森の妖精さん。あるいはデーモンとダイモン。「論理」と「非合理」←不合理ではない
「理」ってなんだよ
同じ夢の中にいる個体の集まりを共同体という
としよう
同じ夢をみれる、といってもいいだろう
そんなある冬の夢の話
この記事の続きかも
妖精さんの話
妖精さん、という言葉で指し示したものは、僕の言葉では「内発的動機」だった。それが「妖精さん」という言葉になった途端に、「ソレ」は羽ばたいた。やったぜさんと僕は「ソレ」を指し示すときに妖精さんという言葉を使い始めた。(「ソレ」は衝動のうち、外部から「条件付け」されないまったく不意に現れる非合理な衝動である。創作をしながら、「なんかでてきた」「なんかそうなった」を想像してみてほしい)。
比喩、象徴がもつ力を感じた。
とても勉強になった。
内的な動機、内側から自発的に現れる「やりたい」を妖精さんだとすると、外発的な動機、外側から条件付けされて生まれる動機をなんと呼ぼう?という問いを僕は発した。
妖精さんは自己分析のきっかけになるという文脈から、就活の自己分析の話が出てきて、それなら「就活」はある種の妖精さんではないか、と僕は思ったから。けど、その姿は、佇まいは、振る舞いは、「妖精さん」とは違う気がしたから。
その話題以前に、やったねさんが「森」という言葉を使っていた。そうだな、森に住んでいる妖精なら、街に住む妖精と言ってもいいのかな。
森に住む妖精 灯台 放浪 散歩 神秘的 迷わせる
都市に住む妖精 ネオン 観光 移動 産業的 ガイド
僕は比喩をあまり使わないから、新鮮だった。比喩の力すごいなとおもう。比喩は、経験を思い出させる言葉だ。より身体性を帯びる。(hitoikiは反省している。ターン終了
論理、という話が出ていた。やったぜさんの構造を感じて使った言葉だ。論理というものへの違和感を、やったぜさんは持っている。という話だった。
森の妖精さんは、論理の外にいる。
森の妖精さんの痕跡を辿るのに、論理は使える。
けど、森の妖精さんは、今、僕らが知らない文脈(物語)からやってくる。
創作をしているとき、「よくわからんけどでてきた」。その力を森の妖精さんというなら、僕はそれが欲求と結びついているという前提で考える。自覚はしていないけど、無意識でも、何かが出てくることには必然?がある。必要性があるから出てくるのだ、と思っている。けどその論理はわからない。そのわからなさをわからないままに表現することは、創作の中でも僕は「アート」と呼びたい。(芸術と芸能は、アーティストと職人の違いであり、アーティストとクリエイターの違いだと僕は表現している)。
衝動はすべからく何かの必要性によって生まれる。とすれば。(その衝動性が誰かの迷惑になるかどうかは差し引いて)、衝動は妖精さんだ。
一方で、迫られる必要性、というものはどうだろう。
「自然」という言葉は「人工」と対比されてきたけれど、「デジタルネイチャー」という言葉が示すように、「人工」も「自然」に含めることができる。その二つを相容れないものとしてみる視点に立てば、迫られる必要性は、外側からの「さしがね」のようなものだとおもう。
「こうせねばならない」「こうすべきだ」
「さしがね」の硬さをおもう。背中に定規を入れられているような居心地の悪さを想像してみてほしい。
森の妖精さんと、街の妖精さんは、田舎のネズミと街のネズミくらい違う。
論理的思考への力が街の妖精さんだとしたら、
森の妖精さんは発散的思考だとおもう。お風呂に入っている時にふと「降りてくる」ソレだ。
ラテラルシンキングはその真ん中くらいだろうか。(水平思考は多角的に、別の視点から眺める、という意味で、論理的思考に近いのかもしれない。別の視点にたどり着くために、発散的思考が必要なのかもしれない)。
つまりこういうことではないか。
論理の世界、予定調和の世界、直線的なレールの世界、はみ出たものが否まれる世界。
