祖母の中の、もうひとつの暦
来年用のマンスリーカレンダーを、祖母に贈ろうと思い、母に電話をしてみた。
「それがねぇ。今、カレンダーが役に立たなくなっているのよ」と母。
祖母の物忘れが進んでいる。特に、日付を覚えることが難しくなってきたという。
今日が何月何日なのか。
何曜日なのか。
そうしたことが、少しずつ分からなくなっている。
二年ほど前までは、商工会議所の会合に出かけ、祝宴の席では日舞を披露し、委嘱作家としてかな書道の作品を生み出し、SNSにも毎日投稿していた祖母。活動的だった頃の祖母のマンスリー手帳は、いつも予定でびっしり埋まっていた。
祖母の家の中には、母によっていくつものカレンダーが今も掛けられている。それでも、それらはもう以前のように、「今日」を教えてくれるものではなくなっているらしい。
その話を聞きながら、私はふと考えた。
暦が分からなくなった祖母は、今、いったいどんな時間の中を生きているのだろう、と。
八月十一日。
火曜日。
午後何時。
時計やカレンダーは、私たちが時間の中に生きていくために、時を測り、数え、言葉にしてくれる。
けれど、よくよく考えてみれば、時計やカレンダーが時間そのものを生み出しているわけではない。「八月十一日」という数字を忘れたとしても、夏そのものが消えてしまうわけではない。
日付を知るひとの上にも、忘れたひとの上にも等しく、朝は朝として訪れ、夕暮れは夕暮れとして降りてくる。季節はなおも巡り、光は移ろい、樹木は芽吹き、花は咲き、葉を落とす。
不可思議なるかな、人間がそれを「八月」と呼ぶ以前から、世界には時の流れがあった。そして現に、祖母は手帳的な「時間」の感覚を失いながらも、変わらずこの世に生きている。しかも、今をそれなりに楽しみながら。
それはどういうことなのだろう。
もしかすると、祖母の中には、私たちがカレンダーと呼んでいるものとは別の層に、何かもうひとつの「暦のやうなもの」があって、祖母はその時の刻み、その流れの中に生きているのではないだろうか——。
庭にいる猫たちのことを考えた。
猫たちは、時計をしていない。マンスリーカレンダーも持っていない。それでも彼らは、不思議な仕方で光の長さを知り、暑さを知り、風を知り、夕暮れを知っている。毎日、彼らの行動をつぶさに見ている私は、その「識」に驚かされる。
樹木もそうだ。
花を咲かせる時を知り、葉を茂らせる時を知り、葉を落とす時を知っている。蝉や蟻もまた、私たちの時計とはまったく別の仕方で、「時」を知っている。
現代人は、時間を測ることに、とても長けている。
時計。
カレンダー。
予定表。
スケジュール帳。
ハビット・トラッカー。
バレット・ジャーナル。
リマインダー。
通知。
締切。
「何時までに」
「何日までに」
「何歳までに」。
時間を管理し、整理し、予定し、記録することに、私たちは忙しい。けれど、その一方で、時間を感じることは、どうだろう。時間を知ることと、時間を感じることは、同じではないと思う。
「八月十一日」と知ることと、八月という季節を身体や心で感じることは違う。「午後六時」と知ることと、夕暮れが一日の終わりを連れてくる気配を感じることも違う。
そんなことを考えているうちに、日本の俳句のことを思った。
俳人は、時計を見て季節を書くのではない。蝉の声を聞き、風を感じ、月を見上げ、朝の光や夕暮れの色を受け取り、その一瞬に宿る季節を言葉にする。
俳句は、時間を説明しない。たぽんという一つの音、一つの光、一つの草、一つの風を置く。すると、その小さなものの中に、季節全体が立ち上がってくる。時の一瞬をすくい取り、季節のひとひらに触れる。
けれど、俳人が時を作り出しているわけではない。そこにすでにある世界の実在に五感を澄ませ、その世界が差し出しているものを受け取り、言葉にする。
カレンダーが日々を数えるものだとすれば、俳句は、一瞬の中に宿る季節を感じ取るもの。そのどちらも、私たちの命名より先に存在する世界の時間へと、私たちを向かわせてくれる。
俳句のたった十七音の中に、その日の空気が残る。過ぎ去った夏を読んでいるはずなのに、その句を読む瞬間、遠い夏がこちら側に立ち上がってくる。
それは、失われた時間が、別の仕方で今に触れてくるということなのかもしれない。
そんなことを考えていると、新約聖書の「アナムネーシス」という言葉が頭をよぎった。
記憶すること。
過去が、今の中に立ち上がること。
そして、「カイロス」。
聖書においては、神の御業が現れ、「時が満ちる」時。
その神秘が最も深く現れるのが、永遠なる神の御子が、時間の中へ入って来られた受肉ではないだろうか。
永遠なる方が、時間の中に生きられた。だからキリストにおいて、時間は単なる「過ぎ去るもの」ではなくなったのだ。
教会暦もまた、その神秘を生きるための暦なのだと思う。そこには人間の歴史の中で形づくられてきた側面もある。けれど同時に、それは、天と地を結ぶ、いわば「あわい」の歳時記、といっていいのかもしれない。
一年は巡る。
けれど、それは同一の繰り返しではない。
去年の復活祭と今年の復活祭は違う。去年の私と、今年の私は同じではないのだから。同じ祭りが巡ってくるたび、私たちは少しずつ違う場所から、その同じ神秘の前に立つ。こうして教会の典礼は、地上の時間を天へと開いていく。
受肉によって時間の中に入られたキリストにおいて、天と地が触れ合う。そして、もしそうなら、時間は私たちをただ老いさせ、奪い去っていくものではないはずだ。
神の御手の中では、失われることと、変えられることは同じではない。時間もまた、主の御手の中で変容される。こうして、過ぎ去った一日は無意味に消えていくのではなく、主にあって私たちの存在の中に刻まれ、やがて神の永遠の中へと受け取られていく。
だから、老いとは「時間から脱落していくこと」ではない。記憶が薄れていく人も、身体が思うように動かなくなった人も、誰かの助けを必要とするようになった人も、時間から外れてしまった人なのではない。
神の時間の中に、なお生きている尊い存在——神のかたち、イマゴ・デイなのだ。
今日が何月何日なのか分からなくなっていく祖母。
けれど、その祖母の中では、なお「内なる暦」が、静かに時の頁をめくっている。
そして私もまた、その暦を感じてみたいと思う。
時計を見る前に、朝のひかりを身に浴びたい。
肌に季節を感じ、窓から差し込む光の角度を見、風の匂いを知り、蝉の合唱に耳を澄ませたい。
五感のすべてを通して、時の流れ、季節の流れ、そして時代の流れの、その繊細なひだに触れていたい。
そうして、「2026年」という数字だけでは知ることのできない、いまという時代の息づかいに、こころの耳を澄ませていたい。
一日の時間。
季節の時間。
人生の時間。
そして、時代の時間。
それらすべてが、神の御手の中にある。
いつか、私自身もまた、今日が何月何日なのか分からなくなる日が来るのかもしれない。何曜日なのか分からなくなる日が来るのかもしれない。時計を読めなくなる日が来るかもしれない。
でも……。
そのときにも、窓から差し込む光を感じ、風を感じ、鳥の声を聞き、夕暮れを知ることができるなら。
天の薫りする「あわい」の歳時記が、たましいの韻律を静かに奏でていたとしたら、どんなにいいだろう。
そのとき私は、祖母は、そして私たちは、「時間を失った人」としてではなく、永遠へとつながる「時」の中を旅する人として、なおもそこに在るのかもしれない。
