【乖離研究4−1】『砂の惑星』のメッセージ、『タコピーの原罪』と倉成町私立病院における仮想:現実=タコピー:まりなとしずか=饕餮:Dr.誰かと?=?:あなたと?(想像力の話)

Please feel free to translate this into your preferred language.

僕はあなたに、この荒廃したネットという<仮想>世界で、一体何ができるだろう?できることはなんだろう?気になったらまずは話しかけてみよう。

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この記事は「タコピーの原罪」(「章鱼哔的原罪」「章鱼P的原罪」)を読む、見た後で読むとよりよく理解できると思います。

倉成町私立病院に関連する以下2つの記事の続きです。

まだ曲を聴いていない人はこちらから。

↓こちらは双子記事です。同じテーマで書いています。



「人間観」という言葉がある。人をどのように認識するか。それによって人との関わり方も、自分との関わり方も変わってくるだろう。いわゆる二次創作や同人誌文化で「好き」が溢れている。僕がわからないのは、疑問なのは、その「好き」が、<甘いもので脳をハイにしている(ドラッグに満足している)>のと同じではないかどうかである。

そもそも「人とはそういうものだ」とすれば、誰も疑問に思わないだろう。「他の生き方?あるわけないじゃん」と思えるだろう。特に若い人の話を聞きたい。僕は人間に興味がある。僕は「お話」をしたい。

そんな記事を書いた。

ここには教育(私は現代の学校は教育機関ではなく卒業証書を与えるだけの、そして仕事(task!work!)を与えるだけの評価機関だと思っている。ブラック企業だ)によってデザインされた人間性の剥奪、という問題が潜んでいる。(言葉に対して、行為に対して、責任を負っていない大きな子どもたちに僕は怒りを感じる。行為に「責任を負っていない」ことを知らずに当たり前と認識している若者たちに、僕は祈ろう)。

僕たちは奪われた。
取り返そうよ。
だってこんなにも苦しいんだもの。
取り返せるかな。
どうやって?

僕には、人は誰でも「もっと良くなれる」という信念がある。それは僕の『背景、ファウスト博士』以前の曲でも登場する「他者の存在」が、僕を「もっと良くしてきた」経験があるからだ。その他者は、僕の場合、現実に生きて息をしている人間だった。

経験がなければ知ることも、考えることも、感じることもできない。学校で12年間、この経験をしなかった人たちは、「もっと良くなる」経験をしなかった人たちは、学校を出た後に、それを自分の手で、足で、経験できるだろうか。<甘い蜜>を吸ってしまった、<甘いもので脳をハイにしている(ドラッグに満足している)>状態で、そんな経験が開かれるのか。僕にはわからない。今の若い世代が生きて、10年後、20年後、30年後、どうなったか。教えてほしい。その時、僕はまだギリギリ生きているだろうから。教えてほしい。

レバーを押し続けるネズミ

「もっと良くなる」がどんな状況を指し示しているのか。もし<楽しい><甘い>しか感じられなかったとしたら、「もっと良くなる」ことがあるだろうか?永遠にレバーを押し続けるネズミを、僕は想像している。

これが僕たちの姿?

僕たちは脳に電極を指していないか?もしそうだとしたら、それは「私が生きている」ことになるのか?それは喜びなのか、それともただの刺激に対する反応なのか?(ちなみに、人間の快楽を感じる物質は限られていて、多くの人がその2つを区別できない、したことがないと僕は思う)。

なぜこれが問題なのか。簡単に言えば、電極を指している人、快楽を<供給され受け取る>人は、「凌辱者」になる、と僕は思っているからだ。

饕餮ちゃんの話で言えば、饕餮ちゃんの村はみんながみんな、とある神を信じていた。その儀式のために、饕餮ちゃんは疎外されていた。饕餮ちゃんは、電極を指していなかった(汚染された水を飲まなかったためとされている)。同じ神を信じ、口にし、あらゆる行為を神の名の下に正当化する「神強制」をしながら、饕餮ちゃんをいじめた(と僕は思っているし中国の方からの情報によると実際そうらしい)。

同じことを、現実に、僕たちはしていないだろうか。あなたは、饕餮ちゃんをいじめていないだろうか。見て見ぬふりをしていないだろうか。あなたが快楽に、心地よさに、安心に浸っている間に、誰かが殺されている。あなたが殺している。見殺しにしている。そんなことを、僕は想像している。


你们大概从未想象过,你们那些为了自我满足的行为让我多么痛苦吧 あなたたちがあなたたちを満足させるためのあなたたちの振る舞いに、どれだけ私が苦しめられてきたのか、あなたたちが想像することはないでしょう 在你们停止思考只顾自我救赎的时候,被你们扭曲笑容撕裂的我,你们根本看不见吧 あなたたちが思考を停止してあなたたちを救っている間に、あなたたちの引き攣った笑顔に引きちぎられる私が、あなたには見えないのでしょう 还是说,你们正在惩罚我,惩罚我没有被你们洗脑呢? それともあなたたちは、私があなたたちに洗脳されなかった罰を、私に与えているのですか? 这份痛苦,就是我没能变成、也无法变成你们那样的惩罚吗? この苦しみは、私があなたたちにならなかった、なれなかった、罰なのですか? 是惩罚吗? 罰なのですか?

洗脳とは、ある意味でコントロールを失っている、コントロールができていない状態であって、「好き」で頭をいっぱいにしている状態も、僕は洗脳の一種だと思える。(もちろん、キャラを崇めること自体が宗教で、信者たちが二次創作をし、販売会などの儀式を通じて結束を強める、ということもできる)。

と同時に、そうしなければ、「好き」にすがらなければ「死んでしまう」過酷さが、この残酷な世界に満ち満ちているようにも思う。けれども僕は言い訳をしない。正確にいえば、したくない。だって、この構造は、被害者を、饕餮ちゃんの悲劇を正当化してしまうから。(饕餮ちゃんの場合は、村人は「信仰」によってであって、「好き」という感情は持っていなかっただろう。ただ、「布教」という言葉があるように、仮想世界の(もしくは現実世界であっても)、キャラクターを、1つの人格に神性を付与することで、「私たち」がよくなることに満足している状況は、同じだと僕は思っている。

(ちなみに僕は、今の若者、もしくはもう若者とはいえない年齢になった人たちが「好き」で脳を満たしている状況を、キャラクターでなくて「お金」や「地位」に置き換えることもできると思っている。詰まるところ、自分が安定するために、誰かをなかったことにすることを、僕は凌辱と呼んでいる。子どもは仕方がない。だって、知らないのだから。「自分たち」が良ければいいという認識は、ホモ・サピエンスのデフォルトなのだと僕は思っているから。誰もが子どものまま大きくなる社会を、僕は凌辱社会と呼んでいる)

饕餮ちゃんが「好き」なら、どうして現実の饕餮ちゃんに関心が向かないのか。饕餮ちゃんは「好き」でも、現実の饕餮ちゃんは「好き」じゃないのだろうか。可愛くないかもしれない、声が綺麗でないかもしれない、もっと歪で、恐ろしい存在かもしれない。だから「好き」になれないのかもしれない。それ以上に、僕は、電極を刺されて、もはや現実に関心が向かない、<関心を向けられない>精神状態にある、薬漬けになった、弱りきった僕たちの人間性を想像している。