と
衝動の世界、予測不可能な世界、ふらふらする世界、はみ出る世界。
の二つの場所が想像される。森の妖精さんと街の妖精さんはその2つの象徴だ。
農耕生活と狩猟生活だ。とおもう。
ーー
▶︎ 定住、集団の巨大化で歪んだもの
祭は「農耕生活」の鬱憤を晴らす、人間らしさを思い出すためのシステムだ。無礼講、という言葉は農耕生活(論理)の外にある人のあり方を思い出すシステムだ。一年後の祭のために、人は「労働」する。
芸能は娯楽であり、ある意味で祭だとおもう。芸能の一つとして、アニメを相応する。それは非日常の、現実にはありえない人間らしい「対話」や、わくわくする「テンポ」で溢れている。ギャグアニメは不確実性。
森の妖精さんを、街に出現させる装置として、芸能はある。(歴史的に、芸能に携わる人は狩猟生活、定住しない人たちである)。
ただその妖精さんは、おくすりであって、頓服であって、論理に、「さしがね」に条件付けされた生活を耐え忍ぶために作られている気がする。
森の妖精さん
は、街では生きにくいのだろうか。
森の妖精さんは、定住生活を始めるまえからの、人の根源性を僕に思わせる。僕らは不合理、とりとめなさ、ただのリズム、予期せぬ展開、興奮に憧れる。(僕らは選別されて、いつか定住生活に最適化されるのだろうか?)。僕が凌辱社会と呼んでいるものは、定住生活により、その論理により本質を歪められた人たちが命懸けで(誰かの命を凌辱しながら)営む社会である。
凌辱社会において、
森の妖精さん
は、「論理」の中で都合よく「飼われる」。
いやいや、空を飛び回りたいよ!君も一緒に踊ろうよ!
という森の妖精さんは、ある日、囚われ、抑圧され、飼われてしまった森の仲間たちを元気づけることにした。
そうして、「森の妖精さん」(仮)が生まれたのでした。
(信仰?理念?繋がる力?共有される物語)
果たして、芸術になるか。芸能になるか。(芸術は、学問は、本来、傷つけるものである、と僕はおもっている。傷つけるフェーズと、癒すフェーズがある)。
ヴィラン、という言葉はよくわからなかった。(話題にするタイミングを逃した)
エリザベス・ギルバート "創造性をはぐくむには"
英語の翻訳もある
概要欄にこんなことが書いてあった。
人々が芸術家や天才に抱く無理な期待を巡ってエリザベス・ギルバートが考察します。そして、わずかばかりの一個人がジーニアス(天才)「である」のではなく、人間はみなジーニアスを「持っている」のだという急進的な考えを語ります。これは私的であり、可笑しいながらも、驚くほど感動的な講演です。
everyday creativityという言葉がある。これは「creativity」という言葉が特別な人間の営みではなく、誰もがもっているものであり、日常にcreationがあることを表す言葉だ。
▶︎ ダイモンとデーモン
ダイモン、
と聞いて思い出すのは、ソクラテスが戦場で勇敢に戦った後、戦場に一人のこって「ぼーっとしている」のを見かけた人が声をかけたら「ダイモンの声がするから邪魔すんな」と言った、というエピソードである。(ローマ市民は、戦闘能力か、資金力で市民権を得ていた)。

ダイモンは、デーモンであり、キリスト教文化(のうち、カトリック、カルバンが批判した神強制、「論理」の側面を持つ戒律、規律の世界)でダイモンは悪魔とされてきた、という歴史をこの言葉の変化は示している。(戒律にとって、ダイモンは、妖精さんは、悪魔なのだ)。
ChatGPTで「ダイモンがデーモン(悪魔)という意味を持つようになった歴史」とか聞いたら解説してくれる。
要するに、キリスト教という共同体にとって、支配にとって、「ダイモン」は悪魔になった。それは農耕社会、定住社会で狩猟的振る舞い、衝動的、予定調和を逸脱する行為が忌避されるのと同じだと、僕は想像する。
ああ、それがヴィランなのか?
