ。そんな作者の心的状態を表しているのかも知れない。かも知れない。その可能性は、あると思えた。(もちろんそれは、表現の形式としても、あり得るし、その乖離こそが「言葉」が要求するものである可能性を、僕は想像している。あまりにも重たくなってしまった「言葉」を軽くする魔法のようなものを、僕は想像している)。自分にとって重大なことを「ポップ(それはポップコーンが弾ける音である)」な音に乗せる必要性、必然性を、僕は想像している。

「沼」の中から、「音」で引っ張り上げてもらう。

「音」が重くなったら、届かない、響かない「言葉」を僕は想像している。

おーん

複数の人格。俳優。その人物に自分を投影すること。

なりきる、演じる、思い出す、やり直す、あの時できなかったこと、してほしかったこと、言葉にできていなかったこと、感じていなかったこと。

「曲」の中に出てくる人格が、痛みを感じていた「自分」であり、誰かに助けてほしかった「自分」であり、今の自分なら助けられるだろうか。そんな「やり直し」「感じ直し」としての「曲」を僕は想像している。

曲の中に出てくる人格に自分を投影する、などという言葉で「理解」したとは思いたくない切実さを、僕は感じている。

おーん

もうここまでくると、もう、失礼だ。

トータさんに怒られてしまう。(僕は僕をモニタリングしなきゃなぁ)

靴と爪

1人の人間の理解のしがたさに、本人ですら理解できていないかも知れないものへ他者が踏み込もうとするその傲慢さに、僕はしばらく息を止めたくなった。

ここでひといき

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モニタリング(DECO*27さん)の話

モニタリング、でデコさんの曲を思い出した。

https://www.youtube.com/watch?v=kbNdx0yqbZE

聞き直すと、この曲の乖離も、「曲」の必然性に感じられるようになった。僕の「認識」が変わった。なんだこりゃ。

開始数秒のドアの先にいる人格と、それ以降の「オーラ出している」人格は、別。

(サビ前の映像でオーラが出ていないのは、のぞいているのがリアルの人格か、ヴァーチャルの人格か)

オーラを出している人格は、タイトルの通り、「自分をメタ的に捉える(見つめる)モニタリング」「する」自分。

他者(リアルにドアの先にいる人格)がキッカになって、「おままごと」をすること。

お願いきみが欲しいの

きみ、を僕なら「きみ」と少なくとも括弧に入れたくなるところを、括弧に入れない。

(解釈の自由度を意図的に上げている?)

きみはひとりだ だから歌う「ひとりじゃない」

ここも最初の「ひとり」を「一人」と僕なら書いてしまいそうだ。

「ひとりじゃない」はモニタリングしている自分がいるとも、ドアの外で待っている「誰か」とも言える。

分けてくれなきゃ 君の“痛い”感じていたい 覗いていたい 吸い取って 救いたいんだってば

「痛い」をちゃんと感じるための、救われるための「ごっこ」遊び。

どうしても一人では手に追えない人が、「歌う」ことで、誰かと(たとえそれがヴァーチャル世界の人格であったとしても)「おままごと」をすることで、「一人」ではなくなる。それがたとえ「妄想」「空想」であったとしても。ヴァーチャルとは、リアリティーの一形態なのです。


これはある意味で、(僕の妄想上の)デコさんが「お前ら、俺が曲作って好きとかいうてるけど、それで終わりか?お前らはそれで満足か?」と問いかけているような気がする(その問い方が、上手い。凌辱社会を、上手に、人間性を殺されずに殺さずに器用に生きてきた人なんだなと、僕は思う)。想像。聴いて楽しむ、想像して楽しむ、楽しむだけで終わっていないか。ちゃんと、おままごとしろ、モニタリングしろ、そして、ドアを開けろと、デコさんは言っているんじゃないか(妄想、あるいは想像)。「きく」ことは容易い。「ききとる」ことは難しい。「きく」ことで受動的に与えられるものではなく、「とる」という能動的な音楽への関わり方というのは、リアルの人間関係でも同じではないのか。「能動的」にきくこと。それを巷ではアクティブリスニングというらしい。(専門用語かしらん。ちなみに世にいう傾聴とは違う←この言葉はすでに凌辱されました)。

