この記事は反省文を書いた後に書いています。
https://note.com/hitoiki4105/n/ncb2157c92ad8

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顔も知らないあなたへ

とある大きな子どもの恥ずかしい話をします。

ボカコレ666曲レビューで恥を晒した僕は、あの一言の後、空腹のまま眠った。取り止めもなく浮かび上がる心象。思念の海でぐちゃぐちゃになっていた。起きた。Xをみる。メッセージが届いている。「hitoiki用語がわからないなら、hitoikiの自己紹介をしたらどうか」。と書いてあった。僕の言葉の軽さが、少しでも重くなるように。

人は困っている時、どうしたらいいかわからないんだ。知らないだけなんだ。教えてくれて、ありがとう。まだ僕には、できることがあるんだね。どこから話そうかな。

今頭の中で音が鳴っている。手は文字列を打ち込むキーボードを叩いているけれど。そんなふうに音楽と向き合い始めたのは大学生の時からだったか。曲名は「雨音」。どうして自分で作ろうと思ったかは覚えていない。大学時代では銀杏BOYZやらマキホルやらtoeやらenvyやらHeaven in her arms をコピーしていた。ギターボーカルをしていたけど、自分の声を録音して聴いた時、あまりにも聞きにくい、不快な感覚になって、歌うのをやめた。僕の歌は、ただの騒音だった。こんな声を、聞かせたくないと思う。そして僕は歌うのをやめた。神経細胞を再構築するために。

大学時代にボランティアで小中学生と一緒にキャンプする。みんなイキイキしていた。僕も笑っていた。僕が生きている、そう感じた。それから教員免許をとり始めた。大学2年生の夏。授業は苦じゃなかった。英文学の授業で僕はハッピーエンドをバッドエンドとして解釈したレポートを授業中に取り上げてくれたことが嬉しかった。大学卒業後、学校に就職する。僕はから回っていた。大人が子供をいいように支配する言葉、言葉、言葉。言いくるめる、なだめすかす、飼い慣らす、なかったことにする、そんな言葉で溢れていた。ここは高校ではない、高等幼稚園だという言葉も聞いた。僕は学校から離れて演劇をすることにする。声のことを知るためにでたワークショップの講師である演出家の考え方、声の出し方を知りたいと思ったからだ。

ある日僕は海外から招待されて作品を作る演出家に僕の「雨音」を聴いてもらった。たまたま事務所で音楽の話をしていたところに混ざったのだ。のちに彼は言った。「I found him!」彼を見つけたのは私だ!と。彼が演出していた戯曲はマクベスだった。これが僕の舞台演劇音楽制作の始まりだった。音、俳優の身体、演技、舞台転換、照明、全てが合わさって、結びついて、物語を進めていく。劇場のあらゆる電気信号が神経回路のように思えた。俳優は自身の全てを回路につなげる。曲を作ることは楽しくなかった。辛ささえ感じた。ただ、舞台に自分の一部があることは、うれしかった。自分が作った曲が誰かの一部になる。誰かの動き、誰かの思考、誰かの感情になる。少なくとも、俳優の力にはなれていた。俳優の身体性には貢献できていた。僕にはそれがうれしかった。僕の喜びには、どうやら他者が必要らしい。僕は台本を読む。そこに流れる音楽を想像する。台本の中で動き出そうとしている人物の、舞台の動きを想像する。僕は言葉にどうしてこんなにもこだわっているんだろう?中学生の時に憧れていた人の真似をして新潮文庫を読み始めたことか?いや、この話をしよう。

大学に入る前に僕がしていたことを話そう。中学時代に告白が失敗した子をもう一度振り向かせてやろうと受験勉強をやりすぎで鬱になった。その日のことをまだ覚えている。英和辞書を引いていた。「どうしてこんなことをしているんだろう」という言葉が頭をよぎった。もう、力が入らなかった。それから寝た。高校は中退した。寝ながら考えた。どうして生きている?意味はあるのか?そんなことを悶々とノートに書き続けた。死にたい。そこで樹海に行くことにした。まだ間に合うだろうか。日没前に、樹海まで行けるだろうか。到着できなかった。樹海近くの湖の駅で夜を明かす。不気味だった。ガタガタと何かが鳴っている。遠くでは車がブンブン走っている。怖い。僕は思った。僕は怖がっている。死のうとしているのに。僕は死にたくないんだ。僕の命は、死にたくないんだ。僕はこの出来事があってから、死ぬことをきっぱり諦めている。僕の命は、生きたがっている。それから僕は夜を明かす場所を探した。車を走っている人が止まってくれて、声をかけてくれた。僕はファミレスで一夜を明かすことになる。僕は貰い物でできている。