るろうに剣心の相良左之助は「悪」という文字を背負っている。彼はいう。「あいつら(政府)が悪と言えば悪になる。だから俺は悪を背負う」。(いや、そんなこと言ってないかも。)
参考
#るろうに剣心 の #相楽左之助 の #トレードマーク『#悪一文字』。
— SPIRIT (@tkt058) January 30, 2016
画像から分かるように本編だと『反・ #権力 #暴力』。#キネマ版 だと『こんな時代だからこそ「悪」を掲げる』
というように、意味合いが少々異なるようだ。 pic.twitter.com/JDYTTTZmmK
仏教の歴史においても、同じことが行われている。「お化け」「妖怪」が「仏法者」お坊さんに調伏される、退治されるお話がたくさんある。「お化け」や「妖怪」は竜だったり、怪奇だったり、「論理」の外にあるものだった。仏教という物語を広げるために、「仏教ってすごいんだぜ!」と広告を出す。現代なら、「学歴」「年収」「成功」だろうか。
(『陰翳礼讃』にしても、水木しげるの話にしても、影がなくなり、光に照らされる街に、システムに、存在できなくなった存在について語っている)。
さて、「お化け」や「妖怪」は「悪」なのだろうか。
僕が「悪」を背負うなら、「悪って何?」という文字を背負いたい。
このことかな。とおもう。(ちなみにこの曲はドラッグからインスピレーションを得て作られ、とされている。)
▶︎ 「天」と「天天天」

ソクラテスのダイモンは、とても芸術の匂いがする。「芸術は爆発だ」と言った岡本太郎は動的なダイモンのようだ。(妖精さんにも性格があるらしい)。
ソクラテスのダイモンは、「自己モニタリング」をする。批判的思考、という言葉は、批判という言葉は、「非難」という行為ではなく、「判断を保留する」心的構えを表す。
僕が「内なる動機」を妖精だと言ったのに対して、広い意味で妖精を使った。僕が「内」に妖精を感じたのは、「外」が「論理」の世界だと思えたからだ。(凌辱社会の残酷さを僕は想像している)。内の中に外を内包する感覚だそうだ。それができれば、もっとこの世界を「やさしく」感じられるのだろう。と僕は思う(その際、「内」が「やさしくない」なら、取り込まれた「外」は苦しむことになるだろう。やったねさんは、そういう経験をしてきたのではないか)。
人によっていろんな段階がある。
いろんな人が集まって、そのすべての段階への階段ができあがる。
コレクティブという共同体のあり方は、そういう凸凹で、異質で、相互補完的であってほしいと、僕はおもう。(集合的知性)。それが「論理」「合理性」の中に組み込まれてバランスが取れなくなった瞬間、僕らは何かを失う気がするのだけれど。
狂ってしまうのだろうけれど
狂うなら、狂ってしまえ
そんな言葉が、思い浮かんだ。
妖精さん!
僕らは果たして、正常でしょうか?
正常とはなんでしょうか?
