8という数字(日曜エッセイ)
※今回は数字の話です。
(いつも通り、途中から時間のムダになります)
私は昔から、
「8」
という数字が好きである。
理由は分からない。
何となく好きなのである。
数字にも、
相性のようなものがあるのかもしれない。
先週の日曜日の夜、
数秘術の記事を読んでいた。
水晶ゆめさんの新作である。
数秘術とは、
誕生日から数字を計算し、
その人の本質や性格を読み解く、
という考え方である。
私は占いには詳しくない。
しかし、
「数字から何かを読み解く」
という発想だけは、
昔から嫌いではない。
最初に知った時に計算してみた。
すると、
私の数字も「8」だった。
少し驚いた。
好きになれないどころではない。
最初から、8は好きである。
好きだった数字に、
後から理由を付けてもらったような気分だった。
(投稿された日曜の深夜にこの記事にインスピレーションを受けた)
(そして土曜日の今、大急ぎで仕上げにかかり始める)
(ここから先はムダな記事です)
もっとも、
ここで少し考えた。
私は、
8だから好きだったのか。
それとも、
好きだった数字が、
たまたま8だったのか。
もし計算結果が7だったら。
私は、
「なるほど。」
と思っただろうか。
それとも、
「計算がおかしい。」
と言い始めただろうか。
人間という生き物は、
案外そんなものかもしれない。
そう考えると、
私は数字そのものより、
数字に意味を見つけることが
好きなのかもしれない。
6174。
142857。
40垓。
23人。
365.2422日。
どれも、
数字だけ見れば、
ただの数字である。
しかし、
そこに物語が生まれた瞬間、
急に面白くなる。
ところで。
日本人は、
そもそも、
数字に意味を付けるのが好きらしい。
八百万の神。
八百屋。
八百長。
八方美人。
末広がりの八。
どこを見ても8である。
しかし、
よく考えると、
八百万の神は、
本当に800万柱いるわけではない。
八百屋も、
800種類の野菜を売っているわけではない。
八方美人も、
8方向に笑顔を振りまいているわけではない。
八百長にいたっては、
数字としての8が
どこへ行ったのか、もはや分からない。
どうやら日本語の8は、
「たくさん」
「全部」
「縁起がいい」
そんな意味を背負わされているらしい。
数学では、
8はただの8である。
7の次で、
9の前。
それ以上でも以下でもない。
しかし日本語の中では、
8は働きすぎである。
私は少し心配になった。
あまりにも「8」は重労働である。
少しくらい休んでもらおうと思った。
横にして寝かせてあげた。
「 ∞ 」
大変なことになった。
休ませるつもりが、
無限大になってしまった。
億。
兆。
京。
垓。
そんなものは
もう問題ではない。
銀河どころか、
「子育て宇宙レベル」を超えてしまった。
八面六臂の大活躍である。
(ここでも8なのか)
休ませるどころか、
残業まで増やしてしまった。
申し訳ないことをした。
そういえば、
音楽にも8がある。
ドレミファソラシド。
8つ目で、
また同じ「ド」に戻ってくる。
オクターブである。
進んでいるようで、
元の場所へ帰ってくる。
毎週日曜日に、
またエッセイの締切がやってくる私と、
少し似ている。
似ていないかもしれない。
数字には意味があるのか。
それとも、
意味を付けたがるのが
人間なのか。
私はまだ分からない。
ただ一つ分かることがある。
私は今週も、
数字で遊んでしまった。
そして、
8だけは、
今週も休めなかった。
ここまで読んでくださった方々にも
無駄な労力を使わせてしまった。
どうぞ安心して横になってください。
ありがとうございました。
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