比叡山延暦寺⛄
延暦寺はなぜ山号をつけて比叡山延暦寺と呼ぶ?
延暦寺の開祖最澄は滋賀県の坂本の人(他説あり)。つまり最澄にとっては、比叡山は裏山であり、そこに延暦寺を設けたわけだ。したがって、延暦寺の大半は比叡山の滋賀側にある。
多くのお寺は山号を持つ。音羽山清水寺とか、瑞龍山南禅寺とか、東山建仁寺とか。でもあまり、山号をつけて寺の名を呼ばないし、山号を知らないことも多い。なのに、延暦寺の場合、一般的にわざわざ比叡山という山号つけて比叡山延暦寺という。どうしてかなあ。
法然、親鸞、一遍、道元、日蓮らを輩出した延暦寺は日本仏教の母であり、御所の東北の鬼門を守る重要な寺である。比叡山は京都市中心部からも目立つ美しい山、ある意味京都の象徴たる山だ。
意図的かどうかは別として、比叡山と山号をつけることによって、延暦寺を京都のものにしてしまおうという京都人の深謀遠慮があったのではないか。企ては長い時間をかけて成功しているように見える。延暦寺が京都の寺だと思っている人は結構いる。
延暦寺の雪だるま
年の瀬、神社仏閣では煤払いお身拭いなどの大掃除、お正月の飾りつけ、初詣客の受入れ準備など忙しそうだ。そんな中、京都側から延暦寺に行ってみた。初詣の時期を過ぎると、京都側からは叡山ケーブルも叡山ロープウェイも、比叡山内シャトルバスも京都からのバスも冬季運休になるから、滋賀側から通年営業の比叡山坂本ケーブル、あるいは車で行くしかなくなる。
大比叡ケ岳の山頂は848m。山の上だから当然寒い、標高が100m上がると気温は約0.7度下がるので麓より5、6度低い。積雪もあるし、路面の凍結もある。わたしが訪れた時には、一部雪が残り、道路に残った雪が凍結したりしていた。大講堂の前には、だいぶん融けかかっていたものの、大きな雪だるまがあった。お坊さんも雪にうれしくなったのかしら。寒い中での厳しい修行はさぞたいへんだろう。

この時期シャトルバスは西塔や横川には行かず、比叡山頂と延暦寺バスセンターの間のみの運行。バスセンターは東塔の入口。
根本中堂は大改修中で、ひとまわり大きな建物で覆われていて、外観全体を見ることはできない。が、中に入って、ふだんなら見られない改修の現場を見学できるし、1200年輝き続ける不滅の法灯も見られ厳かな気持ちになる。最新技術による工事と長い歴史の重み、ふたつが違和感なく融合している。

『二人の稚児』
根本中堂への入り口にあたる文殊楼の前に、谷崎潤一郎『二人の稚児』の案内板があった。
女人禁制の比叡山に幼いころに預けられた二人の稚児。思春期になり俗世や女性への興味がムクムク湧いてきて、年上の稚児は山から逃げてしまう。この先輩稚児は俗世で逆玉に乗り幸せに暮らしている。で、先輩稚児は残った稚児に使いを出し、俗世に誘う。残った稚児と使いの者が会うのが文殊楼の前というわけである。若い稚児はその申し出を断るのだが、そのとき谷崎は若い稚児に「女人の情よりも、やはり御佛の恵みのほうが有り難い」と言わしめる。あれ? 谷崎といえば、女性大好き、官能大好き、性愛大好き。つまりは女人の情大好きでなかったっけ?
このお話に延暦寺の子細な情景は描かれないが、谷崎は延暦寺を訪れている。文殊楼の石段に腰かけて想をめぐらせたりしたのであろうか。
『二人の稚児』の初出は1918(大正7)年。一方各交通機関の開業は
叡山ケーブル 1925年(標高差日本最高)
叡山ロープウェイ 1928年(叡山空中ケーブル、今とは別ルート)
比叡山坂本ケーブル 1927年(日本最長)
比叡山ドライブウェイ(延暦寺から北側) 1958年
奥比叡ドライブウェイ(延暦寺から南側) 1966年
となっている。いずれも『二人の稚児』の初出より後である。ということは谷崎は歩いて上がったはずだ。結構な登山だったであろう。
『二人の稚児』の最後の場面は年末。絶え間なく降り続ける雪、あたりは一面の銀世界になっていく。
一隅を照らす
「一隅を照らす」とは最澄のことばである。照于一隅、此則国宝。ひとりひとりが自身の置かれている場所、立場において、最善を尽くし精一杯努力する、そういう人こそ国の宝である、という意味だ。
もう30年も前のことになろうか、わたしの高校の地学教師であり、所属したクラブの顧間でもあった恩師のエピソードが本に出ていると知った(山崎章郎『続病院で死ぬということ』文春文庫)。故人である先生の話は本の最後『最後の教壇』に登場する。
自分のガンが施しようもないと知リホスピスに入った先生は、ある日かつての教え子から同窓会の招待状を受けとる。しかし行ける身体ではない。そこで先生は、教え子たちに病院で授業することを考えつく。病院の会議室を教室にして、吐き気を抑えるために直前に胃から貯留物を出し、点滴用チューブを背広の下に隠しこんで、授業は行われた。自分が「ガンになったこと、そのガンをかかえて今自分は生きているのだということ、そのガンは治ることなく、まもなく自分に死が訪れること、だが、自分はたとえ末期ガンであったとしても、ホスピスという場で、このように授業なども持ちながら、自分のベースで生きていること」などを話されたという。
実直な先生のことだから、誇張も不足もなくたんたんと話されたことだろう。先生は渾身の力をふりしぼって行ったこの授業で何をいわんとしたか。自分の死を美化したり、悲劇のヒーローを気取ったり、喝采をあびたりすることを先生が望んでいたとは、わたしには考えられない。
先生が身をもって教えたのは、もっと何でもない、ごく普通のことではなかったか。歴史に残るような大事をなすことではなく、金や出世、社会的名誉といったものでもない。それぞれの制約や限界の中で、ふさわしい生き方をする。この世に生を与えられた者が、その生を一所懸命、前向きにまっとうする。そういうことだったのではあるまいか。
「一隅を照らす」とはまさにこういうことなのだろう。
カバー写真は、鴨川からの比叡山