ーーー
TEDの話で「天才」がでてきたからもう一つ話しておくと。
「天」は、「大」の「頭」を表す。
「大」は「人」が手足を広げた姿を表す。
「天」は、僕らのことだ
(「気になる漢字」 漢字 語源 と検索すると元々の意味が出てくる。「人」という漢字の語源が気になる、そこのあなた!)←ちなみに諸説ある。文脈が違えば語り方も変わる。
僕らは、飛び回っているか。
僕らは、踊っているか。
僕らは、小さく細切れにされて、焚き火の勢いで宙に飛ばされてひらひらと舞い上がり、落ちているだけではないのか。(ソレも悪くはないのだろうか。
(そうした無秩序、小さな共同体間に生じる問題への向き合い方の一つの答えが、「法」だったりする。「法」以前の「掟」のあり方を、僕らは想像できるだろうか)。
そういう物語を、僕は語りたい。
心から、笑いたい。
(脳みそから、笑いたいのではない)

僕らは、生み出しているのか。生み出されているのか。
あまりにも、森の力が、弱まっている気がしている。
森には、「死」のにおいが漂っている。
街では「死」が隠される。
それは果たして「不合理」なのだろうか。←安楽死制度の話をしてもいい
「森の妖精」という言葉は、いろんな話の、いろんな感情の、思考の、呼水になる気がしている。
▶︎ 削ること
多分僕らの命もおなじことで、「論理」に削られた妖精さんの姿を想像することが、僕らの「息心地」に拘るのではないか。抑圧したり、なかったことにすることで失った全体性というものを、僕らは想像できるだろうか。
親、友達、仲間。
どこか不完全に生まれた僕らが全体性を、コレクティブなあり方を、求めていないか。その力の駆動点として「森の妖精さん」が、少なくとも僕ら3人にとっての森の妖精さんが置き土産をしにやってくる場所として機能しないだろうか。
ーーーー
彫刻で有名なロダンは「そこにある。削り取って、見せるだけ」みたいな言葉を言った気がする。削ることで見えるものも、もちろんある。(この文章が発散的に書かれている、読者を意識していないから読みにくい)。
削り取ったものが、削り取られたものが、本質を損ねているかどうか。
その痛みを忘れるために、僕らは代償行為を繰り返していないだろうか。
「声」がする。
その「声」を聞き取れるだろうか。
「あ、ごめんごめん、削っちゃった」
「僕はそこにいたのにな」
最初に削るべきは、声をかき消す騒音なのかもね。
ーーーー
突然やってきたダイモンに、なんというか。
「今ソレどころじゃないんだ」
「じゃあ一体、いつになったら?」
音楽が、絵が、芸術が、その場所であり、時間であることを
僕は想像している。
(安心して食べられる食べ物と同じくらい、安心して関われる人は、大事なはずだ)。
僕は貰い物でできている。
感謝している。
そういう小さな感謝を伝え合っていたら、何かが起きる気もする。
エリザベス・ギルバートさんがTEDで話題にしている「創作者殺し」は外からのプレッシャーであり、街の妖精さんのことかもしれない。それは誰かからの期待であり、空気であり、知らない誰かの視線かもしれない。
なぜ僕は、「月」を特別だとおもうのか。なぜ昔の人は「月」をちょくちょく詠んでいたのか。最果タヒさんがそのことを書いていた。

月にも、妖精さんがいるのだろう。
街の妖精さんは「ビジネスbusiness」という言葉を知っている。
森の妖精さんは「仕事job」という言葉を知っている。
そう思った。

一口、食べるための仕事。
魂の食事。
「森の妖精さんの食卓」
それは仕事jobというより、使命missionのような響きをもっている。
言葉は削り取られて、スカスカで、おいしくもない、見てくれになっていないか。言葉が一体どんな「力」になるだろう。
とりあえず、内発的動機という言葉より、森の妖精さんの方が、「力」になると思った。(hitoikiは反省している。ターン終了
ーーーー
▶︎ トランスと乖離
TEDの動画でトランセンドという言葉が出てきたから引っかかった。
ネイティブアメリカンの儀式は、「超える」ためにある。
「痛み」を伴うものもあれば
「回復」を伴うものもある
どちらも、個を超えて共同体の「一体感」の中に入ることで得られる経験を提供する。
これが娯楽化、芸能化したものが「スポーツ」であったり「アニメ」であったりする。そこに「一体感」を感じるために、サポーター同士が仲良くしたり、「界隈」ができたりする。
必要なのだ。ろう。
