【乖離研究7】俳優の声、地面、自然、声の文化。誰の声?
ふらいぱんQさんの「朗読」を聞いた。
— ふらいぱんQ (@flying_pan_p) October 8, 2025
「朗読」にもいろいろあるのだろうけれど。文化があるのだろうけれど。自分か中心主義に対して「いやそれは文化の一つに過ぎない」ということを知っておくといいかも知れない。僕が知っている演劇文化は、日本の演劇文化とは、違う。(ああ、孤独になろう)。
参考↓
この記事がふらいぱんQさんの「ちょうどいい」に寄与できるだろうか。(本当なら、この記事を書く前に、「お話」を「しなきゃ」いけなかった。と思う。今からでも遅くないか?うん。そうしよう。)
軽口を叩いて、土足で踏み躙るようなことを、僕は何度も繰り返してきた。繰り返さないように。うん。(よくやった。思いとどまった)。
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僕が感じるのは、ふらいぱんQさんの「朗読」が「アナウンサーっぽい」こと。「朗読する声」というものがあるのだろうか。「朗読」が「読み聞かせ」なら、子どもが聞きやすいように声を高くする、という意図があるのだろうか。よくわからないけど。(僕はふらいぱんQさんの他の声をしらない。お話をして言われたことでそうだなぁと思う。声を放つ人との関係性によって、声を放つ場所や目的、状況によって、声は変わる。変えるものだろう)。
僕が「アナウンサーっぽい」という言葉で表そうとしていたものは、「ふらいぱんQさん」の声の何かが、「朗読」の声では削がれているような違和感。
高校演劇の文化が、「アナウンサーっぽい」声なのかどうか僕は知らない。(観劇しに行こう)。
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合成音声で言えば、巡音ルカを初音ミクのように調整するような不自然感を、僕は感じる。(僕は合成音声のキャラクターの「らしさ」を必要としないけれど)。
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地の声、と言えばいいのか。ふらいぱんQさんの地面から浮いていると感じる。地の文を読んでいる時、ちょっと苦しそう、とさえ感じる。(ネズミの歌を歌うところはそうでもない)。
僕が思うのは、推測するのは、「いい声」とされているものが「アナウンサーっぽい」声だからか。地の声が「アナウンサーっぽい」人なら、それが地面なのだからいいだろうけれど。
(そもそもマイクによる入力、デジタルに変換されてスピーカーから出力されるまでに歪んでいるから本当に僕が感じたことがリアルかどうかは判断ができないけれど)↓という記事
「朗読」には「アナウンサーっぽい」声を使うことが、文化的な圧力だとしたら?僕はよく知らないからとりあえず機会を探して観劇しよう。
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声質以外の表現もあるだろう。
速度とか?
地の文を読む時は「ミドルトーン」(ハイミドル?ミドルハイ?)をアンプリファイしたらどうだろう。女性なら女性の相対的なロー、ミドルがある。倍音構造でいう基音?(最近見つけたというか教えてもらったairwindowsというプラグインはうまいことミドルトーンを上げてくれるから助かる)。
ふらいぱんQさんの地(ロー)が、地面から伸びる声が、僕は好きなのだ。
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通る声、に近づけようとして、「アナウンサーっぽい」声になるのかな。鈴木忠志のメソッドによると、滝でも聞こえるような「ロー」(ミドルロー?)を強めるらしい(現代人は呼吸が上がっていて「ロー」が弱くなりがちなのを強制的に下げているだけかも知れない)。タイムドメイン社のスピーカーは遠くでも聞こえるという。音のバランスを崩さずに出力すると、通る声になる、というアプローチもあるだろう。
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それにしても、
ぐりとぐら。
僕の第二人格を構成する認識と欲望の体系を記述しよう。
(そして歌いながらご飯を作ろう)。
絵本、読もうかな。読もう。
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この記事を見た方にはぜひ、僕の曲の「声」に違和感を感じたら、教えて欲しい。
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文字を人の声で音にする。
音にする。
いいなぁ。
最後に大事なのでもう一度書いておこう。
僕は「ふらいぱんQさんの声」が好きなのだ。
(よくわからないけれど)
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終わらないなぁ。
昔、人格が変わる人の動画を見たことがある。声がどう変わるのか、気になったからだ。
一人が何人もの役をこなす(一瞬で役を変える必要がある)戯曲に音をつけたことがある。
変わる、変える。
そこに自分とのつながりが、「自分の声」がどれくらい残っているか。
よくわからないけれど。
韓国で、インドネシアで見た俳優の舞台の上での声は、地面にくっついていた。
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思い出した朗読の動画
岡野暢さんの朗読。この声はマイクに向かって喋る声であって、岡野さんの舞台の声ではない。岡野暢さんはSCOTから離れて東京で演劇している。https://karada-no-keshiki.hateblo.jp/
白石加代子さんはSCOTの看板俳優だったか。
「声のいい人」の話?