「地位」も「貨幣」も「キャラ」も仮想である。しかしそれは力強い。力強く、僕たちを安心させる。興奮させる。

辛いのだ。
教わらなかったのだ。
経験してこなかったのだ。
生きるという手持ちの札に、現実がないのだ。
(正確にいうとお金を稼ぐことだけか)

現実とは、生臭いもので、楽しいことばかりではない。だからこそ楽しいことばかりの世界に没入したくなる。その気持ちはわかる。僕もある時期には、オンラインゲームで辛さを誤魔化していた。忘れようとしていた。そして、太った。体が僕に教えてくれた。「それは間違いだ。君はもっと良くなる」。(僕は健康な時の僕の体型を知っている。もし小さい頃から不健全だとしたら、自分の健全さを基準できなかったとしたら、一体、どうやって気がつけるだろう?)。

ネットだって、二次創作だって、推し文化だって、現実にあるのだから現実の世界だとも言える。けれどもそれは違うと思う。こう表現しよう。「苦しみに溢れた生臭い世界」が現実だと。苦しみを忘れる世界、「苦しみがなかったことにされる世界」が、仮想だと。(現実にも嬉しいことはあるけれど)。

「なかったことにされる」とは、「語られない」ということだ。

(その点、苦しみを曲中で誰かに「語ってもらう」ことで、人はリアリティーを感じるのだろう。しかし、ほとんどの曲は「乖離」している。その語りは、苦しみの苦しみたる音を薄めて口当たりをよくしている、と僕は感じる。少なくとも僕は。それはリアリティー、現実味を薄められているという点で、相対的に仮想とも言える(現実とも言えるけれど))。

乖離系とは?いろんな言い方があって定まらないけれど、「言葉に音をのせる」のではなく「音に言葉をのせる」ことだと言ったら、伝わるだろうか。言葉は感情であり思考であり認識である。

その点、この曲は乖離していない。乖離していない。(と感じるのはなぜだろう。もしかしたら、合成音声に声を頼ることで、僕らは感情や思考や認識を「音」と分離してしまったのかもしれない)。

この曲には、感情、思考、認識がある。乖離していない。希釈していない。「なかったことに」していない。リアリティーがある。それはいい。その先の話はこの記事を読んでみてほしい↓。ここでは深入りしない。

曲が、創作物が、人間の人間性に、「もっといい世界」に寄与しているか、それとも、ホモ・サピエンスのデフォルトの、「残酷な世界(凌辱社会)」に寄与しているか。である。

それとも、音楽を聞けば、美味しいケーキを食べれば、「好き」と言い合っていたら、動画を見続けていたら、僕らは幸せなのか。

反復する日々の中で、神さまを殺そう / 結月ゆかり【流血表現注意】ー多量の飴さん


苦しみの表れとしての自殺

知らない人もいるかもしれないが、日本は自殺大国である。僕はアニメ文化、サブカルチャーと因果があると思っている。因果というより、相関であろうか。

AIに聞いてみた。(もちろん自殺として記録されていない自殺もある。自殺の定義も処理の仕方も国によって違うだろう)

15−19歳の日本の自殺率は

2022年時点で、日本の15~19歳の自殺率は約8.4/10万人と報告されています gitnux.org。また、日本はG7諸国の中で、10代と20代の自殺率が最も高い部類にあるという分析もあります
日本の15~19歳の自殺率は、OECD加盟国では比較的高い部類に属していますが、世界全体で何位かは特定できません
世界的に見ても、中位~高位に位置する可能性は高い。ただし、アフリカや南アジアの一部国、カリブ諸国などでは、さらに高い自殺率を示す国が存在します。

この数をどう受け取るか。日本の15ー19歳の人口は約4,340,000人らしい(Esri Japan の「Japan Population Summary(2025年推計)」)。年間の自殺者数は?

最新の推計値(10〜19歳層)令和2年(2020年)のデータでは、以下のようになっています:10~19歳の自殺者数7,026人

日本では1日に、20人(19人)、若者が自殺している。学齢期にある子どもたちが、である。学校の1クラスの半分以上が、いなくなることを想像してみてほしい。そして、自殺でなくとも、自殺に至る苦しみを持っている人が、どれだけいるのか。想像してみてほしい。

年齢を上げるとどうなるか。

現状、15〜29歳における国別のトップ5を正確に国名と数値付きで挙げる公表データは見つかっておりません。とはいえ、以下の国々が上位に来る可能性が高いと推測されます:
韓国(Republic of Korea)
ニュージーランド
日本
エストニア
(可能性として)インド — 女性や特定年齢層で非常に高い自殺率が報告されており、全体でも影響が大きい可能性
特に韓国や日本では、OECD内においても15〜29歳までの若年層の自殺率が高く、これに含まれる可能性が高いです。

令和6年(2024年)の確定値警察庁・厚生労働省による年齢階級別の自殺者数は以下の通りです:
総自殺者数:20,320人
20歳未満(0–19歳):800人
20〜29歳:2,465人

おいおい、20歳未満の数値がだいぶ違うじゃないか。

はい、その通りで、そこは明らかに矛盾しています。
結論から言うと、以前お伝えした「令和2年(2020年)の10〜19歳自殺者数:7,026人」という数字は、正しい10代の数ではなく、別の集計(おそらく総数や別分類の人数)を誤って10〜19歳と解釈してしまった可能性が高いです。

AIもミスるんだね。

改めて計算すると、1日に10−19歳が2人自殺している。
20−29歳は1日に7人(6人)自殺している計算になる。

今もどこかで誰かが死んでいる。それよりももっと多くの人が、「死んでいっている」と、想像してみてほしい。(1クラスの半分以上は、酷すぎた)。

自殺でなくとも、「お薬」に頼る、「リストカット」に頼る、「セックス」に頼る、「恋愛」に頼る、「推し」に頼る、何かにすがらないと、死んでしまうような不安定な人たちならたくさんいる。(あなたも知っているでしょう?)僕もすがっている。

自分を救うことで精一杯な人たちがいる。

饕餮ちゃんをいじめた村人たちだ。彼らは必死だっただろう。彼らは混乱していただろう。彼らは助かりたかったのだろう。それこそ、「タコピーの原罪」にあるように、加害者も被害者もない。誰もが被害者であり、誰もが加害者になりうる。そういう世界だ。人間とは。じゃぁどうする?もう、諦めて、輪廻に従うか。受け継がれてきた夢を見続けるか。