それから日常に戻る。死ぬことを諦めたからといって特に変わることはない。図書館に行く。本を読む。生きる意味?意味ってそもそも何?そんな問いへの答えが、本の中にあるような気がしたからだ。今でも覚えているのは、カントの第3項、という考え方だ。生と死という二項対立とは別の何かがある。そう思うと少し元気が出た。僕が想像できない何かがあると思えた。それが何かは、わからなかったけど。こんなことは本を読まなければ、誰も教えてくれない。僕はあの頃、本を読むか、歩き回るか、寝るかして過ごしていた。なんでも話せる大人が一人いた。その人は僕の話を聞いてくれた。けど、答えは言わなかった。あの時の僕にはまだ受け取れないと思っていたんだろうし、実際、経験をしないとわからないことがあることを今の僕は認める。言葉というものは不便なのだ。代わりにその人は尾崎豊という歌い手の存在を教えてくれた。「十五の夜、お前にぴったりだよ」と言った。僕は貰い物でできている。

尾崎豊の曲を聞いた。歌いたくなった。なぜだろう。僕は声を出したかった。なぜだろう。それから僕はギターを買う。歌う。息苦しさが紛れた気がした。歌っている間、息苦しさを忘れられた。それからだっただろうか。僕は声を精いっぱいだすために声を出す修行をする。修行だ。僕は声を出したかった。呼吸の深さが音に表れているとある歌い手の曲を聞いて、呼吸の深さ、速度を自分の体で再現する。声は出さない。なぜかって?電車の中でこの修行をしていたからだ。もうこの話はよそう。肝心なのは、息を吐き出すことだった。吐き出さなければ、吸えない。吸うために、吐き出さなくてはいけない。それから僕は大学に入っても、吐き出し続けた。ただ叫ぶだけの僕と一緒にバンドを組んでくれた先輩に、後輩に、同輩に、感謝している。ただがむしゃらな僕と、音楽をしてくれて。周りの音を聞けなかった僕に合わせてくれて。あの時、その言葉を僕は言えなかった。感じさえしていなかった。僕は貰い物でできている。

あと10年分残っているけれど、ここらで話をおしまいにしよう。長すぎてもいけない。でも肝心なことを言っていない。大きな子どもたちについてだ。僕は大学卒業をしてからお金のために学校で何度か働いた。もう何もいうまい。何も感じるまい。ただただ淡々と業務をこなしていた。そんな中で僕が最近辞めた学校で働くことになった。その学校は小規模で、生徒のことを知る機会がたくさんあった。困っている生徒がいる。けど、誰も助けない。言葉の一つ一つが、生徒の命を弱らせていると僕は感じた。もちろん楽しんでいる生徒もいる。けれども、卒業してから、多くの生徒が困難にぶち当たる。何も教わっていないからだ。困った状態のまま、大きな子どもになっていく。教師と呼ばれる大きな子どもたちは、どうして困っている生徒を放っておくんだろう。楽しそうにおしゃべりをしているんだろう。苦しみを、なかったことにしているんだろうか。言葉が、宙を待っていた。目の前で、命が叫んでいるのに。誰かと一緒にいられたらいい。友達がいればいい。おしゃべりできていたらいい。だって、それしかないのだから。想像できないのだから。教わらなかったのだから。それ以外、想像ができないのだから。大きな子どもも同じだ。知らないし、感じないし、考えられない。だって、経験したことがないのだから。ずっといい子でいることを強いられてきたのだから。楽しいことで、ゲームで、SNSで、おしゃべりで、紛らわせてきたのだから。僕は教師と呼ばれる大きな子どもたちのうち、校舎で一番偉い人と話をした。「上司から指示を受けていない」「組織とはそういうものだ」から何もしないそうだ。最後は僕が怒ってしまった。話にならない。言葉が宙を舞う。上司と話をする。どうやら、僕がいると正社員という名の大きな子どもたちが嫌になるから僕に退職してほしいらしい。仕方がない。僕はその人を理解する。その人は、指示に従ってきただけだから、自分で感じて、考えて、行動することができないのだ。僕は退職した。そしてネットの世界を歩き始めた。

