【命の食卓】僕の食材 feat.鏡音レン(食パン丼2さん)
食パン丼2さんの声
https://note.com/1ta1node
食パン丼2さんの曲は前にも1つ紹介した。
とあるきっかけでもう一度ラブレターを書くことにした。
食パン丼2さんの記事を見た。
半年ほど前、僕の食材という曲をかいた。
ニコニコで1,000回もまわっていない、ほぼ誰も知らない曲だ。
今回はそんな誰も知らないこの曲をかいたことで、壊れかけて真っ暗だった気がしていた人生が少しだけ変わったような、そんな気がした、一人の
しがないクリエイターの話をさせてほしい。
そうして書き始められた記事の最後にこう書いてあった。
言いたいことができた。
かきたいことがたくさんできた。
あなたに話したいことが、数え切れないほどたくさんできた。
そしてそれは、これからも増え続けていくと思う。
それは僕のこの曲への返事であり、「創作者の憂い」というよりも「命の営みとしての音楽」を強く感じた。音が、僕にそう言っている。
お腹空いてきた。けど書こう深夜テンションで。
作りたいものはなんだろうか
足りないものはなんだろうか
えがきたいものがあったような
わからないわからない
僕に見えたものを君にも見せたくて
何度もくりかえし音にのせ歌った
夏目漱石か誰かの言葉で、「月が綺麗ですね」がある。日本人はアイラブユーとは言わないそうだ。なんかの漫画で、「好き」って気持ちはなんなのかと誰かが問い、それは「一緒に同じ夕焼けを見たいと思う気持ち」だと答えた主人公、播磨?が言っていたことを覚えている。(調べたらスクールランブルという漫画、アニメだとわかった。)
この点で、「解釈はそれぞれ」というスタンスではない曲のあり方、創作者の態度というものがある気がする。「解釈」を超えて強く共有したい何かが、夕日が、その時間が、感じが、空気がある。感じ方は人それぞれだろう。間違いなく。それでもその場に、同じ空間に居合わせることで生まれる「別々」の何かを尊ぶことが、「別々」であったとしても、同じ場所にいて、同じ空間にいて、何かが起きる経験をする瞬間を共にしたいという思いが、曲には込められているのではないか。そう思った。
(今日を夕日に例えてしまうと、作者と視聴者の距離感は対等ではない気がするのだけれど。作者のフィルターを通して経験せざるを得ないからだ。これは重要な意味合いを持っている気がする。作者がどれだけフィルターを排除して曲をかけるだろうか。僕は試みたことがない。)
「ねぇ、お母さん、見てみて!」
「ねぇ、聞いて聞いて!」
成長の段階で、人の発達段階で、この言葉を人は誰もが口にすることになっている(口にしなかったのなら、まぁそういうこともあると言って誤魔化そう)。これらの言葉は、経験を共有したい、驚き、感動、不安、恐怖、喜び、疑念といった感情を、思考を、認識を関係性を通じて取り込もうとする命の機能だと僕は思っている。関係性の中で、人は作られる。キルケゴールかなんかがそんなことを言っていた。
そんな思いを、僕は食パン丼2さんの曲に感じた。
欲しかったものがあって
吐き出したいものがあって
かくことで縋っていたんだ
ごめんね ごめんね
この思いが
いつか腐りきってしまうまで
ずっと作りつづける
僕の贖罪
もういいかい
もうちょっと
と同時に、僕はやはり憂いを覚える。再生数。その数字の残酷さ。届かなさ。反応のなさ。
「ねぇねぇ!」
「今忙しいのよ」
と言って顔もむけてくれないなら、そのうち何も言わなくなってしまう。それでも作り続ける命の営みを、僕は支えることができるだろうか。
正直であること。
「創作者の憂い」シリーズに興味がある方はこちらから。
お腹減った。
命が、食べろ(作れ)と言っている。
同じ釜の飯を食う。
個食が当たり前のような世の中で、同じ夕日を見ることがどれだけ難しいか。そうして、Vtuberは必要とされるのでした。音楽は・・・・