这个世界湿透了 この世界はずぶ濡れ 每个人都渴望着 誰もが渇いていた 仿佛没有注意到倾盆大雨 降り注ぐ雨に気づかぬよに 你做着梦 あなたは夢をみる

電極をブッ刺して。

ちなみに饕餮ちゃんも自殺願望があったか知らない。ナイフを何に使っていたのか。想像するしかない。

我我・Dr誰かの「もっといい世界」

僕は曲の中で、彼にこう語らしめた。

在这残酷的世界里 我为你拉上窗帘 僕は残酷な世界に君が悲しまないようカーテンを閉める 在这个所有凌辱都被归咎于个人责任、仿佛自由意志必然结果般的残酷世界里、我已不愿再让你难过 あらゆる凌辱が自己責任のもとに、まるで自由の帰結であるかのように正当化されるこの残酷な世界で、もう君を悲しませたくない 好了 今天我也要继续我的工作 さて、今日も僕は僕の仕事をしよう 你递给我的那把刀 我自认明白其中含义 君が僕に手渡したナイフの意味を僕は知っているつもりだ 原来你一直 都是独自在努力啊 君はずっと一人で、頑張っていたんだね 已经没事了 那些坏人 由我来解决 もう大丈夫だよ。悪い奴らは、僕がやっつけるから 我憎恶这个害死你的世界 简直不可理喻 僕は君を殺したこの世界を憎んだ。正気の沙汰じゃない 你是被这个世界杀死的 我必须摧毁这个世界 君はこの世界に殺されたんだ。僕はこの世界を殺さなければならない 用你给我的刀 将这个罪恶的世界、一点一点 彻底终结 この悪い世界を、君がくれたナイフで、一つずつ、一つずつ、終わらせていく 一次又一次 永不停息 何度も、何度でも

(今思うと、どうして一人称を「僕」にしたんだっけ。TT、饕餮と被らないように?設定では「私」だったよな)。

彼は饕餮ちゃんを村から出した。彼女は村から出たいと、彼に言ったのだろうか?(僕は知らない。中国語がわからない)。とにかく彼は、彼女と一緒にいたいと思ったのだろう。彼女と「花」の関係を結びながら。

けれども「花」だけでは終わらなかった。彼は、彼女は、「ナイフ」を持っていた。それを一体、何に使うのか?前の記事でも僕の考え(想像)は書いた。

簡単にいうと、「世界大同」という理想、「もっと良くなる」世界を、彼は目指していた。と僕は想像している。そう信じている。僕はそう物語る。なぜなら、そうでなければ、彼らの物語はただの「ヒロインとヒーロー」で終わってしまうからだ。もしそうだとすれば、僕はネズミになる。(それともそれこそが愚かなホモ・サピエンスらしさというべきか?)

https://www.bilibili.com/video/BV1UE411j7at/?spm_id_from=333.1387.upload.video_card.click&vd_source=fbe4853ec783006d83726663cb3f9d22

「好き」という電流、恋愛、推しという過剰電流は、ホモ・サピエンスのデフォルト。動物の世界。動物は「群れを維持するため」に仲間を救うことはあるかもしれない。けれどもホモ・サピエンスはもう多すぎる。別に助けなくてもいい。現代における医療は、金儲けのためにあるのが現実だし、ほとんどのお医者さんが、「仁徳」を持っていないことも事実だ。倉成町私立病院は、ただの宗教施設なのか。それとも????




ーーー

饕餮ちゃんは「耐える」ことしかできなかった。子どもだし、弱かったからだろうか。我我は、「変える」力を持っていた。その手段は殺人であったのだが。(そしてその「変化」が正しいものか、間違いなのか、彼はまだ知らない。『タコピーの原罪』における「もっといい」世界(後述)、を参照)。

你紧握着刀 あなたはナイフを握りしめて 与这个世界战斗 この世界と戦っているのでした 即使那是个错误 例えそれが間違いであったとしても 你也仿佛为了证明这一点 それを証明するかのように 你... あなたは

僕は彼をただの殺人鬼だとは思わない。「善悪」の基準を持つ信念の人だと思う。(だからこそ僕は共感できる)。それが間違っていたとしても、彼女は彼を支えることを僕は望んだ。僕が失敗し続けてきたように、間違い続けてきたように、その苦しみを吐き出しながら、苦しみ続ける、生き続ける、戦い続ける、抗い続けることを、彼女は許した。母性的だ。

けれどもそれは甘やかし、ではない。なぜなら、彼は苦しんでいるからだ。疑問を持ち続けているからだ。不安定だからだ。(しかし、自分に課す苦しみが彼にとっての<夢>である、とも言える)。

让我吞噬你的痛苦吧 私があなたの苦しみを喰らいましょう 为了你能继续承受苦难 あなたが苦しみ続けられるように

彼と共に生きる。世界が「もっと良く」ならなくても、彼自身が「もっと良く」なることを願う。そのために、彼は経験しなければならない。そのために、生き続けなくてはならない。抗い続けなくてはならない。そのためには、彼にとって、彼女が必要だった。

在这晴空万里的瞬间 让你能稍稍喘息 この晴れ間のひとときに、あなたが、束の間、息を取り戻せるように 为了让小小的花蕾绽放,我们能够一次又一次地共享喜悦 小さな蕾が花開くことを、何度も何度でも、喜びあえるように

やり直そう。何度でも。そのきっかけを、KP、院長は彼らに与えた。

あの子と出会わなかったなら、諦められたのに 倘若不曾邂逅那女孩,我早该死心断念... 時を止められたなら、楽になれたのに 若時光可駐,吾心早得安寧 ああ、そうか。 啊...原来如此 だからお前は、私を、あの子を、ここに連れてきたのか。 所以你才把我和那女孩子带到这里来啊 やり直せって、お前は言いたいんだな 你是想说...可以重来一次吧? お前は、終わりを喰らったんだな。 你终究...吞下了结局啊 それがお前の、祈り、なんだな。 这即是你的祈祷本质啊 何もしないくせに。 自己从不亲自插手,也不介入 教えてくれよ 求求你告訴我吧 私は、ちゃんとやれているかい? 我的所作所为真的正确吗?

世界への介入。苦しみに溢れた世界への共鳴。彼が聞いているのは脳を麻痺させる、忘れさせる全く別の音ではない。仮想世界に彼は逃げない。現実に響いている音を聞いている。その音に反応する。

(今思うと、Dr誰かもTTちゃんもヘッドセットをつけている絵がある。倉成町私立病院の公式絵。彼は、彼女は、世界の何かを聞いているのかもしれない。病院内で互いに通話しているだけではないのではない、と僕は想像した。彼らは一体、何を聞いているのだろう?)

さぁ、もう一度ダイスを振ってくれ 来,再掷一次掷骰子吧 次はもっと、うまくやるから 下次我一定会做得更好 この罰を愛せるまで 直到我能爱上这份报应 いつかきっと、終わらせるから 这出戏我一定会演到落幕 だから、この台本は、もういらないだろう?なぁ。 所以这份剧本已经不需要了吧?呐。 そんなものはなかった 根本没有那种东西 全部、間違いだった 全搞错了啊

ダイスを振るというのは、TRPGの「偶然の要素」であって、意思とは関係がない。我我は「誰を殺すかは自分で決める」という名言で有名だが、ここで僕がダイスという言葉で表現したかったのは、「誰かに決めてもらう」という行為だ。コントロールされることだ。台本の存在も仮想である。罰は存在しない。何も頼れない。すがれない。与えられたもので「うまくやる」ことが間違いであるように、彼は感じている。