(訂正。この曲はデコさんが作った、とは言えないかもしれない。だって、デコさんが関わる人が「こうしたら?」とか言っているかもしれないから。僕は、動画の最後のシーン、ドアの向こうの女の子がびっくりした顔を見せているのは、デコさんのアイデアではないと思っている。ただの推測だけど。僕はデコさんのことを知らない)。

モニタリング、自己への問いかけ、経験の再評価、整理、「歌」。

この曲は投稿から5ヶ月過ぎて5517万回再生されている(2025年4月25日現在)。概算して、日本の半数の人がこの曲を聴いているとしよう(世界中で聴かれているのだから、あくまで間違った前提だが)。それでもこの世界の「痛み」は続くだろう。それでも僕は僕なりに、歌っていきたいと思っている。

音楽性は人間性。乖離させることができない僕には、乖離させる必然性がある曲を作るような僕を「みたい」。

いるのかな?

痛みを「痛ましく」音にするしかない、自分を救えない僕を、僕はモニタリングしようと思った。

ーー

補足1

例の事件の子どもたちのごっこ遊び、お人形さん遊びの解説

お人形1 自分

お人形2 加害者

自分 お人形1としての自分をモニタリングする自分

お人形3 その他、助けてくれる人、別の子供、今の自分、などなど


補足2

現在、臨床心理学では突発的な出来事による心的外傷の他に、ゆっくりとじわじわ与えられてきた心的外傷を認めている。(複雑性PTSD?)誰もが、心的外傷を抱えている。どうしましょう?


蜜月



それにしても、エロとヤンデレ要素をこの真剣なテーマに入れる人間性を、僕は尊びたい。

(20250826加筆)

それは僕が持っていない、僕がもっと「自由」になる何かだと、僕は思っているから。ただそれは、自由主義経済を駆動原理とするこの世界において、自分の曲を多くの人に聞いてもらう、媚びへつらう態度でもあると僕は思っている。媚びへつらう、と強い言葉を選んだのは、僕はそのことに強い違和感を感じるからだ。嫌悪感を感じている、という表れだと思ってほしい。

この曲の真剣な、切実なテーマに対して、エロを入れる。大衆が喜ぶ要素を入れる。誤解をさせる。乖離していること自体が、そもそも誤解させるというのに。

この曲は、本当に、デコさんが作りたかったものなのか?それとも、他者の視線に晒されて、素材を殺してまで美味しく味付けされた料理なのだろうか?「いいじゃん、曲が受け入れられているんだから」。とするなら、それこそ自由主義経済の原理に則っている。それしか、多くの人に音楽を届けることは無理なのだろうか?だとしたら、僕は、多くの人に音楽を届けない道を探しているのだろうか?

ーーーー

難産。言葉が定まらなければ、音もわからない。確かにあるはずなのに、僕はまだこれを産み落とせない。僕が産み落とそうとした曲は、どうもまだ、僕には、産むのが早過ぎたのだろうか。しんどひ←モニタリング中

気分転換に、ようつべを眺めていた。

動画詳細欄にこう書いてあった。

まおちゃんは消費されるコンテンツに過ぎません

明らかに皮肉だ(と僕は思う)。初音ミクも、消費されるコンテンツにすぎないのだろうか。一人の人間は、消費されるコンテンツにすぎないのだろうか。より多くの人に消費されることが価値なのだろうか。

「どうして曲を作るのですか」

頭の中で、ドアの向こうから、そんな声が聞こえる。


いやこれまじもんの事件かどうか気になっていたら、コメント欄にピン留めされてこう書かれていた。

【本当の注意事項です】 この動画で出てくる「青柳中学校」は実在する特定の中学校を指した物ではありません。 あくまで私の動画の世界に存在する架空の施設であり、実在する人物や団体、施設とは全く関係ございません。


-^--
加筆します。(2025年4月26日)

急にこの曲を思い出した。

「きく」という行為には、チューニングのような効果があるような気がした。僕の「不理解」をどうか許してください。(許し合いましょう)。

「不理解」を免れない自己との関係性、他者との関係性を感じるためのなけなしの営みを、僕は想像している。

そういえば、モニタリングの動画を一枚の絵で表すとしたら、どう描くだろう。僕はそんなことも思いながら、空腹を感じている。

明るい気分になりたい時は、明るい曲。
暗い時にしっとりしたい時はしっとりする曲。

「他者」として、僕はどんな曲を産み落とそうというのか。生まれたものを、どんな形で。


今回の記事を書きながら産み落とした曲


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