(ニコニコで「ネタ曲 ボカコレ2025夏TOP100ランキング参加曲」でタグ検索)
僕が「乖離」という言葉で表している現象がある。もともと一つのものが離れている状態を指し示す。これが「問題」になるケースがある。生きづらさ、というものも、「乖離」からくるものではないかと思う。
森の妖精さんに、あなたも会いに行きませんか。(そんなことできるのか?森の妖精さんがやってきやすい場所はあるかも?しらんけど)
妖精さんは点で現れるとして
光をぽっ、ぽっ、と落としていくとして
それを線でたどるくらいのものを、論理だとおもいたい
とおもう。
その光のか細さを、すいとーすぃさんの、この作品の「見えない文字」に感じる。
ソレは、確かに、ある。のだけれど。
聞こえますか。
▶︎ スキゾキッズとパラノキッズ(20260205加筆)
狩猟型と、農耕型、というより、非定住型と、定住型、と言った方がいいとおもった。スキゾ型とは、旅人のような生き方だとおもったらどうか。
(ボカロPになりたい。と思っている人は、ボカロPで定住しようとしている。といえるだろうか。イラストで食べる、という人はパラノ型の暮らしを想像しているのだろうか。ソレを目標、目的にするのか。ソレが結果なのかは、違う)。
政治とは、コミュニケーションの最適化であり、いかにして、何を「創造」するのかを調節することだと思っている。
定住型の生き方で、「会社」で「安定して」?稼いだお金を、非定住民が「不安定に」使うことを、定住型の生き方をしている人がよろこべるだろうか。そういう関係を、作れたら。息やすいのかな。
反旗を振り回さないヴィラン。ただ、仲間がそこにいるぞと、風が揺れてたなびく旗を僕は想像する。スキゾ型の本性を持つ人がスキゾを営むことができない、「論理」の中で無力化されてしまうのは、悲劇かもしれない。
そんな森を、僕は想像している。
森の妖精さんの音楽性(20260207加筆)
どんな音楽でも街性と森性が混ざっているとして、やっぱり色合いは違う。振る舞いは違う。

ノイズという言葉がある。
ツイッターをゴミにする拡張機能作った ツイッター開きたくなくなった pic.twitter.com/JFP5hNEMmj
— Renard (@Renard_VRC) February 6, 2026
ノイズにもいろいろあって、意味がわからないものをノイズと僕は言ってみる。
ノイズでないものは、意味を持つ。ある意味で合理だし、非合理ともいえる意味もあるのだろうけれど。
ygchさんの「広い音楽」というのは、森の妖精さんを想像させる。
Kiiteのプレイリストがある。ぜひに。
お金の話
お金の話になった。僕はお金のことを知らない。知らないどころか、「お金」に関わることが「よくないこと」を生み出すような偏見をもっている。
僕は「お金」を知らない。経験がない。(舞台音楽を作っていたときに報酬をもらったことはあるけれど、よくわからなかった)。無頓着だとおもう。
音楽を作って、どうしてお金になるのか?最果タヒさんはエッセー?の中でなんて言ってたっけ。詩が誰かの役に立つなら?対価として?お金をもらって当然?いや、違うな。そんなことは言っていなかったとおもう。
僕はニコニコの広告を思う。なぜ人は広告をするのか。僕は有名な曲が広告され続けているのはなぜかを考えると、ついつい人の弱さを想像してしまう。けど、一方で、根源的な(弱さというより健全さと呼びたい)関係性に近い広告という営みも想像できる。
僕は無料のポイントで広告をする。「大きないいね」「本当のいいね」くらいの気持ちだ。僕がその曲に関心をもった、ということを作者に伝えたい、という気持ちがある。その気持ちが作者の創作の営みに寄与するものになることを想像する。広告の代わりに「言葉」を贈っても同じことだと思う。「言葉」の方が、いいくらいだ。「お金」はその点、便利だ。(路上でギターを弾いていた時、缶コーヒーをもらったことがあった。ネット上での関わりなら、「お金」の方が都合がいい。くらいのことなのだろうか)。
ありがとうの気持ちを贈る一つの形態が「お金」だとしたら。お金儲け、マネタイズ、という言葉ではなく、ありがとうの気持ちを誰かが僕に贈れる仕組みがあってもいいんじゃないかな。と思った。
ありがとうの代わりに贈り返すものがあってもいいのかな。特典。贈るだけのありがとうを超えて、関係性の「特別」を感じる経験をデザインしてもいいんだろう。
「これは私たちだけの秘密です」