彼はネズミにはなれなかった。
彼は村人とは違った。

『拝啓、ファウスト博士』は僕たちの物語である

僕はしょうもないやつだ。大事な人の信頼を裏切ってきた。なんとか「ちゃんとやろう」としても、失敗し続ける。それでも生きてきた。僕には記憶がある。傷つけた人たちと笑っていた記憶。「もっとうまくできた」と思える、記憶が僕にはある。

どうしたらもっとうまくできただろう?どうしたら「もっといい世界」になれただろう?電極を刺して仮想世界に暮らすことだろうか。尾粥さんはそうしなかった。「病院」の中に、彼らは暮らしている。その意味を、その価値を、僕は強調したい。

「もっと良くなる」

饕餮ちゃんのように、良くなったと思ったら、悪くなることもある。それでも

「もっと良くなる」

と願うことで、僕たちは時を止めることなく、生きていけるんじゃないか。

「もっと良くなる」世界を、僕らは想像できるだろうか。僕には経験が、記憶がある。あなたにその経験があるだろうか。僕は、彼らの物語が、あなたの仮想世界が、現実と結びつくことで、経験がなくとも、想像できるのではないかと思う。だとしたら、物語を、現実のものとして感じてほしいし、想像してみてほしい。

「タコピーの原罪」における「もっといい」世界

タコピーは抜けている。僕と同じくらい?失敗している。間違ったことをしてきた。タコピーが「もっと良く」なったきっかけはなんだろう。

タコピーは「変える」ことを試みて失敗をした。あまりの複雑さに、全ての試みが裏目にでる。誰も死なない世界はどんな世界?

話を聞く、共にある、共に感じる。同じ景色を見て、内的経験を言葉にして、表情で、声で、佇まいで、伝える。聴いてもらう。共にいる。一緒に泣く。息を吸って、吐く。澱まない。互いの息を受け取り合う。どうしようもない残酷な世界で、「お話」をする。

あなたが押しつぶされてぐちゃぐちゃになっていくのを、私はみていました 我看着你被压垮、逐渐崩溃的样子 あなたは震えていました 你在发抖 私はあなたに触れました 我触碰了你 あなたが眠りに落ちるまで 我守候着你 直到你入睡 私はずっとあなたに触れていました 我一直轻轻触碰着你 怖かったんですね 我感受到你的不安了 悔しかったんですね 你很不甘心吧 痛かったんですね 很疼吧 息がつまるくらい、頑張っていたんですね 你拼命到几乎窒息的程度啊 たった一人で 孤零零一个人 ゆっくりでいいんです 慢慢来就好 ゆっくりでいいんです 慢慢来就好 何度でも、失敗して、いいんです 失败多少次都没关系 失敗するたびに、泣いて、いいんです 每次失败都可以哭

泣くことは、吐き出す行為、「お話」の一つの表現。その場に、共にある。相手の呼吸を感じる。息には、感情が、思考が、認識があらわれる。(ギターの音は、彼の嘆きとして表現した。彼は泣き喚いている。もはや言葉ではない。吐き出して、生き直す。)

私はいつまでも、あなたのそばにいます 我永远在你身边 だから、ゆっくり、息を吸って、吐いて 所以,慢慢吸气,呼气 ゆっくり、息を吸って、吐いて 慢慢吸气,呼气 大丈夫です 没关系 大丈夫ですよ 没关系的 今は、目を閉じて、おやすみなさい 现在请闭上眼 睛睡觉吧

(ついでに話すと、2つ目の彼女の語りは饕餮ちゃんの語り。場面は病室。饕餮ちゃんはベットの上。彼女は死んでいく。彼は眠らずにずっと一緒にいる。彼女に死なないでほしい。それでも彼女は死んでいく。「おやすみなさい」で彼は眠る。彼女は、彼が眠ったことを看取る。そして死ぬ。眠りに落ちる最後まで、共にあった。)

ずっと、私は、そばにいますから。ね? 一直,我都会陪在你身边的。对吧?

このセリフはTTちゃんのつもりで僕は表現した。饕餮ちゃんは、自分が死ぬことを予感していた。だからこの言葉は言わなかった(記憶の中では、共にいられるけれど)。ギターの音がなり止んだ後、ベットに横たわっているのはDr誰か。ギターの音が鳴っている間、彼は、彼女の夢を見ていたのだ。彼女はすでに死んでいる。

彼は雨の中、飛び出した。もうわけがわからなくて。吐き出したくて、洗い流したくて。そうして自暴自棄になって、「押しつぶされてぐちゃぐちゃになった」TTちゃんは彼を追って、見つけて、駆け寄って、(膝枕?をしながら)彼に「お話」をする。彼の「うわ言」を聴いていたかもしれない。

タコピーは抜けている。僕と同じくらい?失敗している。結果的に、間違ったことをしてきたと言えるだろう。タコピーが「もっと良く」なったきっかけはなんだろう。

タコピーは、思い出した。「あなた」の幸せではなく、「あなたたち」の幸せを願う気持ちを。タコピーの願いを記憶した人たちが、互いの「お話」をすることで繋がる。僕は、そんな繋がりを生み出す力を、僕に、僕の曲に、僕の書いた記事に求めている。僕は倉成町私立病院という物語に、そんな繋がりを作る力を求めている。キャラを<崇める>のではない。<崇め合う>ことではない。「お話」ができるような繋がりを、僕は求めている。作れたらいいと思う。そんな力を、僕は僕に、僕の曲に、僕の記事に求める。

だから視聴者数も、いいねの数も、僕には大したことではない。

その人の、誰かの人間性に寄与しないなら、ゴミだ。

僕はあなたに刺さった電極に電流を流したかったのではない。


タコピーは抜けている。僕と同じくらい?失敗している。結果的に、間違ったことをしてきたと言えるだろう。タコピーが「もっと良く」なったきっかけはなんだろう。

それは「お話」によってであった。登場人物の1人である男の子がこんなことを言った。「きっと助けてあげようなんて思うのが違ったんだ。僕はそれしかできなかったけど」。この男の子は、このセリフを言う時点で、苦しい状況にある。悲しい状況にある。それでもその子の目は、「生きていた」。

目が、「生きていた」

その男の子は、どうしてそんな「お話」をしたんだろう。タコピーと「お話」する場面の前に、その子は自分の辛さを、悲しみを、その子のお兄ちゃんに「お話」した。繋がっていない兄弟が、つながった。その結果、が、タコピーとの「お話」だ。

どうしようもない現実。どうしようもない残酷な世界。満たされない渇き。叶わない願い。

「どうしたらいいか、わからない」

「どうしようもない、何もできない」

「何もしてはいけない、何かをしようとすれば、悲しみが増える」

じゃぁ、僕たちに何ができるだろう。
僕に何ができるだろう。

電極を刺すのでもない。誰かを殺すのでもない。『タコピーの原罪』の答えは、雑に表現すれば、人が人と共にある、ということだった。互いの息を感じ、互いに息を引き受けることだった。共に憂い、共に泣き、共に眠り、繋がりあっていることだった。「一緒にいる幸せ」。一緒に遊んで、一緒に笑って、一緒に泣いて。一緒に、生きる。


