江戸時代日記 その4 『「文治政治」は何を生んだ?』
今回のお題、『「文治政治」は何を生んだ?』であるが、やはりひと言でいうならば「平和」を生んだんだろうな。武断政治からの転換、文治政治こそが天下泰平の礎なのだろう。

「平和」には治安の良し悪しが非常に重要である。そこで治安を良くするために、まず大名の取り潰しを減らして牢人の増加を防いだのは大きい。それまでは後継ぎのいない大名はようしゃなく取り潰されていたとか。当然、主君を失った武士は皆、牢人となるのだ。
江戸期以前の乱世・戦国期にはその牢人が大量にプラプラしとったらしいぞ。刀持ったヤバそうな連中がそこらへんに歩いとるんじゃ。そりゃ危ないわ。そんな牢人が江戸期にも普通にプラプラしとったら物騒で、平和とはほど遠くなるわな。

そこで1651(慶安4)年、4代将軍家綱は「末期養子禁止の緩和」を図る。ようするに、いくつかの条件付きながら養子を後継ぎにすることを認めるというものだそう。これによって大名の取り潰しは激減し、それにともなって牢人も激減したようなんだな。
また「殉死の禁止」「大名証人の廃止」など、これまでの強大な軍事力を背景にした殺伐とした武断政治から、治安の回復と人心の安定を重視する文治政治へと方向転換を図るのである。
と、そこでふと見ると、テキストには何気にこのような人物の名前が載っていた。

保科正之である。番組では触れず、テキストではサラッと紹介されているだけだが、ネットで軽く調べてみるとどうやらかなり優秀な人物のようだ。
保科正之は2代将軍秀忠の隠し子で、3代将軍家光の異母弟なんだな。で、高遠藩藩主の保科家へ養子に出されたとか。ということは家康の孫にあたるぞ。そのため保科を名乗ってはいるが、れっきとした徳川の血筋なんだな。
そして紆余曲折を経て兄である家光に仕えることとなる。その家光が亡くなると、嫡男である家綱はわずか11歳で4代将軍に。そして家光の遺言で、保科は家綱の補佐役を託されるのである。

そこでひとつ気づいたのだが、11歳の家綱が将軍に就任したのは慶安4(1651)年、そして前述の「末期養子禁止の緩和」も同じ慶安4年。いや〜これはね、実質、保科正之が決定して実行したんじゃなかろうかのぉ。だって家綱はまだ11歳だぞ。
ともあれ、保科正之という男、マジで只者ではなさそうだぞ。番組は5代将軍徳川綱吉を中心に構成されていて、保科正之には少しも触れていない。
しかしわし個人的には本テキストにあった保科正之。彼に注目しながら、さらに江戸期の勉強を続けていこうと思う。
……………
ついでながら、5代将軍綱吉直筆の書「思無邪(おもいよこしまなし)」。……え、なんだろ、この不思議な字。っていうか何とも頼りない腑ぬけた字。っていうか、もうハッキリ言っちゃおう。めっちゃ下手クソだぞ。
でもなんだろ、なんかいいなぁ〜、下手クソ過ぎてむしろいい味出してるような。なんだか綱吉の妙な心意気を感じるぞ。ヘンでもいい、下手クソでもいい、そんなことはもうどうだっていい。これがわしの心の叫びなんじゃ〜ッと、ガンバって書いてはみたものの、これがまたどうも今ひとつ……
という綱吉の人柄がとてもあらわれてて……好き❤️

『「文治政治」は何を生んだ?』

4代将軍 徳川家綱 → 家綱から「文治」にシフトし始め、綱吉でピークを迎える
文治政治 → 法律や制度で支配する
武断政治 → 武力によって支配する
幕府が庇護者としての立場を前面に出したのが「文治政治」
最近では「文治政治」ではなく「文治主義」といわれるように→ 「武断政治」は「武威」といわれるように

保科正之(家光の弟)→ 災害救済や都市整備をおこなう
住む場所を失った人のために救小屋(すくいごや)を設けて、米の支給や仕事のあっせんなどをおこなった

徳川綱吉 → 犬公方(いぬくぼう)
貞享2(1685)年、「生類憐(しょうるいあわれ)みの令」
犬だけでなくイノシシ、シカ、クマ、オオカミ、ネズミ、ヘビなども殺生を禁止する

中野御用御屋敷(中野犬小屋)→ 江戸城から8kmほど(現在の中野駅付近)に建設した犬の保護施設
多いときで10万頭、エサ代で年間9万8000両(およそ100億円)
綱吉は「生類憐みの令」ですべての生類を大切にする社会をつくろうとした → 儒学と仏教の両方のいいところをとって社会の安定をはかる
綱吉は死罪を命じたわけではなくて、配下の武士たちが苛烈な行動をとってしまった → 忖度の政治

徳川将軍家が盛んにおこなった鷹狩や追鳥狩などの行事は軍事教練を兼ねていた
飼育に犬肉などが用いられていたため、鷹狩も廃止した → 鷹狩をやめたことで野犬が飛躍的に増加し、都市をうろつくようになった
食用の鳥や魚は殺したものであれば売買が許された
綱吉の正室である鷹司信子は公家の出身 → 貴族は日常生活の中で触れる「けがれ」に神経をとがらせていた

赤穂浪士の吉良邸討ち入りの場面が描かれている
元禄14(1701)年3月14日 元禄赤穂事件
浅野は切腹、吉良はお咎めなし → 綱吉の処罰は不公平ではないかと武士たちは思う
赤穂藩は改易となり、藩士は浪人となった
元禄15(1702)年12月14日 討ち入り、吉良の首をとり主君の仇をとる
主君の仇討ちとは何たる忠義者と江戸庶民は拍手喝采 → 「忠臣蔵」

忠孝札(ちゅうこうさつ)→ 天和2(1682)年、綱吉が全国に立てた高札(こうさつ)。主君への忠義と親への孝行を奨励
忠孝札によって庶民に「忠」「孝」の概念が浸透した

江戸中期、金銀の産出量が激減した上に大火の復興によって支出が増加 → 財政悪化
綱吉は寺社造営に推定70万両以上を投じた

綱吉 筆
「思無邪(おもいよこしまなし)」→ 心の中に邪悪な思いはない
元禄16(1703)年には大地震、宝永4(1707)年には富士山噴火と、相次ぐ災難
「いい事をやってきたのにどうして誰もわかってくれないんだ」という思い
「生類憐みの令」は綱吉が亡くなるとただちに廃止
捨て子の保護や牛馬の遺棄の禁止など、綱吉の死後も継続した法令もある
