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【虹色創作部】夏と海と、僕らは日常(4)

本画像は虹くりっぷさん企画ページよりお借りしています。

第四話

・‥…━━━★
 彼女はずっと、そこにいた。水色のワンピースを着て、濡れた砂の上に体操座りをしている。長い髪をゆるく束ねた背中には、あどけなさと静けさが入り混じっていた。海はおだやかで、風もなかった。夏の終わりのひとときだけ、世界が一度、息を止めているようだった。
 彼女は、ただ波を見ていた。その視線の先に、何かを期待しているようでもあり、なにも望んでいないようでもあった。
 ――18歳になるまでに、もし来なければ。
この言葉が、何度、頭の中を巡ったか分からない。まだ先だと思っていたその日が、とうとう明日に迫っていた。何かを決めなければならないのに、自分が何を決めようとしているのか、彼女自身にも分からなかった。
・‥…━━━★

『私はただ、今日もお茶を淹れるだけ。〜庶務・佐藤の静かな戦い〜』

 気づけば40年以上、この会社にいる。入社した時は、FAXも無く、コピーはガリ版。エクセルもパワポも存在しない時代に、私はこのオフィスでお茶を淹れ、書類をまとめ、ハンコを押してきた。派手な仕事はしていない。でも、社内の大体のことは見ていれば分かる。たとえば今日―――
 会議室の窓から差し込む夏の光が、白い壁を斜めに切り取っていた。ガラス扉の向こうをスーツ姿の社員たちが歩き過ぎ、遠くで電話のベルが一度だけ鳴る。

月曜日 朝9時3分。

田中くんが机の上の書類を5mmずらしたのを見て、私は思った。
(ああ、今日も課長が思いつくな)
そして3分後。
「おい田中くん!今週はBプロジェクトだ!」
はい、きた。ビンゴ。田中くん、返事は穏やかだったけど、声のトーンが2ヘルツくらい低い。コピー機が「ガガガ」と紙を吐き出す音に紛れて、ため息のリズムが伝わってくる。
(ああ、胃が痛いのね)
私は引き出しから胃薬をそっと取り出して、彼のデスクに置いておく。窓の外では市営バスがゆっくりと停留所に停まり、乗り降りする人影がちらりと見えた。何も言わず、視線も合わせず、ただ“置く”。
『…ありがとうございます。』
「(声ちっさ)気にしないで。昨日の残りよ。」
うそ。新品。

木曜日 13時17分。

 背後のホワイトボードには、昨日の議論の走り書きが消し残っていた。「売上↑」「方向性?」などの矢印が重なり合い、もはや抽象画だ。そんな背景を背負いながら、社長登場。アロハシャツ。サンダル。なぜか手にスイカバー。
(今日は何かが始まる)
「Ωプロジェクトだ!!」
はい、始まった。社長の声に合わせて、執務室のほうから誰かの笑い声が漏れてくる。課長の目はキラキラ、少年漫画の主人公みたい。田中くんの目はその対極、潤いを失ったサボテン。ガラス越しに差し込む光がそのコントラストを際立たせる。
「社長、やっぱり視点が違いますよね!」
「でしょ!?俺、昨日の夜テレビでイルカが泳いでいるのを見たのよ!それでピンときてさ!」
田中くん「(聞こえないふり)」
私は黙ってポットを持ち、4人分のお茶を淹れる。テーブルの上には書類やタブレットが散らばり、湯気の向こうで社長の湯呑み“日本一”が光を反射する。課長には“努力”、田中くんは“無地”。これがバランス。

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 彼女は、マリオネットが流れ着くのを待っていた。けれど、それが“一族の一部の者にだけ、稀に訪れるもの”であることを知っていた。自分のもとにも届くのではないか——そんな期待がいけないことのような気がして、彼女は今日も、ひとことも発さずに波を見つめるしかなかった。
 ふと、胸の奥に浮かぶ情景がある。あの小屋。古びた棚、油のにおい、くもったランプの明かり。濡れた人形を毛布に寝かせながら、黙々と針を進めていた背中。まるで誰かの夢の続きを縫い直すように。音もなく、ため息ひとつなく。
「おじいちゃん……。」
心のなかで、そっと呼んでみる。小さな頃、彼女はあの作業のそばがお気に入りの場所だった。決して手を出してはいけない、でも決して邪魔にはならなかった。作業の最後に、人形の手をそっと握ってから、窓の外を見る。人形は朝になれば姿を消すこともあった。残った人形は棚に並べられた。「居場所が見つかったんだ」と言っていた。
・‥…━━━★

 そっと社長の横に湯呑みを置いたとき、社長がポツリと言った。
「佐藤さんはさ、何も言わないけど全部見てるよね。」
「そりゃあ、40年以上見てますからね。」
「…怖っ。」
笑いながら言う社長。でも一歩引いた。差し込む夏の光の中で、その一歩が影を作る。そう、私が“やりすぎ”のストッパーだと、この人は知っている。

金曜日 18時32分。

エレベーター前では数人が並び、夕陽が背中を染めていた。会議室から戻った田中くんが、こっそり私に尋ねる。
「佐藤さん、Ωプロジェクトって、本気で進めるんですかね…?」
私は答える。
「進めるわよ。でもね、どうせ来週には“Σプロジェクト”に変わるわ」
「えっ」
「社長、今朝ギリシャ文字表のカレンダーめくってたから。次はシグマよ。」
「…そんなことで…?」
「ええ、でも大丈夫よ。あなたが資料の“日付”をちゃんと変えて出せば、社長は“いいぞ!”って言うから。」
「え…えええ…。」

・‥…━━━★
 彼女は、その手元を飽きもせずに見つめていた。自分にも、いつか——。その気配を感じられる日がくると、どこかで信じていた。けれど、今日も波はなにも運んでこない。風がやんだ浜辺に、小さな影が差す。少女の目には映らない場所で、波間に小さく浮かんでは沈む青い破片が、朝陽の名残を一瞬だけ反射させた。
 少女は気づかない。ただ膝を抱え、静かに目を閉じる。自分には、なにもない。その髪が、海の風にほんの少し揺れた。そのとき、遠く沖の方で、ふたつの波が重なり、すぐにほどけていった。
 まるで、誰かのひらめきが、どこにも届かずにほどけていくかのように。
・‥…━━━★

 私はふと濡れた砂の上に座りただ待っているだけだった幼い頃の自分を思い出して微笑む。遠くでコピー機が鳴り、波の等間隔に似たリズムで紙が積まれていく。窓の外には夏の潮風が通り過ぎる。この子(田中くん)もすっかり“この会社”の人間になってきたわね。さて、そろそろ“Σ”のファイルも作っておこうかしら。40年の勘が告げているのよ。

来週、水曜日―――シグマ降臨。

fin

夏と海と、僕らは日常(完)

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