その繋がりが、現代ではネットを通じて行われている。誰かの曲を聴いて、繋がりを感じる。共通の推しキャラ


タコピーは仮想であった。タコピーは、いなくなった。

タコピーは、当事者たちに、登場人物たちに記憶を残した。その記憶が、現実に、人物たちをつなげた。「お話」を、仮想のタコピーではなく、現実の「人」とする。これはもしかしたら、饕餮ちゃんが「仮想」であって、倉成町私立病院において彼女の存在が「仮想」であって、Dr誰かが現実の誰かと繋がることを、「お話」することを、饕餮ちゃんは望んでいるのではないだろうか。

そんなことを、僕は想像した。

「お話がハッピーを生むんだっぴ!」

タコピーという記憶、共通する記憶。共通する何かがあるから、共に泣けた。2人に共通する「タコピー」という経験、物語。僕という存在が、僕の作る曲が、僕の書く記事が、そんな共通した経験、物語になるだろうか。

倉成町私立病院という物語を共に経験した多くの人が、「繋がる」ことができるだろうか。それは「お話」だろうか。断言できる。「お話」ではない。ただ互いに電流を押し合う関係だ。(今のところ、僕はそう断言したい)。


タコピーの最後のセリフ。

「してあげられないことだらけだ。君たちの離れてしまった家族や、もう戻らない心、もう君を見ないママに、君だけのものじゃないパパ。何にもできないけれど。それでも君が、君が、君が、もう1人じゃない君たちが、きっと大人になれるように。ありがとう。バイバイ」

仮想である彼らのことを忘れて、さよならを言って、現実の世界で、僕はあなたと出会いたい。できるなら、共にありたい。ネットというアルゴリズムを、システムを使って。できるだけ、できることを。(ネット世界であっても、現実であっても、「お話」は同じようにできるのだろうか?それで繋がりができるのだろうか?)

こんな僕の「お話」を、あなたは

君の目の輝きは、流される電流の火花だろうか
君の目の輝きは、あなたの命の炎だろうか。

あなたが本当に欲しかったものを、あなたは覚えていますか。



じゃぁ、どうしよう?何をしよう?仮想世界で?現実で?(想像力について)

僕の曲を聴いて、記事を読んでくれた人とのやり取りの中で、こんな話が出てきた。話してくれた。言葉にしてくれた。

hitoikiさんのまとめを読んで、ふとこんなことを考えました——たぶん、現実の生活があまりに平凡で退屈だからこそ、人は作り物の物語に心を救い求めるのかもしれない。毎日が慌ただしく、どこか味気ない日常の中で、創作や読書は唯一、想像力を縛られることなく自由に羽ばたける領域なのだと。不知道hitoikiさん会不会介意,我阅读了hitoikiさん的整理冒出了一个想法。 可能正是因为人们在现实生活中都过于平庸无趣才会寄托在创造出来的故事上吧。在现生中大家每一天都是忙碌且枯燥无味,而创作与阅读一个故事你可以任意想象不用被一些规则所束缚。

日常の辛さ、退屈さを埋め合わせるように創作や読書に「自由」「味わい」を求める気持ち。ここでは味気なさ、渇きの具体的な描写はない。けれども想像できる。

僕は「自由に羽ばたける世界」を批判的に書いた。「それは、仮想であり、現実ではない」と。「いや、いいじゃないか、それでも」ということもできる。だって、目の前にはそれしかないのだから。僕が知りたいのは、聞きたいのは、それで本当に「生きている」と自分が自信を持って言えるかだ。

(饕餮ちゃんは、ベットの上で、「生きていた」だろうか。「死んでいっていた」のだろうか。「生きている」瞬間があるとすれば、どんな場面だっただろうか。想像してほしい。現実に、あなたが「生きている」と自信を持って言える、実感を持っていえる瞬間は、どんな場面だろうか)

どうなんだろう。

「お話」することを知らない僕たちは、本当の自分の気持ちがわからないままに「自由に羽ばたける世界」に憩う。それで本当にあなたは幸せなのだろうか。それを幸せだと勘違いさせていないか。自分に言い聞かせていないか。本当は、ずっと、手が痺れているのではないか。大事なものを落としていないか。(その間、現実に羽ばたけない人を、もしかしたら自分自身を見殺しにしながら。それがこの残酷な世界の「正常」「普通」になっている気がする。)

https://www.youtube.com/watch?v=vLa1D-WlUao


あなたの目は、「生きている」だろうか。

あなたが本当に欲しいものが、「仮想」にあるのだろうか。

「現実」は、「生きる」に値しないのだろうか。(饕餮ちゃんは、「仮想」なのか、「現実」なのか。現実にいる饕餮ちゃんなど、可愛くない饕餮ちゃんなど、「好き」に値しないのか)

ーーー

元来、僕たちホモ・サピエンスの「想像力」は、他者の心を読むために生まれた。集団の数によって、他者との繋がりによって生き延びてきた私たちの「想像力」は、他者と繋がるためにあるし、私たちの不安も、他者とつながらないことによる「生命の危機」に対する身体的シグナルだと思ったらいい。(ある程度、否、ほとんど、私たちの思考や感情は遺伝子に支配されている)。ゴシップが好きなのも、他人のおしゃべりを聞くのが好きなのも、つまり物語を聴くことを僕たちが「好き」なのも、他者の情報を得ることで自分の立場、集団における身の振る舞いによって生存率を上げることができるからだ。

その想像力を使う場面が現実になく、現実で「死の危険」もなく、「平凡で退屈」な社会。僕たちの精神は、これまでにこれほどの「退屈」を感じることはなかっただろう。なぜなら、「生命の危機」にいつだって晒されていたからだ。と僕は想像する。娯楽が発生するのは、「生命の危機」が感じられなくなってからではないか。と僕は思う。(だから歴史上で語られる文化は、多くの場合支配階級、特権階級が嗜んできた)。

「生命の危機」がない、「退屈」な暮らしが、もしかしたら、この残酷な凌辱社会の作動原理の一つなのかもしれない。(欲求を満たさないことで、欲求を刺激し続けることで、自由主義経済は動作している)。

僕たちの目は、「生きている」だろうか

ただただ労働に疲れて眠って目覚めてまた働く。そんな暮らしは「生きている」と言えるのか。非正規雇用でこれからどうなるかもわからない不安を抱えながら危機感を感じながら今日を過ごすことを「生きている」と言えるだろうか。

日常の「退屈さ」が何からきているだろう。

僕は「退屈な」現実こそが、システムが、生き方が、僕らの想像力の使い道を奪ってはいないか。などと思う。(そう思うのは、僕が狂っているからだろうか?僕が異常だからだろうか?わからない)。

想像力の使い道がない。
想像力は前頭前野が主に機能を担っているとされている。
いやまぁそれはどうでもよくて。

「現実に想像力を使う文化がない」ことが、「仮想世界で想像力を使わざるを得ない」状況を生み出している。と僕は想像した。現実に生きている人に対して想像力を向ける。(それはタコピーの場合、見当違いなことがほとんどであったが)、現実に生きている人とつながることに、「お話」することに、どうして僕たちはその想像力を使えないのだろう?