他人が受け取れない言葉を僕はたくさん吐いてきた。伝え方がわからなかった。今でもよくわかっていない。だからあんな記事を書いた。ただ感情で書いた記事を。言葉を正しく使いたいと思っている。それでも使えない。自分の行為が人にどんな影響を与えるのか。記事を書くことが、曲を作ることが、人にどんな影響を与えるか。その言葉は僕が伝えたいことが伝わるような姿をしているのか。どんな言葉なら、どんな音なら、相手に伝わるのか。その言葉は、果たしてそれでいいのか。感情に飲まれていないか。目の前の相手を想像できているか。いったいどんなつもりで、その言葉を発するのか。言葉を使う前に、行動すべきことはあるか。僕はこれっぽっちもできていなかった。誰かの曲に、自分のできなさを押し付けた。僕ができていない自分への怒りを誰かにぶつけた。ぶつけるように言葉を使っていた。まるで白痴のように。独り言を呟く狂人のように。僕はずっと助けてもらってばかりだ。僕が誰かの助けになれたらよかった。あの記事は、誰の助けにもならないし、逆に嫌悪されるだろう。僕の曲と同じように。ニコニコの生配信で僕は僕の曲を流していた。それを聴いた人が、僕を心配して声をかけてくれたこともある。他の人は僕の曲を洗脳ソングだと形容した。僕自身がきっと、そういう人間なんだろう。音楽性が人間性であると僕がいうのは、このことなのです。

最後に母のことを話しましょう。母は一人で僕を育てました。小学生の時、1時間、2時間、耳を塞いで布団にくるまっている僕に、彼女はずっと布団の中にうずくまる僕に向かって話続けていました。そんなことがよくありました。彼女は孤独です。僕は逃げました。月日が経って、僕は変わったのでしょうか。たまに会うとき、昔よりも上手に話せるようになった気もします。僕はもしかしたら、あの時の僕を、助けたいのかもしれません。あの時の母を助けたいのかもしれません。これが僕の自己紹介です。

恥の多い生涯を送って来ました。

ありがとう。こんな僕の話を聞いてくれて。

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20250902加筆

最後の学校で「大人」と出会った。その人は部活を担当している人だった。その人の周りの生徒たちの笑顔は僕が大学時代にキャンプで見たことがある顔だった。不思議に思う。話をした。僕が教師という名の大きな子どもたちに対して思うことも話した。その人の言葉を僕なりに今解釈していうならこうだ。「言葉は万能じゃない。伝えるにも手順がある。経験してなければ知らないし、感じないし、考えられない。問いかけを受け取れないなら、受け取れるまで待つ。受け取れる言葉を選ぶ。受け取れるまで、笑いかける」。(ちなみにその人は吹奏楽部の顧問をしている。僕が日本のクラシックの演奏家の音を聞いて不快さを感じるのと同じようなことを言っていた。僕はコンクール歴でも学歴でもなく、音を聞いている)。何よりも、「相手が欲しいとこれっぽっちも思っていないなら、渡せない」こと(彼は営業の仕事をしていた。歴戦の戦士だ)。僕は言葉を間違って使っていた。「初めての相手があの記事を読んだら、怖くなると思う」そんな言葉をある人からもらったことがある。別の状況でまた繰り返してしまった。忘れてしまう。間違うたびに、僕は思い出さなきゃいけない。もらった言葉を大事にしたい。もしこの言葉を曲にして残すなら?僕は今、そんなことを想像している。何度も、何度でも、やり直せるように。

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