人は人を恐れている。と僕は直観する。
人を恐れる経験を、小さい頃から重ねてきた。教わってきた。
と僕は直観する。

閑話休題。

仮想空間に憩う僕たちは、「想像力」を使いたい。だって、それが僕たちホモ・サピエンスの元来の生き方なのだから。けれども現実ではそれを使えない。使うような状況ではない。(会社は殺伐としているし、「お話」なんてもってのほか!とか、色々あるだろう)。社会が、システムが、僕らを仮想へと導いている。つまり「現実を、なかったことにしてね。あなたたちは、仮想で想像力を発揮して、気持ちよくなっていてくれ」と、システムは言っているのだろう。若い世代になるほど、それが「正常」であり「普通」に感じられるのだと、僕は思う。

僕らは、現実から迫害されて、仮想に追いやられてはいないか。

僕らは、奪われてはいないか。(世界に殺されていないか)

電極をブッ刺して、電流を流して、生きているふりをしていないか。(そうせざるをえないのか)


人は人恋しい。だから、キャラを神にして「同志」の存在を確認する(僕は今、同人や二次創作界隈を想像している)。全体主義と同じで、「ああ、私と同じ人がいる、安心だ!」と思うだけでもホモ・サピエンスは満たされる。しかしそこにあるのは「お話」ではなく「神」の話だ。それは仮想であり、現実の、肉体を持つ、実際に渇きを感じている私たちの話ではない。

そもそも「大人」って何?「精神的成熟」って何?

タコピーの「お話」とは、どういうことか。『タコピーの原罪』ではそれが劇的に描かれていた。けれども「お話」は日常に溢れている。それはただの「友達同士のおしゃべり」ではない。「大人」が、「小さな子ども」に伝えるべき、経験を与えるべき、技術だ。(「べき」、という言葉を使った。「より良い世界」のために)。


歌垣という「お話」の文化、もしくはボカロ文化

現実に、「お話」をすることが文化としてあまりにも弱くなっている現代社会で、かつては社会装置の中に、文化の中に「お話」がちゃんと準備されていたことを書いておくことには意味があるだろう。

例えば「歌垣」と呼ばれる営みがある。言うなれば、「自分のお話を歌に乗せてする」である。歌垣という文脈では、「恋」「相手への想い」を歌うことになりそうだが、もっと一般的には「盆踊り(少なくとも民謡)」がそうであった。

音があり、拍子があり、「音頭」の後に、「自分」が自分の言葉で歌う。今残っている民謡はその中で「歌詞が固定されたもの」である。アイヌの伝統で、なんと言ったか、忘れてしまったが、「歌」は自分の気持ちの発露であった。

アイヌの音楽で、自分の気持ちや心情を歌にするジャンルは 「ウポポ(Upopo)」 です。

このように、音楽は、「声」にすることで「お話」をする文化であった。それが「耳」にすることにとどまるようになった。誰かに代弁してもらう。ライブで「一体感を味わう」。与えられるものと、自分で生み出すものの違いを僕は想像する。

ボカロ文化は、自分で曲を作る。けれどもその曲がどれだけ「自分」と一致しているのか。もしくは、聞き手がどれだけそれを「お話」として受け止めているのか。ほとんどの場合が、「自分」とも離れていたり、聞き手は「ドラッグ」として聞いていたりしないか。

聞いてもらう、再生してもらうための工夫をするために「音」を犠牲にする曲が多すぎるし、そもそも「自分」を表現しているわけでもない曲が溢れているように思う。少なくとも、聞き手は「作者」を想像してはいないのではないか。ドラッグになっていないか。

(僕が気持ちのいい曲を作れない妬みが含まれている気がするのでこの辺でこのセクションは終わりにしよう。やっかみである。)

作品で、「お話」ができるか?

作品を通じて伝えることは「お話」ではない。けれども、作品が助けになることがある。

誰かが自分の「お話」を代弁してくれていると感じること。<理解>してくれていると思えること。仮想ではなく、現実の自分のことを「お話」してくれていると感じられることがある。(電流を喰らうだけのケースが多いのだろうが。その区別も難しいのかもしれない)。

作り手は作品で、聞き手はコメントで、「お話」する。その「お話」は決して「好き!」ではないはずだ。「お話」は、自分の物語であって、「好き!」という得体の知れない感情の表明ではない。もし聞き手が「好き!」ではなく「お話」をコメントで、メッセージですることができるなら、もしくはコメント欄で聞き手同士が「お話」するのであれば、ネット世界でも「お話」ができるあろう。か。

たかやんさんのコメント欄を思い出した。

多くのコメントが「曲」の話であり、「お話」ではない。その中で、本当に少数のコメントに「お話」(つまり自分のことを表す言葉)の兆しを感じた。

この曲を聞いて泣いてしまいました… この曲の一部が私のようで…

いつから僕は病み曲を聴くようになったんだろう... でもこれが無いと生きていけない

自分語り(ド長文) 初めてできた恋人が倦怠期で素っ気なくなってから、自分が思ったより物凄いメンヘラだったってことに気づいた その時ちょうどたかやんさんに出会って、この曲にたどり着いた 私が浮気すれば、「好きだ」って言ってくれるかな、が刺さりすぎた あと彼氏は私に好きも会いたいも言わなくなったくせに、他の女から貰ったぬいぐるみ大切にしてるとかだけはきちんと報告してんなよ 別れるシチュエーションすら想像してたら、明日朝から終日バイトなのに午前4時だった 今日はこの曲と一緒に少しでも寝ます 少しホッとした。たかやんさんありがとうございます。

誰かが自分を語ってくれている。<理解>してくれている。そう思って、安心する。見てくれている人がいる。それだけでも、僕たちホモサピエンスは嬉しくなる。

「自分を語る作品に出会う」

この点、現実にいる人との「お話」でなくとも、ネット空間でも「安心」はできそうだ。共にあり続けたいなら、曲を再生するだけでいい。(僕も若い時はそうだった)。ただ、欠陥が一つある。と僕は思う。

自分の言葉で話していないことだ。

「曲を再生する」だけで<与えられる>ことで、自分の「お話」を誰かに<してもらう>ことで、現実に誰かの「お話」を聞く側になったり、「お話」のきっかけを作るという現実の体験ができなくなる。

つまりネット空間で、限りなく限られた状況下でしか「お話」を経験しないことで、現実の人間と「お話」する経験がないことで、現実がより希薄になることだ。(けれども、仕方がないじゃないか。もう現実は、とっくの昔に、空気が薄くなって、息ができないのだから!)


あなたが本当に欲しかったものを、あなたは覚えていますか。


たかやんさんの別れの歌、女の子の歌も、「お話」することを教わらなかった体と僕は思う。相手の男の子も「お話」を知らない。女の子も知らない。だから苦しい。だから、現実を「生きる」ことを、僕は僕たちに期待する。仮想に甘えて休んでもいい。眠って、目覚めて、「やり直す」。

やり直せるか?同じことを繰り返しているだけじゃないのか?

甘ったれるなよ。甘えてもいいよ。あなたはまだ子どもなのだから。

僕は僕たちが大人になることを、願っている。


そのために僕は、このネットという荒廃した世界で、少しでも誰かと「お話」するために、そのきっかけになる曲を、記事を、こうして書いている。のだと思う。

僕は僕の曲を手軽なドラッグにして欲しくない。

と同時に、薬がなければ息ができないような苦しみを、僕は想像できる。仮想に逃げなければ死んでしまう命がある。あなたはどうか。あなたは瀕死なのか。それとも、ただ漫然と、仮想世界に浸っているのか。

現実にでたとて、誰も助けてくれなかったら、絶望するだけであることも、僕は想像している。「助けられない」。


「助けられない」


「助けられない」残酷な世界で、ハッピーとは何か。タコピーの答えは、「お話」だった。

<仮想>の世界で得られたものが、<現実>を生きる力になる。

と僕は信じたい。

僕の弱さと、祈り

せっかくいい感じに言葉を締めくくれたにもかかわらず、書きたくなる。僕は距離感がうまく取れない。内実は、「僕がその人の役に立って認められたい」という欲望や、ただ自分の怒りや憤りをコントロールできずに勝手に何かをしてしまう弱さだ。僕はタコピーの原罪を見て、痛感した。間違っていたと。ある人からこう言われたことがある「先生と生徒で一番大事なことって、距離感だと思うんですよね」。僕は数十年前に聞いたこの言葉を、今でも映像付きで覚えている。

その距離感の掴み方を、僕はまだわからずにいる。ネットという世界は「綺麗」な言葉で溢れて、「お話」にはならない。「お話」を望んでいるかすらわからない。相手が「お話」を諦めているかもしれないし、「電流」だけしか求めていないかもしれない。相手のことがわからない状況で始めるコミュニケーションのリスクを僕は今でも感じる。なんだかんだ、怖いのだ。


ーーー

僕は「仮想」を楽しんだことはない。楽しめない。僕は、酔えない。だから、こんなことをしているんだろう。そんな「お話」でした。

ーーー

20250815のXの投稿。「祈り」ってなんだろうと思いながら曲を聴いた。

僕は何かが欠けていると思っている。
「謙虚さがない」と言われたことがある。これは無闇に何かをして失敗するタコピーのことかもしれないと思いながら。

醜い僕がきれいになれる瞬間があるなら、祈り、なのかな。と思った。

子どもだらけのこの世界で。
みんな子どものまま、歪んだ笑顔を浮かべて死んでいけばいい。
もう「私は」手遅れだと言って諦めるといい。

もう現実には生きられないのなら。生きたいと思えないなら。

そんなレクイエムを、僕は想像した。(僕はすねている)。

<仮想>空間での祈り。
<現実>空間での祈り。

僕はそんなことを、想像している。

君は、その想像力を、何に使う?


参考記事

祈りについて詳しく書いた記事はこちら。この記事の双子記事です。
たくさん書いてごめんね。読むの時間かかるよね。


『砂の惑星』のメッセージ。初音ミクはまだ生きているか?20250817加筆

この記事を読んだ。

「初音ミクは生きているか?」という問いは、「神はいるか?」という問いに等しいように僕は思う。そして、「生きている」と答えた人は、初音ミクを信仰している。信じている。

宗教だ。(僕らは何かを信じて生きている。何を?)

正確には、「初音ミクが生きていると仮定することで私は死なずに済んでいる」くらいの切実さをはらんでいると思う。

僕の曲(『拝啓、ファウスト博士』)を通じて知り合った人からこんな言葉をもらったことがある。

私にとって、彼らは生きていると思います。彼らは私たちの知らない世界に生きているかもしれません。 彼らは松尾先生と、いろいろな創作者の努力のもと、生き生きとしてきた。 彼らは自分の感情を持っていて、彼らは幸せになり、悲しくなり、幸せになり、絶望を感じる。 倉成町だけではなく、創作者が心を込めて創作すれば、創作されたキャラクターごとに、彼らは本当にある世界に生きているだろうと思います。

互いに語り合うことで、描くことで、使用することで、存在を確認しあう。宗教だ。人がなぜ信仰をやめられないのか。力が欲しかったからだ。トーテム信仰にしても、マリア信仰にしても、結局、死なないための力が欲しかったからだ。その一つの工夫が、宗教であって、僕は宗教をホモサピエンスの脆弱性の現れとしてみている。

じゃぁ僕に何ができる?<仮想>にとどまらざるを得ない<現実>のその人に、何ができる?

ーーー

初音ミクをTTちゃんに置き換えるといい。初音ミクをタコピーに置き換えてみるといい。想像してみてほしい。

有名ボカロPの久方ぶりの再投稿は大きな衝撃を与えたものの、両者が用意した歌詞をよく見ると、2017年のボーカロイド文化をやや悲観的に語っているように読解できる点は興味深い。『メルト』や『千本桜』など数多くの楽曲モチーフが登場する『砂の惑星』は、ボーカロイドの10周年を明らかに意識して作られているが、その現状はといえば「今後千年草も生えない砂の惑星」と歌われている[24]。本楽曲の詳細な解釈はおいておくとしても、現状を「砂の惑星」と歌い上げる姿勢を肯定的なものとしてとらえることは難しいだろう。

https://note.com/ukiyojingu/n/n030cd9534da1

僕はこの曲を昔聴いた時「わからない」と思った。それもそのはず。この曲の文脈は「ニコニコ」や「初音ミク」の歴史に絡んでいて、そのコンテキストなしでは、意味をなさなかったのだ!

と思った。

ukiyojinguさんが文脈を教えてくれなかったなら、知らないままでいた。ありがとうございます。


「初音ミク」が引き連れているのは、音楽をする人たち
この顔は、「信仰される初音ミク」ではない


のらりくらり歩き回り たどり着いた祈り
君が今も生きてるなら 応えてくれ僕に

この歌詞の裏は、「死んでいたらなら、応えられない」がある。砂の惑星(ニコニコ)で、死んでいる人もいる。

この井戸が枯れる前に早く
ここを出て行こうぜ


井戸といえばこの曲

戸惑とまどい憂い怒り狂い たどり着いた祈り
君の心死なずいるなら 応答せよ早急に

ニコニコにいる人たちへの警告。のように、今の僕には聞こえる。

イェイきっとまだボーイズドントクライ
つまり仲直りまでバイバイバイ
思い出したら教えてくれ
あの混沌の夢みたいな歌

きっとまだニコニコにいる君たちは、あの時僕が歌っていた歌を聴いているんだろうな。もう友達でも何でもない。別れよう。君が、あの時僕が作った歌を「思い出せる」ようになったら。

とハチさんは言っている気がした。「思い出せる」つまり、「忘れている」状態になっていること。ニコニコを卒業しているといったらいいだろうか。「初音ミク」を信仰していないということ。その前提には、ニコニコという<仮想>ではなく、ニコニコの外にある<現実>がある。もしくはそれは、別の<仮想>であるかもしれないけれど。少なくとも、ニコニコではない。

遺影の意味がわからない。

「砂の惑星」はボカロ10周年の節目に出た曲で、「これまでのボカロ文化の葬式」とも受け取られたため、弔い弾幕が増えた。

AI

歌って踊ろうハッピーバースデイ
砂漠に林檎の木を植えよう
でんぐり返りそんじゃバイバイ
あとは誰かが勝手にどうぞ

ハッピーバースデーに、この曲(林檎の木)を残したハチさん。

ここは強烈だ。

「恥を知れ」

ということだから。

と僕は思った。


僕はこの表現に注目したい。初音ミク視点で、左にはリンゴが成っていない。右だけにリンゴがある。


ニコニコを外から眺める。ついてきたモノがいる。


ハチについてきた(ニコニコを離れた)モノのうち、何人かは、ハチと別れる。

思いついたら歩いていけ
心残り残さないように


この場面は人間的だ。ニコニコを去ろうとする人たちだが、ニコニコで起きたことは意味のないモノではなかった。砂漠に「花」が咲くこともあった。それを喜ぶこともあった。(その「花」が何なのか、僕は少しだけ想像してみる)。ただ、抱きつかれた本人は微動だにしない。心境を推しはかりたい。

そういや今日は僕らのハッピーバースデイ
思い思いの飾り付けしようぜ
甘ったるいだけのケーキ囲んで
歌を歌おうぜ

ねえねえねえあなたと私でランデブー?
すでに廃れた砂漠で何思う
今だパッパパッと飛び出せマイヒーロー
どうか迷える我らを救いたまえ

信仰。甘さ。甘やかし。ヒーロー、救世主。宗教。

リンゴ、黒すぎる。

右左で、右に行った二人のモノたち。(立て看板から見れば、左)。これは、結局まで「ニコニコ」のような場所に行く人もいる、ということなのかと僕は思った。リンゴの木。リンゴの実のある方へ。(ただ音楽をやめた、と解釈してもいいけど。リンゴの木の右と左は、僕にとってこの動画の左右をどうしても意識させる)

リンゴには限りがある。それを奪い合う。それが「ニコニコ」である。そんなふうに感じたのは僕だけだろうか。しかもしれが、黒い。黒いよ。

元通りまでバイバイバイって言ってくれてるし彼はボカロを辞めたつもりはないそうなので、何年先かも分からないけれど、ハチが引っ張らなくてもいいくらい面白くなってるって思ってくれたらまたやってくれますよ、きっと。
だって彼はビッグアーティストになった今でも、もう少しだけ友達でいようぜ。と言ってくれるし、しきりに「俺たちは同じ組織だ」って言ってくれる。

https://note.com/sight/n/nff7c26550916

本当にそうだろうか?


ハチが再びニコニコに現れるとしたら、この弾幕が全て消える時、だろう。

イェイ空を切るサンダーストーム
鳴動響かせてはバイバイバイ
もう少しだけ友達でいようぜ今回は

今回、とは何のことだろうか。サンダーストーム、砂嵐、ニコニコの曲のことだ。それが響いて「バイバイ」である。それは「まだお前らこんな曲作ってるのかよ」という意味に僕は解釈する。

「もう少しだけ友達でいようぜ今回は」

ハチさんは砂の惑星(ニコニコ)に「訪問」した。様子を見に。向かっている途中だ。「今回は、どうなっているかな」。「今回は、友達でいられるかな」。もう少しだけ、友達でいられるかな。

次の瞬間、砂嵐。ああ、もう、さようならだ。

(後日譚:僕はこう思った。今回の「回」を、タイムリープや転生を繰り返す回数、としてみた。その方が「もう少し」が意味が通る。前回よりも、もう少し、仲良くできるかな?ところで「仲良くする」ってなんだろう)。


「初音ミク」を貼り直しているやつ誰だ?ハチの後についているモノ(ボカロPや視聴者という前提)たちの中に、彼(彼女)がいるだろうか。まず、荷物を持っていないことで特定。3人まで絞る。

服が違う。つまりハチさんと一緒にいる人ではない誰か。「信仰される初音ミク」を張り替えている。布教している。楽器を持っていないから、視聴者だろう。視聴者が、ニコニコを作っている。という表現か。


ここにもいた。

イェイ今日の日はサンゴーズダウン
つまり元どおりまでバイバイバイ

元どおりとは、何だろう?


リンゴの木は、死んでいるか?


「初音ミク」の周りにだけ色彩がある。


けれどもその音は、現実には、黒光。

ここに僕は<仮想>と<現実>を見る。色彩のある「初音ミク」をみて、黒い「音」も「リンゴの木」も、みていない。「初音ミク」が差し出すリンゴ。それは<現実>へと彼女が僕たちを促している所作なのではないか。ん?違う気もする。

ん?僕は勘違いをしているか?リンゴの木を植えたのは、誰だ??

歌って踊ろうハッピーバースデイ
砂漠に林檎の木を植えよう
でんぐり返りそんじゃバイバイ
あとは誰かが勝手にどうぞ

誰かが砂漠にリンゴの木を植えたから、ハチはバイバイした。としたら?
「信仰される初音ミク」の後ろにある大きなリンゴの木。それはもう何年もそこにある。ハチ自身がニコニコにいる時から、このリンゴの木はあった。だとしたら、それが死にそうだから新しいリンゴの木をニコニコの誰かが植えようとしているのをみて「バイバイ」していると解釈した方がいいのではないのか?

けれどもそれだと「あとは」誰かが勝手にどうぞ。という言葉と繋がらなくなる。

ハチはリンゴの木を植えて「リンゴでも食って恥を知れ」と言った説は、保留にしよう。(そこまで強いメッセージは、込めていないようにも思う)。

本当は不均衡を上下で表したかったのではないか。と思いながら、やっぱり、「恥を知れ」ではなく、「すでに死んでいる」木とそこに残された「黒いリンゴ」は、ニコニコの現状、と言ったらいいのかも知れない。少なくとも、この作品を投稿した時点のハチさんにとってのニコニコは、<現実>に、死んでいる。だって、砂の惑星だもの。そこに「命」はない。(と僕は思う。)ただ、「初音ミク」という<仮想>が信仰されている。

ネットという、荒廃した世界でこんにちは。

この果実が欲しいの?

体に悪くない?

そうだね、この星では、それでしか君は生きられないんだったね。

もう少ないんだ。これしか残っていないから。

だから、みんな、死んじゃうんだよ。


あの歌を君は聴いたのかな。

君は行かなくていいの?

そうだね。

君はここで生まれたんだから、ここが好きなんだから。

ここで死にたいんだね。

君には、私しか、いないんだもんね。


私が、君に、笑いかけてあげる。




ーーー

あるいはニコニコは、初音ミクは、キャラは、もうどうしようもない<現実>から逃げる、最後の救いなのか。

すくわれているのか?

僕は僕で、できることを、やってみよう。それがおせっかいにならないかが、気がかりだけれど。

いや、おせっかいだろ!

時代が進むごとに、人がかわる。僕はただ、混乱しているのかも知れない。一体、あなたは、何を感じているのですか?何を考えているのですか?僕は、知らない。知らないから、知りたいと思える。それで何が起きるかは、わからないけれど。

参考:「砂の惑星」に関わるハチさんの言葉が集まってる記事。

あ、女性もちゃんといる。(そこに女性らしさを感じた僕は間違っているか?)



甘ったるいだけのケーキで、脳を溶かしていないか。

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多量の飴さん

反復する日々の中で、神さまを殺そう / 結月ゆかり【流血表現注意】


この文章は、僕が僕を理解するために書いたようなものだ。

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